第15話 窓口の向こう側
灰石坑道の言葉が、入口前だけでなく政府ギルドの窓口まで来ている。
昨日見えたのは、そこだった。
終わった入り。
向き戻し。
手戻し。
足戻し。
ただ見つけただけではなく、外で覚えられる形と、中で止める形に分かれ始めている。
そこまで来たなら、次に動くのは多分、現場の外側だ。
朝、結人が政府ギルドへ入ると、換金窓口の前で相良環がいつもより早くこちらに気づいた。
「天城さん、少しだけ時間ありますか」
結人は足を止める。
「今から潜る前でもよければ」
「短くで大丈夫です」
相良は書類端末を抱えたまま、窓口の横にある細い通路を示した。
奥に小さい打ち合わせ机が1つある。
普段は査定の補助や確認書類に使う場所だ。
結人が座ると、相良も向かいに腰を下ろした。
「灰石坑道の帰還者の報告で、ここ数日少し傾向が変わっています」
結人は黙って聞いた。
「大怪我がゼロになったわけではありません。でも、1階層と2階層手前での持ち帰り方が前より安定しています。無駄な損耗も減っています」
相良は端末を軽く操作し、表ではなく数行の記録だけを見せた。
日付。
換金品目。
損耗の傾向。
簡易な負傷記録。
数字は多くない。
でも、確かに流れが変わっていた。
「……変わってますね」
「はい」
相良は短く頷く。
「それで、窓口としても一応把握しておきたいんです。最近、灰石坑道で何が共有されているのか」
結人は少しだけ迷った。
だが、隠すほどのものでもない。
「外で残ってるのは、終わった入りと向き戻しです」
相良はすぐに打ち込む。
「中では」
「手戻しと足戻しまで言った方が止まります」
「理由は」
結人は少しだけ息を置いた。
「外では短くないと覚えにくいです。中は実際に何が帰るかまで言わないと遅れることがあります」
相良はその一文もそのまま打ち込んだ。
「分かりました」
話はそこで終わるかと思った。
だが相良は端末を閉じず、もう1つだけ言った。
「政府ギルドとして正式に何か出す段階ではまだありません」
結人も頷く。
それはそうだと思った。
「ただ、現場で事故が減っているなら、見ている側としては無視しない方がいいです」
その言い方は、妙に重かった。
無視しない。
認める、ではない。
持ち上げる、でもない。
でも、なかったことにはしない。
今の結人には、そのくらいがちょうどよかった。
「ありがとうございます」
相良はようやく少しだけ表情を和らげた。
「今日はもう1つあります。最近、灰石坑道の配信アーカイブを確認する探索者が少し増えています」
結人は一瞬だけ目を上げる。
「自分のですか」
「はい」
相良はそこで、ほんの少しだけ苦笑した。
「政府ギルドが推奨したわけではありません。勝手に見て、勝手に真似しているだけです」
それは、かなり結人らしい広がり方に思えた。
大きく告知されるわけではない。
誰かが派手に取り上げるわけでもない。
でも、必要な人間だけが見て持っていく。
結人は小さく頷いた。
「その方がいいかもしれません」
「私もそう思います」
相良は立ち上がる。
「潜るんですよね」
「はい」
「なら、今日は3階層手前まで人が流れるかもしれません。入口前でそういう話が出ていました」
結人はそこで、少しだけ止まった。
3階層手前。
最初の壁。
まだ深くは入っていない場所だ。
「……分かりました」
相良は短く頭を下げ、窓口へ戻っていく。
結人はその背中を見ながら、胸の奥に静かな圧が入るのを感じていた。
灰石坑道前半は、もう少しずつ外へ出ている。
なら次は、その先だ。
⸻
入口前の空気は、確かに少し違っていた。
いつもの常連に混じって、今日は装備の固い探索者が何人かいる。
浅層の様子見ではなく、3階層手前まで視野に入れている顔だ。
坂城迅が結人を見るなり言った。
「聞いたか」
「3階層手前ですか」
「ああ」
真壁遼真は大盾の位置を直しながら苦く笑う。
「前半が通り始めたら、次はそこを見るやつが出る」
三枝透は少し先の人波を見たまま言った。
「今日は浅いとこで終わらないかもな」
結人は短く頷いた。
前に進むなら、そうなる。
1階層と2階層手前だけの話で終わるなら、言葉はただのローカルルールだ。
でも、その先へ持っていかれるなら、初めて「型」になる。
入口前で、見知らぬ探索者がこちらへ寄ってきた。
「天城さん、ですよね」
結人が頷くと、男は少しだけ言いにくそうに続けた。
「今日、3階層手前まで行くつもりで。灰石坑道の前半、短く言うと何を持っていけばいいですか」
長く説明しない。
結人はすぐに答えた。
「終わった入りしない。向き戻ししない。2階層手前では手足まで戻さない。まずそこです」
男はすぐに繰り返した。
「終わった入り。向き戻し。手足」
「はい」
「分かりました」
