近くにある幸せ
第一章
誰しも一度は、アニメや本、ゲームに出てくる英雄や正義の味方に憧れたことがあるはずだ。
彼らが、成し遂げる偉業や奇跡を見て、読んで、真似をして遊んで、胸を高鳴らせたことがあるはずだ。
不可能を可能にし、自己の命も顧みない。
そんなヒーローや英雄と呼ばれる特別な存在になりたいと――そう思ったことが、一度もない人間なんているのだろうか。いや、いないはずない。
俺、八鳥稜平も、その一人だった。
憧れは日に日に強くなり、思いからやがて言葉になった。
「ヒーローになりたい!」
そう口にするようになり、テレビや本などの物語に出てくる人物の真似をするようになった。少しでも、憧れに近づくために。
幼い頃は、世間も家族も、そんな俺を見て「可愛い」と笑い、「立派だ」「頑張れ」と励まし褒めてくれた。
否定も馬鹿にすることなく、ただ理解を示してくれる周囲の人たちが好きだった。何より嬉しかった。
だから俺は、いつも笑っていた。
周囲に笑顔を振りまき、笑い声を響かせ、喜びを分かち合った。そんな、日々がたまらなく幸せだった。
俺は、この幸せがずっと続くものだと思っていた。
だが、その幸せは長くは続かなかった。
そんな現実離れした夢は、最初こそ大人たちにおだてられ、応援されていたものの、小学校の高学年になる頃には一転した。
「お前は、いつまでそんなことを言っているんだ?」
父親から、そんな言葉を投げかけられるようになり、無理やり現実を見せようとしてくる。それまでの対応とはまるで違う。なぜ急に否定するようになったのか、疑問に思い聞いたが、返ってくるのは決まってこうだった。
「お前のため、稜平のためを思って言ってるんだよ」
まるで、どうしようもない子供をなだめるような言葉。しかし、それは俺が本当に聞きたい言葉、答えでなく、ただはぐらかしているだけに思えた。
それでも――俺は忘れられなかった。
自己の命を顧みず、車にひかれそうになった少年を助けた、あの人の姿を。
間一髪で救い出し、安堵の表情を浮かべたあの瞬間を。
泣きじゃくる少年を落ち着かせるために、穏やかに語りかけながら見せた、あの笑顔を。
それが、俺が「ヒーローに――誰かのヒーローになりたい」と自分の中でこの思いが確かなものになったきっかけだった。
けれど、その気持ちを口に出すことは、もうやめた。
誰にも言わず、心の中にしまっておくことにした。
すると、大人達の反応が一変した。まるで安心したように穏やかに生活するようになった。
――それを見て、俺は申し訳なさを覚えた。
だが同時に、喉に小骨が刺さったような、どうしようもない違和感も感じ始めていた。
今になって思えば、自分を押し殺しながら生きるのは、想像以上に苦しかったのだろう。夢を口にしなくなってからの俺は、何だかつまらない人間になってしまったのではないか……そう考えることが増えていった。
家族の前では心配させないように「もう諦めたふり」をしていた。まるで、幼い頃の戯言だったかのように、夢を忘れたふりをして過ごしていた。
――けれど、友達と遊んでいる時だけは違った。気が緩むのか、ふとした瞬間に感情が顔に出てしまうことがあった。
そのたびに、自分が本当はどうしたかったのか、どんな人間なのか、よくわからなくなった。
時々、奇妙な言動をしていた俺を見て、気にはしても、わざわざ話しかけてくる者はいなかった。
――ただ一人を除いて。
長燈諒樹。こいつだけは、違った。
諒樹とは、俺たちの母親同士が親友だった縁で、まだ互いが腹の中にいる頃からの付き合いだ。物心がつく頃には、もう隣にいるのが当たり前になっていた。
世間の大人たちは「まるで兄弟みたいだね」と言われ続けてきた。だが、実際に似ているかといえば、これがまるで正反対だ。
鋭い目つきに、淡々とした物言い。きつそうな顔だちに反して、余計な言葉は吐かず、誰に対しても流されることはない。人は人我は我を体現した人間だ。
