出張者 2.
月曜日、電車とバスを使って会社に到着すると、桑原と渡辺が既に出勤していた。
これまで事務所には、折り畳み椅子が二脚あるのみでかなり不自由だったけれど、この日ようやくオーダーをした机や椅子、ロッカーなどが届けられることになっていた。
私は二人に挨拶をした後、完全には終わっていないキッチンの掃除をすると告げて、下へ降りた。
シンクの上は磨いたけれど、引き出しの中には先の使用者のスプーンなどが置かれたままなので整理をしたい。
それにコンロの周辺には、汚れ防止にアルミホイルを敷いて置きたいと思った。
他にも椅子がないと背が届かず、ちゃんとチェックをしていない吊り戸棚もいくつかある。しかし、そこを見るのには、倉庫の隅にある丸椅子を持って来なければならない。
二階の事務所から下へ降りるのには、二か所の階段があった。一つはロビーを通って、キッチンへ入れる階段と、もう一つは倉庫へ続く階段で、こちらも倉庫からトイレの方へ入り廊下を抜ければ、やはりキッチンに辿り着くことが出来る。
私は、キッチンから廊下を通って倉庫に出ると、丸椅子に向かって歩いた。
盗み聞きをするつもりはなかったのだけれど、ちょうど二階から二人の会話が聞こえて来る。
「やっぱり白人の女の子の方が大胆ですよねぇ」
「そうだなぁ。あれは参ったよ」
「こ~んななんですもんねぇ」
後には下卑た笑いが続いた。
私はそれ以上聞くのが嫌だったので、さっと椅子を取ってキッチンの方へ戻って行った。
すると渡辺が反対側の扉から入って来るところに、ちょうど出会ってドキッとした。
「何? その椅子」
「吊り戸棚の中を見ようと思ったのです」
「ふ~ん、そう。で、その椅子、どこから持って来たの?」
「倉庫の隅にあったんです」
私は口の中がカラカラに乾いて行くような気がした。
何も嘘は吐いていなかったけれど、盗み聞きをしようとしたと思われることが嫌だと思ったのだ。
「ふん、そう。あのさ、お茶を淹れてくれないかなぁ」
「あの、緑茶がないので紅茶でもいいですか? ティーバッグならありますけど」
「うん。それでいいや」
「分かりました」
「頼むよ。そのくらい気が付いてくれよね」
「……」
もっと何か言われるかと思ったけれど、渡辺はそれで二階へ戻って行った。
ほっとしたものの、どうしても好きになれない嫌味な男だと思う。
これが日本にいたなら、セクハラとかパワハラということになるかもしれない。
普段は、そんなに親しくしていなくても、こういうことは女子社員同士で話をすれば、組合に持ちこんで助けを請うことだってできる。
でも、ここでは、一人きりなのだ。
私は、イライラしても仕方がないと気持ちを切りかえ、お盆に紅茶を二つ乗せて、二階へ上がった。
階段を上る時に(話声がしないな…)と、何となく思いながら開かれたドアの近くまで行くと、渡辺がひそひそと桑原に囁いている声が聞こえた。
私は、途端に顔がカーッと熱くなる気がした。
会話の内容は全く聞こえなかったので、そのせいではない。
やはり渡辺は、私が二人の会話を盗み聞きしたと思ったのではないだろうか?
