第1話 同接0の灰石坑道
配信開始の表示が出て、画面の右上に視聴者数が出る。
0。
今日も変わらない数字だった。
天城結人は、その表示を一秒だけ見てから端末を固定具に差し込んだ。胸元の少し高い位置。自分の視線より少し上。歩きながら前方と手元が最低限映る角度だ。
「……天城結人です。灰石坑道、入ります」
自分でも驚くほど平坦な声だった。
誰も見ていない場所で、何度も繰り返してきた言葉だ。慣れたというより、もうそういう手順として体に入っている。
返事はもちろんない。
コメント欄も静かなままだ。
結人は端末の録画ランプだけを確認して、灰石坑道の入口へ向き直った。
朝の薄い光の中で、坑道はいつも通り口を開けていた。古びた補強材。削れた岩肌。入口付近の空気はひんやりしているのに、奥から来る風は妙に乾いている。
初心者向けの浅層坑道。
灰石坑道は、そう言われることが多い。
実際、一層だけなら潜る人間も多い。素材の単価は安いが、危険度も低め。配信の題材としては地味で、冒険としては浅い。上を目指す探索者が長く留まるような場所ではない。
それでも結人は、もう三か月近くここに通っていた。
稼げるから、ではない。
好きだからでもない。
ただ、知っているからだ。
見える岩の色。
補強材の擦れ方。
足場が乾いている場所と、妙に湿って見える場所。
どこで音が反響して、どこで吸われるか。
他のダンジョンに行くより、ここにいた方が少しだけ生き残れる。
今の自分には、それが一番大きかった。
「一層だけ見ます」
誰に向けた言葉でもない。
でも配信している以上、言葉にしておいた方が後で見返しやすい。結人はもうそういう癖がついていた。
坑道の中へ入る。
入口の明るさが背中で薄れ、灰色の岩壁が周囲を閉じていく。足元には細かい砕石。幅は人が二人すれ違えるくらい。広くはないが、狭すぎるほどでもない。
灰石坑道の嫌なところは、最初の数分が本当に何でもなさそうに見えることだった。
静かだ。
空気も安定している。
通路も素直に前へ伸びている。
だから気が緩む。
慣れていない人間ほど、ここで一度安心する。
そして、一度安心したあとに足を取られる。
結人はその感覚を知っていた。
知っている、というより、体がもう勝手に嫌がる。
前方の暗がりに、低い影が走った。
結人の足が少しだけ止まりかける。
でも、完全には止めない。
「……灰鼠」
それは犬よりひと回り小さいくらいの鼠だった。背中の毛は毛というより、濡れた灰をそのまま撫でつけたみたいに寝ている。鼻先だけが不自然に前へ長く、目は黒ではなく、鈍い鉱石みたいな色で濁っていた。
灰石坑道の浅層で一番多い雑魚だ。弱い。
ただし、弱いからといって足を止めると死ぬ。
こいつらは正面から噛みついてくる敵じゃない。
避けた先の足元に入る。
灰鼠は一匹ではなかった。左壁の出っ張りの影から、もう一つ小さな影が這い出てくる。群れるほどではない。だが、一匹を見て対処を決めた人間の足を、もう一匹が取りに来るには十分な数だ。
「二匹」
コメント欄は動かない。
同接はまだ0のままだ。
結人は短槍を持ち直し、通路の中央よりわずかに右へ体をずらした。真正面で迎えない。かといって壁に寄りすぎない。灰鼠は直線で来るふりをして、人間が避けた時に足首へ入る。
一匹目が動いた。
低い。
ほとんど地面を滑るような体勢で突っ込んでくる。速いわけではない。だが嫌なのは、その曲がり方だった。胴ごと向きを変える前に、頭だけが先に折れる。見た目の進行方向と、本当に刺さる位置が少しずれる。
結人は半歩だけ引いて、短槍を下ろした。
灰鼠の鼻先を払う。
完全に刺し切るより、線を変えるように。
一匹目が槍の柄にぶつかり、軽く弾かれる。
その瞬間、二匹目が来た。
やっぱりだ、と結人は思う。
一匹目を捌いたあと、立て直す足元を噛むつもりの位置だった。
「っ」
短槍を戻し切るのは間に合わない。
結人は左足を引く代わりに、右足を前へ滑らせた。避けるというより、立つ位置を変える。二匹目の灰鼠は、さっきまで結人の足首があった場所へ噛みついて空を切った。
石を噛む嫌な音がする。
結人はその頭の上へ、短槍の石突きを叩き込んだ。
軽い。
だが、止めるには十分だった。