極端に言えば、他人にほとんど関心を持たない人間だ。
その風貌と性格が合わさり、周囲の大人たちからは「可愛げがない」「愛嬌がない」なんて冗談交じりに言われることもあったが、諒樹の表情が揺らぐことは一度もなかった。
俺は、密かにこいつの流されない在り方を少しだけかっこいいと思っている。もちろん、口には出さないけど。
それに、なぜか「どちらが兄か」という謎のこだわりも持っていて、幼少の頃は徒競走やかくれんぼで何度も勝負を挑まれた。
実際、生まれた順番なら俺のほうが兄のはずだ。だが、勝負となれば大抵は諒樹の勝ち。悔しいけれど、いつも結果は変わらなかった。
そんな関係だから、嘘や隠し事なんて通用するはずもない。今回の件も、例外じゃなかった。しかも、諒樹は俺に対して容赦がない。
それどころか、知りたいと決めた瞬間から、引き下がるという選択肢すら持ち合わせていない。
疑問を抱いたが最後。納得するまで、とことん追及してくる。
案の定、俺が「やばい、最悪だ……」と心の中で悲鳴を上げながら諒樹の顔を見れば、案の定、期待に満ちたキラキラとした目でこちらをじっと見つめていた。
まるで、宝探しの地図を見つけた子どもみたいに。
正直、俺は諒樹のこういうところは苦手だ。人のテリトリーに、ずかずかと踏み込んでくる。しかも、俺限定で。
ほかのやつにはこんなことしないのに、俺に対してだけは遠慮がない。俺が何も言わないのをいいことに、やめようともしない。もしかしたら一度くらいは言ったことがあるかもしれないが、結局引こうとはしない。
徐々に日が沈みかけ、辺りが徐々に橙色に染まり始める。周囲の喧騒もどこか遠くに感じる中、稜平は俺が話し出すのをじっと待っている。
公園のベンチに座る諒樹の肩を軽く押し、少しだけスペースを空ける。何か言いたげな諒樹を気にしないふりをして、そのまま隣に座った。
話したくもない。だけど、あからさまにするのも気まずくなる。
だから俺は、何でもないふりをして話題を振ることにした。
「……最近、何か面白い本読んだ? おすすめとかある?」
一拍置いて、諒樹が「えっ?」と声を上げる。ほんの少し反応したが、それだけだった。「いや、それよりさ」
予想通り、話を戻される。
――くそ。やはり、話題が弱かった。
「お前、最近見るからに元気ないだろ。この世の終わりみたいな顔してさ」
「……そんあんことない」
「嘘つけ」
誤魔化せるかと思ったが、諒樹はまっすぐこちらを見てくる。
俺は、反射的に目を逸らした。
言いたくない。どうせ話したところで、大人たちと同じ反応をされるに決まってる。
それが嫌で、怖くてずっと黙ってきた。
「……おーい」
肩を揺さぶられ、思わず睨むと、諒樹はニヤリと笑う。
「じゃあさ、俺と勝負しろよ」
「は?」
「お前が勝ったら、もう何も聞かない」
「……負けたら?」
「そりゃあ、聞くでしょ」
やらない選択肢はないらしい。下手に逃げて家族に告げ口でもされるの避けたい。
――クソ、面倒だな。
仕方なく、じゃんけんで勝負することになった。結果、二勝三敗。俺の負け……。
「っしゃあ!」
諒樹は座ったまま、ガッツポーズを決める。そして、勝ち誇った顔で俺を見てくる。少しイラッとした。
「ほら、早く言えよ」
「……はぁ。絶対に笑うなよ」
ため息交じりに一応の保険を追加した。
「……俺さ、ヒー……ローになりたいんだ」
言葉にした瞬間、胸が締め付けられるようだった。
「物語に出てくるみたいな、誰かの危機を迷わず助ける、ああいうのに憧れてる。でも、家族には『彼らは物語の主人公だから、そういう役割を与えられたからそうしているだけ。だから、お前も同じようなことはする必要がないんだよ』と言われたんだ」
『――物語の中の人物と自分を混同するな。現実は違うんだよ』この場にいるはずのない、父親の声が俺だけに聞こえた気がした。
「わかってる。理解はしてるつもりだった。でもさ……実際に、目の前で車に轢かれそうな子どもを助けた人を見てから、もう止まらなくなったんだよ。あの光景が、ずっと頭から離れない」