内緒ごとなら、この後二人で出かけた時に、いくらだってできる筈だ。
私に「盗み聞きをしているのではないか?」という嫌味な態度を見せたくて、わざと声を低くしているとしか思えない。
それならそうとはっきり言えばいいのに…。
遠回しなやり方に私は胃が痛くなる思いがした。
折り畳みのテーブルにお茶を置くと、「お…ありがとう、春野君。こんな事しなくていいのに…」と桑原が言う。
すると、すかさず渡辺が「僕がお願いしたんですよ」と満面の笑顔で桑原に向かって答えた。
本当は渡辺の頭からお茶をかけてやりたいほど腹が立っていたのだけれど、幸か不幸か波を立たせたくない性格が、それを押し殺した。
桑原も、少しは何かを察したらしく、気弱な笑いを浮かべた目が、既に宙を彷徨っている感じだった。
私は渡辺の顔を見るのも嫌だったので、何も言わず一礼をしてキッチンに戻った。
やがて、バタバタと階段を下りて来る音がしたかと思うと、二人は出て行った。
派遣会社やお得意先を回って来るらしい。
「あ、春野くん、電話をするからね」
桑原は、片手を挙げながら車の助手席に乗り込んだけれど、渡辺は、私の方を一瞥しただけで、何も言わなかった。
二階へ上がり、事務所の扉を開けると、煙草の匂いがした。
事務所では禁煙と、この国の法律で決まっている。
見ると、ソーサーに押し付けられて消された二種類の吸殻があって、二人で吸ったのだと分かった。
お皿に黄色いニコチンが付いている。
こういうお行儀の悪いことをされることが、煙草の匂い以上に嫌になってしまう。
せめて灰皿を準備すればいいのに。
それでも、やはり文句を言えないであろう自分を情けないと思った。
『桑原さん、煙草、吸ってもいいですか?』
『いや、それがねぇ、ダメなんだよ。法律で決まっているらしい』
『へぇ、不便なものですねぇ。アフリカじゃ、大丈夫ですよ』
『ここは欧州だからさぁ』
『でも、誰もいない時くらい、喫煙ルームにしてもいいじゃないですか』
『ほら、春野君もいるしね』
『彼女、上がって来ないですよ。桑原さんが、ここの最高責任者でボスなんだから、そんなに気を遣わなくてもいいですって』
おそらく、こんな感じではなかっただろうかと想像をする。
こんなことをしたら、米国では訴訟ものだろう。
欧州は、そんなに尖がった社会ではないみたいだけれど、だからと言って、ここをガス室のようにされてはたまらない。
私は、風通しの悪い事務所の扉を開けた。
それから間もなくオフィス家具が無事に届けられ、打ち合わせしてあった通りの配置にしてもらった。
しかし、打ち合わせをしておいて良かったと思う。
配達して来た人たちは、みんなフランス語だけしか話せなかった。
ランチには、サンドウィッチのお弁当を持って来ていたので、コーヒーを淹れて、事務所前の芝生に座って食事にした。
しかし周囲にも何軒かの事務所はあるけれど、田舎のことで、ほとんど車も通らない。
そういえば、朝たくさんの牛を連れて移動する人がいたのには驚いた。
放牧をしに行くのだろうか。
男性二人がいなければ、長閑ないい場所だと思う。
でも、今は大変だけれど、準備さえ整えば男性たちは営業に出て行くのだから、すぐに私は留守番の日が多くなるだろう。
そう考えると、気が楽になった。
食事を終えて、事務所に上がってみると、匂いはほとんど消えていた。
電話はないものの、家具が並ぶと事務所らしい雰囲気になったと感じられる。
私は、コンピューターを自分の机の上に移動し、仕事を始めた。
オフィスにたった一人というのは奇妙なものだと思うけれど、こんな環境を羨ましく思う人もあるに違いない。
上手に気持ちを切り替えるようにして、何とか頑張ろうと思った。
渡辺は水曜日まで滞在し、帰って行った。
夜の便で帰国すると言うので、桑原は、空港まで送って行き、三人で食事をすることを提案したが、私はどうしても用事があると断った。
私は嫌いな人とは食事が出来ない。
テーブルの前に座って、食べ物を見ているだけでお腹がいっぱいになってしまうのだ。
桑原は、言葉を額面通りに受け止めるから、「残念だなぁ」と言うだけで、それ以上は追及して来ない。
この点は、彼の長所だと思っている。
そのお陰で、周囲は気を遣いすぎずに話が出来るのだ。
しかし渡辺の方は、どこか屈折しているように感じられる。
同じ営業でも仕事の仕方が違うのだろう。
客の前では平身低頭しても、自分より立場の弱い人間と見ると、態度を変えて横柄になる。
他にも、そういう人間はたくさん知っているけれど、渡辺のように極端な人は見たことがなかった。
水曜日の夕方、早めに出るという二人を見送った後、すうっと心が軽くなるのを感じた。