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 今年で中学生になる。

 新しい環境、新しい生活を思うと胸がざわつき、ここ数日はまともに眠れない夜が続いていた。

 そういう日は、じっとしていられず、家を抜け出す。足が向かうのは、決まってこれから通うことになる中学校だ。

 朝日が昇る前の薄闇の中、仄かに青みを帯びた空の下を一人歩く。静まり返った街並みを眺めながら、夜雨に濡れた石畳に街灯の淡い光が映り込み、かすかにきらめくのを追う。雨上がりの涼しい風が頬をなで、冷ややかな空気が肺の奥に沁みわたる。

 校舎にたどり着くと、建物はブルーシートに覆われ、まだその姿を見ることはできなかった。建て替えの途中なのだろう。

(どんな校舎なのだろうか……)

 想像してみても、形は浮かばない。ただそこにあるのは、工事の音すら聞こえない、静かで少しだけ不気味な早朝の光景だった。

 それでも、不安を抱えた胸の内は、ひんやりと澄んだ空気にふっと和らぐ。気づけば、早朝の散歩は心地よさとともに、いつしか当たり前の日課になっていた。 

 そんな日々を過ごしていたある朝、ふと時計を見れば、いつの間にか朝食の時間をとうに過ぎていた。今日はいつもより遠くまで足を延ばしてしまったらしい。

 ぐぅ~っと、腹の虫が鳴く。けれど、家に帰る気にはなれず、足は不思議とただ前へと進んでいた。

 やがて東の空が白みはじめ、やわらかな光が街を染めていく。冷えた空気の中に、微かな温もりが混じり、頬を撫でる風も少しずつ優しくなっていく。

 ――そろそろ帰らないと。

 祖父に見つかれば、きっとひどく怒られる。そう思うと背筋に冷たいものが走った。逸る気持ちを抑えながら足を進める。

 その時、ふと視界の先に、見慣れぬ小道が広がっていた。

 細く、ひんやりとした路地。普段なら通るはずのないその道へ、なぜか引き寄せられるように足を踏み入れる。

 石畳の小道は夜雨の名残を宿し、しっとりと濡れて朝の光を湛え、ところどころの水たまりには木々の緑と朝の淡い空色が夢のように揺れている。

 道の両側には苔むした石垣がそびえ、木々の枝が重なり合って緑のトンネルを形作っていた。石垣の隙間から細長い草が顔を出し、路地の端には鮮やかな緑が帯のように連なっている。

 若葉が風にそよぎ、古びた葉がひらりと舞い落ちる。その光景はどこか幻想めいていて、胸の奥に不思議な高揚がこみ上がる。まるで、自分が冒険家になったかのような気分だった。

 ――やがて、出口が見えてくる。

 顔を上げれば、空はすっかり青に染まり、太陽は高く昇ろうとしている。朝の静けさはすでに薄れ、家々からは朝食の温かな匂いが漂ってくる。遠くで犬が吠え、人々の話し声が混じり合う。道路を行き交う車の音も増え、街は完全に目を覚ましている。

 そして、路地を抜けたその先に――。

 視界いっぱいに広がったのは、かつて諒樹とよく遊んだ懐かしい公園だった。

(この道を抜けたら……たこだ公園に出るのか)