あの人は、迷わず動いた。俺も、あんなふうになりたい。
「でも、家族に話しても反対される。『無理だ。やめとけ』って言われる。俺がそういうことを考えてるって言うだけで、家族は悲しそうな顔をするんだ」
「……」
諒樹は俺の言葉を黙って聞いていた。そして、少し考え込んでから、不意に言った。
「俺は、お前が羨ましいいよ」
「え?」
思わず聞き返すが、諒樹は黙ってしまった。
俺が何を言っても、家族は理解してくれなかった。けれど、諒樹は違った。ただ頭ごなしに否定するのではなく、話を聞いてくれた。肯定されたわけではない。でも、否定されなかっただけで、心の奥に渦巻いていた不安が少しだけ和らいだ気がした。
けれど、諒樹の「羨ましい」という言葉の意味だけはわからなかった。
しばらく、お互い黙ったまま時間が過ぎる。
「……んで?」
「……あぁ」
少し間を置いて、俺は口を開く。
「昔はさ、こんなこと言っても反対されなかったんだ。でも、少し前から、止められるようになって」
先ほどまで重かった口が驚くほど軽く感じた。
「――うん」
「俺の気持ちを言うと、家族は悲しそうな顔をするんだよ。俺は、自分の我が儘で家族がそんな顔をするのが嫌なんだ。だから、もう言わないようにしてるんだ。でも、だんだん苦しくなってきて……」
ふと諒樹を見ると、地面を凝視していた。
「……はぁ、なるほど」
深いため息をついた後、勢いよく顔を上げ、俺の目をまっすぐに見つめてくる。
「お前は。相変わらず、物事を複雑に考えすぎなんだよ」
呆れたような声だったが、どこか優しさが感じられた。
「なぁ、言うと反対されるんだろ? なら、言わなきゃいい。心の中で勝手に思うのは自由だろ? 全部口に出す必要なんかないんだよ。難しく考えすぎだよ」
諒樹の言葉を聞いて、喉の奥に刺さっていた小骨がすっと消えていく気がした。
家族は、俺の気持ちを理解してくれなかった。
でも――俺も、家族の気持ちを理解しようとしたことはあっただろうか?
否定されるのが怖いからって、何も言わず、殻に閉じこもる前に。何かできたんじゃないだろうか。
諒樹の顔を見た。彼は、寂しそうな、それでいてどこか羨ましそうな顔をしていた。
その表情が胸に引っかかる。何か言うべきか迷っていると、諒樹はふっと視線を逸らし、少しむずがゆそうな仕草で立ち上がった。そして、深く息を吸い、背筋を伸ばす。
俺もつられるように立ち上がり、息を吐いた。
「……少し気持ちが楽になったよ。ありがと」
ぽつりと呟いたが、諒樹は特に返事をしなかった。聞こえなかったのか、それとも、あえて何も言わなかったのか。
「……帰るか」
諒樹が少し前を歩き出す。俺も遅れてついていった。
帰り道の途中、自販機の前で諒樹が立ち止まる。ポケットを探り、小銭を取り出して何かを買っている。
「ほら」
手渡されたのは、温かい缶の飲み物だった。冷えた手の感覚がじんわりと戻ってくる。
「……いいの?」
「小銭が余ってただけ。やるよ」
ぶっきらぼうに言いながら、諒樹も同じ飲み物を買っている。
並んで歩きながら、缶を持つ手が熱くなり、もう片方の手に持ち替えながら、少しずつ口に運んだ。
諒樹が何気なく言った言葉は、俺にとって、とてつもなく大きなものだった。
もし、あのとき話していなかったら。俺は今も、自分の気持ちを押し殺したまま、家族とのわだかまりを抱え続けていたかもしれない。
だから。
俺はこの時、心の中で勝手に誓った。
もし、諒樹が俺みたいに苦しんでいたら。
もし、助けを求めていたら。
その時は――今度は俺が、手を差し伸べようと。
そう、決めた。
こんにちは
現代編みたいな感じで第一章はやろうかなと考えてます。
第一章は下書きみたいなのがあるので、なるべく早く出したいと思っています。
ですが、家族の事情で忙しかったり、就活中なので遅くなると思います。すみません。