一匹目が体勢を戻す前に、今度は槍の穂先を浅く突き出す。首元ではなく、肩の後ろ。頭が折れる方向へ逃げようとしている線を潰す。
灰鼠が短く鳴いた。
動きが鈍る。
二匹とも完全に綺麗な仕留め方ではなかった。
それでも、結人は息を整えながらその場で追撃した。ここで止まるほうが嫌だったからだ。
灰鼠が動かなくなったのを見て、ようやく少しだけ肩の力を抜く。
「……浅層の雑魚ですけど、止まると危ないです」
配信を意識した説明だった。
誰も見ていないかもしれないが、言葉にしておくと後で見返しやすい。
「正面から処理しようとすると、足元に入ってきます」
言ってから、少しだけ自分で変な気分になった。
誰もいない場所で、誰も見ていない配信に向かって、わざわざ雑魚の説明をしている。まともな人気配信者なら、多分こんなことはしない。
でも結人は、それをしないと自分の中に残らない気がしていた。
何が嫌だったか。
どこが危なかったか。
どうすれば次はもう少しましになるか。
言葉にして残しておかないと、次も同じように怖い。
結人は灰鼠の死骸を端へ寄せ、再び歩き出した。
一層の前半は、まだ静かだった。
時折、天井から細かい石粉が落ちる。壁際には古い爪痕。通路は緩やかに左へ折れ、その先で少しだけ広くなる。
嫌な広がり方だ、と結人は思う。
広い。
だが、安心できる広さではない。
左右の壁際に陰が増えるだけの広さだ。
足を止めたところで、端末の画面に数字が変わった。
1。
結人の視線がほんの一瞬だけ動く。
一人。
誰かいる。
本当にただ一人だが、それでも0と1は少し違う。
コメントはまだない。
でも見ている人間がいると思うと、妙に背中が伸びる。逆に変なところを見せたくない気持ちも出る。
その時、前方の広がりに何か大きめの影が差した。
結人の足が止まる。
灰鼠じゃない。
四足。
低くはない。
肩が高い。
動くたびに、石が擦れるような音が混じる。
「……鉱牙犬か」
思わず声が低くなる。
野犬に近い形をしていた。だが、生き物らしい柔らかさがなかった。肩から首の根元にかけて、薄い鉱片みたいなものが何枚も浮き、走るたびに皮膚ではなく石が擦れる音を立てる。口を開けば、牙ではなく欠けた石杭みたいな歯が並んでいた。
灰石坑道の二層寄りに出る個体だ。
本来なら、一層のこの位置で会いたくない。
真正面から来るくせに、噛みつく線だけが少し横へずれる。
結人は短槍を構えながら、喉の奥が少し冷えるのを感じていた。
強い。
少なくとも今の自分が余裕を持って相手にできる相手じゃない。
引くか。
そう思った瞬間に、嫌な感覚が走る。
引くために一歩下がる。
下がった先で足を置き直す。
その瞬間、鉱牙犬は正面ではなく、わずかに外した横から噛んでくる。
脇腹。
思い浮かんだ位置が妙に具体的で、結人は自分でも少しだけ嫌になった。
「……正面じゃない」
誰に言うでもなく漏れる。
鉱牙犬が走った。
速い。
灰鼠よりずっと速い。
だが、それだけならまだいい。
嫌なのは、やはり正面だった。
正面から来る。前へ出て受けたくなる。槍の間合いで止めたくなる。そうしたくなる形で来るのに、噛む位置だけが少し横へ逃げる。
結人は突き出しかけた槍を、半拍だけ止めた。
止めたというより、嫌だった。
そこへ出すと、間に合わない気がした。
その一瞬の迷いで、鉱牙犬はわずかに右へ線をずらす。
やっぱりだ。
結人は正面で受けるのをやめ、身体を左へ流した。
槍は払う。刺すんじゃなく、鼻先を外すように。
鉱牙犬の顎が空を切る。
だが、完全には避け切れない。
鉱片の浮いた肩が結人の腕を掠めた。
鈍い衝撃。
短い痛み。
鉱牙犬が着地し、すぐに反転する。
速い。
しかも一度外したから終わりじゃない。
こいつの嫌さは二手目だ。一度避けた人間が立て直す、その位置へもう一度噛みを置いてくる。
結人は息を浅く吸った。
怖い。
それはかなり素直な感情だった。
前に出るべきじゃない。
でも下がりきるのも違う。
中央が嫌だ。
右も嫌だ。
なら——
「左、壁寄り……」
自分に言い聞かせるみたいに呟いて、結人は砕石の少ない壁際へ半歩だけ寄る。
鉱牙犬が再び踏み込む。
今度は少し見えた。
真正面から食うんじゃない。人間が安全だと思って軸を戻す、その瞬間に外から噛む。
だったら、戻さなければいい。
結人は鉱牙犬の飛び込みに合わせて、槍を低く突き出した。