 たこだ公園――その名を象徴するように、公園の中央には、巨大なたこの形をした滑り台が、どっしりと鎮座している。

 丸みを帯びた胴体から四方へ伸びる足は、赤と白の鮮やかな塗装が施され、にっこり笑うたこの顔が、子どもたちだけでなく、公園を訪れる人々をも温かく迎え入れていた。

 たこの足を模した滑り台は一本ごとに長さも角度も異な、子どもたちは思い思いにお気に入りの足を選んで滑り降りる。

 公園は、四季の移ろいとともに姿を変える。

 春には桜が淡い霧のように広がり、秋には紅葉が火の粉のように舞う。遊具の間を縫うようにベンチが置かれ鉄棒は陽光を跳ね返し、小さな池は風に揺れている。

 静けさと喧騒が絶妙に溶け合うこの場所は、地域の中でも指折りの大きな公園として知られている。

 普段なら、子どもたちの笑い声が響き、母親たちの談笑が重なり、お年寄りがベンチで穏やかな時間を過ごしている――そんな、ありふれた日常の風景があるはずだった。

 だが、今日は違う。

 休日の公園にしては、妙な静けさが漂っていた。

 滑り台や砂場では、子どもたちの笑い声が響いているのに、その明るさが妙に浮いて聞こえる。

 母親たちは木陰のベンチに寄り添い、小声で言葉を交わしながら、時おり何かを気にするように自分の子どもと別に視線を向けている。

 ふと、母親たちの視線の先が気になり、俺もそちらに視線を動かす。

 視線の先、一人の少女がブランコに腰かけ、地面をじっと見つめたまま、わずかに揺れている。

 黒い長袖に長ズボン。季節にも場にも似つかわしくない服装。乱れた黒髪が肩に落ち、顔の輪郭すら曖昧に隠している。

 それなのに、どこか学校で見かける同級生に似た雰囲気を感じたような気がした。

 俺は目を何度かこすり、もう一度見直す。

 少女は微動だにせず、ただ地面を見つめ続けている。

 通りがかる人は、ひと呼吸の間だけ視線を向け、そして何事もなかったかのように目を逸らした。

 どうやら、この場の異様な空気はあの少女によるものらしい。

 一人の子供が、興味のままに少女の方へ歩き出した瞬間、母親が駆け寄り小声で制した。

「だめ。今日は、あっちに行かないのよ」

 声は穏やかだが、語尾にわずかに震えが混じっている。

 誰も少女に声をかけようとはしない。

 そこ“いる”にもかかわらず、そこに“いない”者として扱い、避け、気づかぬふりをし、ブランコが使えない子が小さく不満を零している。

 俺は、そんな周囲の反応を見て胸がざわついた。

 誰がどう見てもおかしな様子なのに、どうして誰も声をかけないのだろうか。

 どうして――俺もまた、周囲と同じように視線を逸らしたのか。

 誰かが何とかするだろう、という考えが自分の中にも潜んでいたことに気づいた瞬間、背後から父の声に似た幻聴が刺した。

『だから言っただろ』

 胸がきしむ。

 幻聴だ。と自分に言い聞かせ、俺は一歩を踏み出した。

 だが、俺の決意を邪魔をするかのように胸の奥には、じんわりと不安が広がる。

 もし、「余計なお世話だ」と拒まれたら。

 もし、「放っておいて」と切り捨てられたら。

 そんな連想が、鎖になり俺の足に絡みつく。それでも、俺は重くなった足を前へと押し出した。

 一歩。また一歩と。

 砂ぼこりが小さく舞い上がり、影が長く地面に伸びてゆく。

 やがて、俺の影は少女の足元に差し掛かった。

 少女は何も反応しない。風に揺れるブランコの鎖が、落ち込む少女を慰めるように鳴り、その合間に小さく鼻をすする音がまじって聞こえた。

「……だ、だだ大丈夫……ですか?」

 緊張で舌が絡まり、情けないほど言葉がもつれる。

 それでも声を発した途端、胸の奥で縮こまっていた不安がほどけるように揺れた。返答はない。沈黙だけが、薄い雲りのように俺のまわりへそっと降りてくる。そして、その静けさを破ったのは、少女がそっと鼻をすする、かすかな音だった。

 俺は何も言わず、隣のブランコへ腰を下ろす。ポケットからポケットティッシュを取り出し、使いやすいように包みを破り、少女にそっと差し出す。

「これ……よかったら」

 今度は噛まずに言えた。

 しばらくして、少女が少し顔を上げる。涙に濡れたであろう髪の隙間から、こちらを探るように覗き見て、細く途切れがちな声で呟く。

「……あ、りがとう……ございます……」

 俺は微笑みで応じ、立ち上がると、公園の出入り口付近にある自動販売機へ向かった。

 途中、公園にいる数人の親たちが、今度は俺を観察するような、値踏みするような視線が向けられる。これを先ほどまで、少女に向けていたと思うと内心怒りが湧いてきたが、今は構わず早足で目的の場所に歩いた。

 ポケットから魚の形をした、がま口財布を取り出し五百円玉を取り投入する。そして、自販機の赤く光ったボタンを二回押した。

 ゴトン、ゴトン、と金属音が続けざまに響く。

 返却レバーを下げ、おつりを回収し、飲み物を取り出し口に手を伸ばした瞬間。

「アッツゥ‼」

 缶が想定していた以上に熱く、情けない声が漏れ、缶を一つ地面に落としてしまった。

 慌てて拾い、汚れを裾で拭き取る。

 もう一個の缶を慎重に取り出し、二つの缶を見分けがつくように上着の裾に乗せ、呼吸も整わぬまま走った。

 落としてない缶を、驚きの表情を浮かべる少女に差し出す。

「前にさ……俺も落ち込んでいたとき、温かい飲み物をもらったんだ。

 そしたら、不思議と気持ちが少し楽になって……だから、騙されたと思って良かったら試しに飲んでみてよ」

 少女はほんのわずかに口元を緩め「ありがとう」と囁きプルタブを開ける。

 ふわりと立ち上がる湯気が、コンポタージュの甘い香りが湯気と共に広がる。

 俺もその匂いに釣られ、缶を開けブランコに腰を下ろす。

 想いで深い味と匂いを楽しんでいると、隣からふっと、小さな笑い声が聞こえてきた。

 笑っている少女を尻目に、俺は笑みを浮かべながらもう一度匂いと味を楽しんだ。

 初めて見たときよりも、少女の表情は柔らく崩れていた気がした。

 缶をくるくると回し、底にあるコーンをすくい上げながら余韻に浸っていると。

 髪の影の奥で、少女は小さく息を吸い込んだ。そして、温もりが喉へと落ちていくと同時に、言葉がふと零れた。

「……はぁ……おいしい……」

 小さく呟く少女は、再び缶を口に運び顔を上げて、また一口飲む。

 少女がわずかに顔を上げたとき、長い髪の隙間から覗いた横顔に、思わず息をのんだ。

 白磁のように透き通った肌。腫れた瞼でさえ、その美しさを損なうどころか、むしろ儚い魅力として輪郭を際立たせている。

 俺の視線に気づいたのだろう。少女は、恥ずかしそうに長い髪で顔を隠し、それ以降見えなかった。

「……おいし――」

 人の相談に乗ったことがまるで無い俺は、どんな言葉を返せばいいのかまるで思いつかなかった。諒樹ならもっと気が利いたことを言うのだろと考えていたら、彼女のつぶやきを反芻していた。