それだけで離れていく。
前なら、こんなふうに話しかけられること自体がなかった。
坂城が低く言う。
「もう“見るやつ”として扱われてるな」
結人は返事をしなかった。
まだ、そこまでは飲み込み切れない。
でも、否定もできなかった。
⸻
1階層は速かった。
2階層手前も、前より崩れが浅い。
「終わった入りするな」
「向くな」
「手戻しするな」
「足戻しするな」
必要な声だけが飛ぶ。
もうそこを長くなぞる段階ではない。
結人たちは流れのまま、いつもより少し先へ進んだ。
3階層へ落ちる手前は、空気が違う。
人が減る。
壁が少し狭く感じる。
音が返ってくる。
浅層の軽さが、そこで一度切れる。
前にいた探索者たちも、さすがに少しだけ口数が減った。
結人はそこで初めて、灰石坑道前半の外に出た実感を持つ。
終わった入り。
向き戻し。
手足の戻し。
それらを持って、ここから先に入る。
だが、3階層手前の嫌さは少し違った。
敵が強いというより、逃げていい方向が分かりにくい。
壁の継ぎ目が増える。
床の線が嫌に多い。
浅層の癖で安全側へ寄ると、その寄り先自体が怪しい。
坂城が短く言った。
「ここ、前半の続きじゃねえな」
「はい」
結人も頷く。
「終わったあと、どこへ逃げていいかが薄いです」
三枝が周囲を見ながら小さく言う。
「目の抜け先が全部怪しい」
真壁も低く続ける。
「持ち直す場所が細いな」
かなり大きかった。
前半の核で止まる部分はある。
でも、その先に別の圧がある。
そこへ、壁の継ぎ目が音もなく開いた。
口だ、と思った時にはもう遅い。
岩壁そのものに割れ目みたいな顎が走り、前列の探索者が飛び退く。
断層喰い。
まだ全身は見えない。
だが、地形そのものが口を持ったような嫌さがあった。
前の探索者は避けた。
終わった入りはしない。
向き戻しも止まる。
それでも全員、次の一歩が遅れる。
どこへ戻れば安全なのかが分からない。
結人はその瞬間、灰石坑道前半の先にある壁を、かなりはっきり見た。
ここから先は、終わった入りを止めるだけでは足りない。
終わったあと、どこへ立て直すかまで要る。
坂城が低く吐いた。
「……3階は別だな」
結人は短く答えた。
「はい。次の段階です」
今日は深追いしなかった。
一度見て、全員で引いた。
無理に越える日ではない。
だが、十分だった。
前半の核を持って、次の壁に触れた。
それだけで今日の進みは大きい。
⸻
政府ギルドへ戻ると、換金列の空気も少し違った。
灰石坑道前半の話ではなく、3階層手前の話が小声で混じっている。
「前半は分かるようになってきたけど、その先が嫌だ」
「逃げ場が薄い」
「壁そのものが口みたいだった」
結人は、その言葉を聞きながら窓口へ向かった。
相良環は袋を受け取るなり、結人の顔を一度見た。
「今日は少し先まで行きましたね」
「分かりますか」
「持ち帰りの石粉が違います」
相良は査定しながら続ける。
「3階層手前」
「はい」
「どうでしたか」
結人は少しだけ考えてから答えた。
「前半の核は通ります。でも、その先は立て直す場所が薄いです」
相良の手が一瞬だけ止まる。
「……なるほど」
それだけで、かなり伝わった気がした。
査定額は悪くない。
今日は深追いしていないぶん大きな当たりはない。
だが、前みたいにただ疲れて帰った感じでもない。
相良が端末を返しながら言う。
「前半をまとめた人が、次の壁も見た。そういう話になりますね」
結人は苦笑する。
「まだ見ただけです」
「それで十分です」
相良は短く言った。
「見る人がいないと、壁かどうかも分かりませんから」
その言葉は、今日かなり深く入った。
⸻
帰り道、結人は迷わずに買い物をした。
安い弁当。
少し高い保存食。
替えの包帯。
それから、今日は小さい缶コーヒーも1本。
前なら絶対に後回しにしたやつだ。
でも今日は買った。
部屋に戻り、机の上へ並べる。
ノートを開く。
•前半
•終わった入り
•向き戻し
•手戻し
•足戻し
•3階層手前
•終わったあと、立て直す場所が薄い
•逃げ先が怪しい
•壁そのものが食う
そこまで書いて、結人は少しだけ手を止めた。
前半はまとまった。
外へも出始めた。
政府ギルドも無視しなくなった。
そして今日、次の壁に触れた。
かなり前に進んでいる。
端末を見ると、今日のアーカイブにはもう反応が来ていた。
前半終わったと思ったら次の壁出たな
3階は別物っぽい
話が進んだ感じする
結人は、その最後の1行で少しだけ目を細めた。
話が進んだ感じ。
それでよかった。
今はそれが一番大事だ。
結人は缶コーヒーを開ける。
少し苦い。
でも、嫌じゃない。
明日もまた灰石坑道へ行く。
今度は前半をなぞるためじゃない。
3階層手前の壁を、本当に壁として見に行くために。