狙うのは頭でも喉でもない。前脚の付け根、その少し後ろ。着地した瞬間に体重が乗る位置。
穂先が浅く入る。
鉱牙犬の軌道がわずかに崩れる。
その半拍で、結人はさらに壁へ寄った。
次に来る噛みは脇腹じゃない。さっきまで自分がいた位置、その少し外側だ。
石杭みたいな牙が、空を裂く。
「……っ!」
ギリギリだった。
本当にギリギリだ。
鉱牙犬は壁へ前脚をぶつけ、体勢を崩す。
今しかない。
結人は短槍を両手で握り直し、首の根元の鉱片が浮いている隙間へ穂先を押し込んだ。深くではない。だが、ズレた体勢には十分な傷だった。
鉱牙犬が低く唸り、後ろへ飛び退く。
追うべきか。
結人は一瞬迷って、追わなかった。
嫌なままだ。
まだ終わっていない感じが残る。
ここで前へ出る方が危ない。
鉱牙犬はしばらくこちらを見ていた。
それから低く身を沈め、通路の奥へ消えていく。
結人は、その姿が完全に見えなくなるまで槍を下ろせなかった。
呼吸が荒い。
腕も少し痛む。
刺し切れていない。倒せてもいない。
でも、生きている。
それだけで、今は十分だった。
「……鉱牙犬、いました」
声が少し掠れている。
「正面に見えて、噛みつく位置だけ少しずれてます。真正面で受けると、多分危ないです」
言葉にしているうちに、少しずつ自分の中でも整理されていく。
正面じゃない。
本当に危ないのは、その次の位置だ。
結人は壁に背をつけることなく、その場で数秒だけ息を整えた。
壁にもたれた方が楽だ。でも、今この坑道で完全に体重を預ける気にはなれない。
昔、自分が危なくなった時のことを思い出す。
視界が狭くなって、何を見ればいいか分からなくなる瞬間。
どこへ動けばいいのか分からなくなって、助けが来るのを待つしかなくなる瞬間。
ああいう時の顔を、結人は知っていた。
間に合わないと分かった時、人は少しだけ静かになる。
諦めるというほど綺麗でもない。
ただ、自分でどうにもならないと分かった時の顔だ。
自分はあの顔を何度もした。
多分、今も少し油断すればすぐそっちへ戻れる。
だから嫌だった。
灰鼠も。
鉱牙犬も。
敵そのものより、そういう顔をさせる位置が嫌だった。
端末の画面が小さく光る。
コメントが一件だけついていた。
結人は一瞬、目を疑った。
本当に一件だけだ。しかも短い。
今の、止まらなかったの正解
結人はしばらくその一文を見ていた。
誰かが見ていた。
しかも、鉱牙犬を避けたことじゃなく、止まらなかったことを見ていた。
そこなのか、と結人は思う。
そこを見ていた人間がいる。
右上の同接は、まだ1のままだった。
結人は端末を見たまま、小さく息を吐く。
「……ありがとうございます」
返事が来るとは思わない。
実際、コメント欄はそのまま静かだった。
それでも、0ではなくなったという事実は、坑道の冷たさとは少し違う形で胸に残った。
結人は配信を切る前に、最後だけ短く言った。
「今日は一層までで戻ります。鉱牙犬が出たので、浅い位置でも油断しない方がいいです」
少しだけ迷ってから、さらに一言足す。
「正面より、そのあとが嫌でした」
自分でも説明の足りない言葉だと思う。
でも今は、それが一番正直だった。
配信を切る。
録画終了の表示が出る。
灰石坑道は、帰り道も静かだった。
それでも結人の頭には、さっきの鉱牙犬が噛んできた位置だけが妙に残っている。真正面ではなく、その少し外。人が立て直そうとした時に一番無防備になる線。
そこが嫌だった。
どうして嫌なのか、まだ綺麗に言葉にはできない。
ただ、それだけは忘れたくなかった。
坑道の外へ出ると、朝の光が少し強くなっていた。
結人は端末をしまいながら、最後にもう一度だけコメント欄を見た。
追加の言葉はない。
最初の一文だけが残っている。
今の、止まらなかったの正解
結人はその文字をしばらく見て、それから端末を閉じた。
灰石坑道は今日も静かだった。
誰も見ていないと思って始めた配信も、今日のところはほとんどそのままだ。
それでも、0のままでは終わらなかった。
そして何より、さっき自分が嫌だと思った位置だけは、まだ嫌なくらい頭に残っている。
それが次に役に立つかどうかは分からない。
でも結人は、そういうものを忘れないために、明日もまたここへ来るのだと思った。