「…………おいしい」

 少女はとぎれた空気をそっと縫うように、静かに続けた。

「……うん」

 俺は考えるのを放棄して、流れに身を任せるほうが、この場では似つかわしい気がした。

 二人の間には、会話と呼べるほどの会話は無い。それでも不思議と苦ではなかった。沈黙が、お互いを追い詰めず、ただそこにあものとして受け入れられていた。

「……ふぅ、うまかった」

 空き缶を地面に置き、ブランコを軽く漕ぐ。久しぶりのブランコは想像以上に心地よく、風が頬を撫でる感覚が懐かしかった。

 俺が止まったタイミングで少女が話しかけてくる。

「……ご馳走名様でした。ほんとうに、ありがとございました」

 少女は、柔らかな表情を見せ、頭を下げた。

 ブランコから降り、空き缶を受け取ろうと手を伸ばしたが、少女は自分で片付けると静かに主張した。彼女のかたくな意志に、俺は言葉を引っ込めた。

「……俺、そろそろ帰ろうかな」

「そうですか……なら、私も」

「うん。帰ろう。ご飯食べなきゃ元気でないし」

 俺の腹がタイミングを見図ったように鳴る。

 腹の鳴る音が聞こえたのだろう、少女はクスクスと笑っている。顔が熱くなるのが、ハッキリと伝わってくる。

 立ち上がった少女は、ふらりと揺れ、ブランコの支柱に手を添える。

「大丈夫?」

「立ち眩みがしただけですから……大丈夫です」

 喉まで出かけた言葉を、飲み込む。今はただ、彼女が落ち着くのを待つ方が良い気がした。

「……ありがと」

「うん」

 俺は、陽気な笑みを浮かべながら、少女を見つめる。しかし、俺と目が合いそうになると、彼女は髪を垂らし、顔を隠す。

 ふっと空を見上げる。日が昇り、空はとてもいい天気で近くにある時計を見るともう、朝の九時になっていた。

 俺の家では、家族全員で食卓を囲み食べることが習いで、少しでも遅れると祖父から小言は免れない。

 恐らく俺の顔に、焦燥が出ていたのだろう。何かを察した少女が申し訳なさそうに言う。

「……私もそろそろ帰ります」

「うん」

 即答してしまった。もっと体裁のよい言葉があったはずなのに、即座に返事をしてしまった。少しの罪悪感がちらついたが、帰宅後の光景がちらついたことで、その罪悪感は流れ消えていった。

 そして、少女の歩調に合わせ、ゆっくり公園の出口に向かう。

 周りに目を向ければ、彼女が公園から立ち去るのを見て、安堵の色を浮かべる大人たちがいた。 

 俺は、幼い頃から祖父に、人には優しく、謙虚であれと言い聞かされてきた。その行いは、やがて自分の助けになるのだと。

 たまに思うことがある。

 この少女に対しても、軽んじるような視線を向ける大人たちを見ていると、自分の中に別の疑問が生まれる。ヒーローになりたいと口にしながら、果たして俺は――。

 少女に他人に対して、悪意を向けている人たちが、もし俺に助けを求めてきた場合、俺は本当に、素直に手を差し伸べることができるのだろうか、と。

 まぁ、今考えても、答えはその時にしか出てこないのだろけど……。

 そんなつまらないことを考えていると、隣から声が聞こえてきた。

「……あ、あの。今日はその……あ、ありがとうございました。気持ちが、少し楽になりました」

 気つけば出口まで来ていて少女が深く頭を下げている。

「良かった」

 当たり障りのない、返答でも少女はにこやかに笑い嬉しそうだった。

「私の家は、あっちなので」

 そう言って少女は、俺の家とは反対の方向を指差す。

「……俺の家は、あっちなので」

 わざと同じ動作で返すと、少女は一瞬驚いたように目を見開き、それから柔らかな笑みを浮かべた。

 少女が歩いて行くのその場で、しばらく見守る。

 やがて、少女はふと振り返り俺と目が合った。

 今度は顔を隠すこともなく、手を振りながら、何かを言おうと口を動かしている。

 だが、その言葉は距離に阻まれて俺には届かなかった。俺は仕方なく同じように手を振り返した。

 少女は俺を見て、喜色満面にあふれ、走り去っていく。その後ろ姿は、漆黒の綺麗な髪を風になびかせて可愛かった。


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