あなたがいつも傍にいて欲しい
人を好きになるのは怖い事だ。恋に落ちるなんて、精神的自殺行為でしかない。
ひとりで過ごせていたはずの夜を持て余したり、寂しいという感情に囚われてしまったり。自分の目の前に恋した人がいないと、視界からほんの少しばかり外れられてしまうだけでも、不安に苛まれてしまうなんて。バカバカしいとしか言い様がない。
バスルームに取り付けてある防水加工のラジオは、風向きが変わっているのかラジオ電波が気まぐれを起こしてしまったのか、静かなのに耳障りなノイズを撒き散らしている。それは雨粒の音に、もしくは砂漠に降る砂の雨の音によく似ていて、うっとおしいと思いながらもどこか、耳を傾けてその雑音に聞き入っている自分がいる。
カランを捻り、熱いくらいの湯を出した。
思っていたよりも冷えていたのだろう、肌に、それは痛いくらいに突き刺さる。
人を好きになった。
一晩を、そいつの事で埋め尽くしても到底足りないような気持ちだ。
けれどもそれを、自分は否定しようとしている。今。知っているからだ、その想いに捉えられてしまえば、どれだけ自分が弱くなってしまうかを。どれだけの阿呆に成り下がってしまうかを。
肌を滑り、撫で、そして落ちてゆく湯が、あの白い指先と重なり、慌てて首を振る。意味のない想像だ、身体だけの女だ、恋などという感情を自分は、奴に対して抱いたりはして、いない。その、はずだ。
「なに苦い顔してんのさ、女を待たせるなんてロクな結果にならないよ」
頭の中身ごと水に晒せたら、と複雑な気持ちで顔から湯を浴びていたのだけれど、バスルームのガラス戸が開けられて今まさに考えていた女の声が響いてしまったりすると、動揺が。隠し切れず。
思わず勢いをつけて振り返った途端に、シャンプーボトルを右手に引っかけ、倒した。タイルを叩く、微妙に重たい湿った音。
「……なんの用だ」
「『なんの用』? あんたいつまでシャワー浴びてるつもりなのさ」
「……気が済むまで」
彼女は一瞬真顔になり、けれどもすぐに唇を持ち上げて鼻を鳴らした。
「馬鹿じゃあないの」
どうして自分はこの気が強い女が好きなのだろう。
好きだと告げて、どうなるのだろう、なんの意味もないだろう。
きっと彼女は今と同じ事を言う。
唇を持ち上げて。
鼻を鳴らして。
馬鹿じゃあないの。
簡単に出来る想像。
水色の小さなラジオから零れる、砂嵐のノイズ、シャワーから吹き出す水音。
「分かってんの、したいのはお互いの性欲処理」
「……当たり前だ」
「じゃあこれから身を捧げる処女でもあるまいし、いつまでも水被ってんじゃないわよ」
好きだと告げたら。
いや、まさか。
まさか、自分は言わない、けして言わない、そんな事を口にするぐらいだったらこの想いの方を否定する方が幾倍も、楽。
「ああ、その前髪切り揃えてやりたいわ、ねえ、まるで血に染めたみたいじゃないのさ、なんて趣味の悪い、けれどそこがまた好きだから、あたしはもっと趣味が悪い」
開け放たれたガラス戸から、静かな空気が流れ込んでくる。
動く。
彼女が言った、好き、の言葉だけが耳に残り、可笑しくなるほど自分を戸惑わせる。
「濡れるぞ」
「構わないわ、そのくらい」
どうって事があるかしら、と彼女がシャワーを浴びている背中に張りついてきた。思ったよりも冷たい肌ね、と声が、直接背中へ響く。
ラジオノイズ。
砂漠に降る、砂の雨。
夜を埋め尽くすほどに考えてしまう女が、腰に手を回してくる。
彼女との関係を問われれば、返事を少し考えた後でふたりは声を揃えて言うだろう。ああなに、ただの身体を貸し借りする快楽の共有者さ。
「ああ、お湯が目に入る」
笑い声は高く。
耳に沁みる声に頬が緩むのを慌てて隠したりして。
なんて馬鹿みたいなのだろう。
この心の奥でうごめく感情は、なんだ。これを恋というのなら、自分はそれを、一生知らずにいたかった、そんな、気が。
「どうしてあんたの肌は冷たいんだろう」
背に張りついた彼女の、見えないのにその表情が見える気がした。それを想像してしまうほどの、想い。口に出さないと、心は必要以上に膨れ上がる。意味もなく出口をさまよい、こじ開けるように痛みが。
シャワーに紛れて涙をこぼしてみた。
なんの意味もない事は分かっていた。
この女が欲しいというのが、身体だけであればいいと思った。
恋などと。
そんな甘いだけの幻想に、囚われる自分は激しく醜い、嫉妬がいずれこの身を 焦がしたりするのであろう、そんな醜態は。考えたくもない。
腰に回された手に力がこもる。頬を押し付けているようで、彼女が口を開くたびに背が甘く揺れる。
「あんたと恋愛しなくて済んで良かった」
「……なに、」
「プライドの高い男は嫌い、でもそんな奴にばかり惹かれる、だからあんたとは美味しいところだけを共有できるだけの関係で良かった」
聞き様によっては、ひどく切ない愛の言葉に聞こえるのだけれど、それはただの思い上がりからくる勘違いだろう。
ラジオが知らない歌を流している。砂嵐の混じる、遠い世界の声。
「……そうだな」
言わなくてもいい想いがあるのだ。
言えば終わってしまう、ガラスの城に似た脆さでしか存在し得ない想いが。
水音の満ちるバスルームは、世界から断絶されている。
まるで忘れ去られた水族館のようだ、記憶だけを子守り歌に縛られた自分を意識しないようにできるだけじっとしている、自分達は深海の朽ちた魚に似ている。
恋が怖い。
想いに囚われるのが怖い。
いつか自分が自分でなくなりそうで、それが、怖い。
たとえば、恋焦がれた相手への想いで冷静さを失くした自分は、相手の望む自分ではないだろう。ああ。捨てられるのが怖いのか。恋した者に、いつか別れを告げられるのを恐れているのか。
どうして人はプライドもなく、簡単に恋へ落ちてゆけるのだろう、そんな後先も考えずに、無謀な行動を、なぜ。
「あんたの爪は形がいいのね、後でマニキュアでも塗ってあげるわ」
「断る」
「あら、いけず」
彼女の腕を取り、そっとその身を返した。
勝ち気な瞳が、べったりと濡れた髪に覆われていて、肌がいつもよりも儚く染まって見える。ノイズ。ラジオから雑音混じりの、あれは、恋の歌。
前方に立たせた彼女の、濡れた服ごと身体を抱いて、そっと唇を近づけた。
「いっ、」
下唇を噛まれて、思わず声が出る。
「痛い? 痛い? 眠れないあたしの夜と、どちらが痛いものなのかしらね」
意味ありげな言葉を問いただす間もなく、彼女は噛んだばかりの唇に赤い舌を伸ばして舐めた。水の、味。糸を引く、甘い唾液。
世界から切り離されたバスルームは、水の匂いに満ちている。
嫌味のように、ラジオからはひび割れた音のラブ・ソング。
恋などと、考えたくない頭が逆に意識して爆発しそうだ、言葉にしないまま想いが伝わるなんて一体誰の大嘘だ、と思いつつ。
次は切なく唇を、重ねた。




