プロローグ:夜霧に潜む鍵爪
【切り裂きジャック=ラプトル説】
この説が近年の研究によって発見された数々の証拠品により導き出され、今や多くの人々に支持される支配的な説であることは読者諸氏も知っての通りだ。この物語はその研究を元に描かれる大きな歴史の流れと人々の営みの記録である。
19世紀末期1888年。ロンドン、イーストエンド、貧民街ホワイトチャペル。一人の酔っぱらった工場労働者の男が人気のない夜道を歩いていた。男は暗がりで何か重くて柔らかい塊につまずいたが、それが喉や腹を切り裂かれた娼婦の死体であると気付くのに時間は掛からなかった。
しばらくして当時の警察スコットランドヤードが現場に駆け付ける。この街で死体は珍しくもないが今回の人間離れした狂気的な犯行には警官達もいささか気分が悪くなった。それでも良くある殺人事件の一つとして片付けられるはずだった。
警察は近隣の住民に犯人の姿を聞き込みするが手がかりは無し。一つの事件に割ける時間は限られている。このまま何も進展がなければ調査は近々切り上げられる予定だった。しかし手掛かりを探しに事件現場を再度訪れた刑事は怪しい青年を目撃する。何かを探している様子の彼に刑事は話しかけた。
「キミ、何してる。」
青年は驚き振り返った。
「え!?いや…ちょっと落とし物を――」
「ここは先日娼婦が殺された場所だ。かなり惨い手口だったよ。」
刑事は青年の言葉を遮るように言った。
青年は毅然とした態度で受け答えた。そして何も知らないとその場を立ち去った彼を刑事は引き止めなかった。確かにどこか怪しかったが同時に犯人とも思えなかったのだ。
刑事と別れた彼は自宅へ帰った。一人でも手狭な屋根裏同然の借家で窓からは向かいの家の煉瓦壁しか見えない。劣悪な環境の工場で朝早くから夜遅くまで働く彼は湿気ったベットに入った。疲れ切っているはずの彼だが全く眠くはなかった。それどころか興奮で眼が冴え込み上げる笑いを必死にこらえるほどだった。彼に何があったのか?それはこの事件の起こった夜に遡る。
その日も彼はいつもの仕事を終え家路についていた。過酷な仕事に対し感情を無くしただ耐える術を身に着けてから何年経っただろうか。その日はいつもの帰り道が何やら騒がしい。酔っ払い同士の喧嘩とその野次馬の様だった。しかしそれらを避けいつもと違う道から帰ろうと路地に入ったのが失敗だった。霧も出てきて自分のつま先もよく見えない。
しばらく迷い辿り着いたのが事件のあった例の路地だった。青年がまず気付いたのは“音”だ。『ペチャッ、グチャッ』なにか濡れたものを石畳の上で引きずり回すような音。何かは分からないのに悪寒が止まらず青年はとにかくその場を離れようと後ずさりした。しかし段差につまづきしりもちを付く、すると不気味な音がピタッと止んだ。
段々と霧が晴れていくと青年は“ソレがコチラを見ている”ことに気付いた。ガス灯の橙色の灯りに照らされたソレは見たこともない生物だった。 “人間ほどの背丈の巨大なトカゲ”とでも言おうか。ギョロりとした二つの眼でコチラを伺っている。裂けた様に巨大な口には鋭く細かい歯がずらりと並んでいる。数秒見つめ合ったあと後ろから近づく物音に気付いたソレは猛禽類のような鋭利な鉤爪を付けた馬のように発達した後肢で石畳の上を駆け去りあっという間にその場から消えた。青年もしばらく唖然としていたがソレが襲い食べようとしていた娼婦の死体に気付くと足早にその場を離れた。
現代の我々がヴェロキラプトルの名で知るこの生物。そのラプトルによる殺人事件という名の『捕食』を唯一目撃した青年の名は『ジャック』。百数十年に渡って切り裂きジャックの正体を撹乱し続けた張本人である。
次回【ep1:手紙は誰が出していたのか?】につづく
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