出張者
この週は、とても忙しい一週間となった。
会社設立の登記の為に弁護士事務所へ出かけたり、派遣会社への登録や取引先の挨拶などで、事務所の掃除をする間もなく、ずっと外出の状態だった。
第一、電話工事がまだで、以前も使っていたのなら既に回線はあるだろうと思うのに、工事の日が申し込んでから1ヶ月後だというのには呆れた。
これでは、事務所として機能しない。
事情を聞くと、何でも、工事人の人手が足りないのだとか。
この電話会社は、日本と同じように民営化されてはいるものの、まだそうなってから間がないらしく、のんびりしすぎているという印象は拭えなかった。
でも、いくら苦情を申し立てても、動かないものは動かない。
電話会社の事務所へ出かけて話をしたけれど、桑原の方は、相変わらず抗議をしている私を横から眺めているだけだ。
会話の意味が分からないらしく、私が相手にマネージャーだと紹介しているというのに、愛想笑いを浮かべていて、これでは威厳も何もない。
仕方がないので、出来ることから順に片付けて行くことにした。
金曜日になって、北アフリカにある支社から応援が来た。
夕方になって例のホテルで待ち合わせをし、ラウンジで来週の打ち合わせをすることになった。
私は応援なら月曜日に来るべきだと思ったけれど、週末、取引先への接待を計画しているのだと桑原が言う。
私にも一緒に来るかと尋ねられたけれど、週末は休みたいので断った。
実際、まだ必要なものも買い揃えられていなかったし、それに、一人の時間が欲しいと思った。
これでは友人を作るチャンスさえない。
ホテルへ行くと、出張者は既に到着して待っていた。
桑原が日本と同じように、手を挙げ遠くから呼び掛けるのが、横にいて恥ずかしかった。
「やぁ、渡辺君、焼けたねぇ。真っ黒じゃないか」
「いやぁ、桑原さん、どうもどうも、ご無沙汰でした」
「遅いよ、応援が。待ってたんだよう。ったく……」
「いやぁ、こっちも例の件で忙しくってですねぇ」
「あぁ、不良品かい?」
「そうなんすよ。もう、参っちゃって……」
「あぁ、失礼した。こちら春野かすみ君。美人だろう?」
「いやぁ、噂通りですねぇ」
噂をされているなんて、初耳だ。
いきなり、こういう話し方はセクハラとは言わないのだろうか?
気分は良くなかったけれど、とりあえず挨拶だけはしておかなければならない。
「はじめまして、春野です」
「いやぁ、渡辺です。本社からだそうですね」
「えぇ、そうです」
「大変でしょうが、桑原さんのことをお願いしますよ」
「いえ、こちらこそ、お世話になっている身分ですから」
「やぁ、挨拶は適当でいいじゃないか。ねぇ、何か飲もう。春野君、注文して。俺は君のと一緒でいいから」
「そんなこと仰られても困ります。どんなものがよろしいんでしょうか?」
「君、いいじゃないか。桑原さんがそう言ってるんだから」
「あ、ちょっとトイレだ。失礼するよ」
桑原は、さっさと立って行ってしまった。
「春野君だよね。あのさぁ、桑原さんって、会長の甥御さんだって知ってた?」
「いいえ、存じ上げませんでした」
「それじゃあ、駄目でしょう。ちゃんとした方がいいと思うよ」
「……」
「うちの会社の中ね、目立たないけどさ、そういうの、結構いるんだよ」
「でも、私は……」
「何、別に出世とか考えていないって言うでしょ? 女の子だから。でもさぁ、こっちが困る訳。周辺にいるのに、教育も出来てないのか、なんて言われてさ」
「……」
「ほら、注文してって言われてるんだろう。早くしたら?」
そんなことを言われても、私はこれまで以上に出来ることは何もないと思った。
そうでなくてもギリギリのところまで、納得の行かない桑原の行動を許している。
こんな言われ方をして素直に従う気にはなれなかった。
もう、自分の飲み物さえ選ぶことが出来ない気持ちになっていたところへ、桑原が戻って来た。
「なんだ。まだオーダーしてないの? 渡辺君。なんか頼めばいいのに」
「すみません。まだ決まらないんですよ。ねぇ、春野君、決まった?」
「いえ、まだなのです。すみません」
「あー、いいよいいよ。じゃあ、僕はビールにするわ」
「じゃあ、僕もそうします」
「ん? 春野君は、なんか甘いものがいいだろ? ほら、なんか赤いのが好きじゃないか」
「キールですか?」
「あぁ、そうだ。それそれ。うん、やっぱり俺もそれにするよ」
「変えちゃうんですか? じゃあ、僕も付き合いますよ」
「いや、付き合わなくていいよ。大体、君には似合わんだろう。わはは……」
桑原だけでも持て余しているというのに、この渡辺という出張者は、輪を掛けたように苦手な部分を持った男性のようだ。
週明けの仕事を考えると気持ちが沈んだ。
打ち合わせの間中、渡辺は桑原の太鼓持ち役を続け、いちいち私に険のある言葉を投げて来る。
私は、初めのうちこそイライラさせられたけれど、もしも、ここに私ではなく別の人がいたとしても、この男性の態度は同じだったろうと考えると落ち着いた。
きっと、こんな風に人に媚びを売ることが、この人の仕事のやり方なのだろう。
営業には、本当に癖の強い人が多いなぁと思う。
打ち合わせの後、翌週には、オフィス家具が届けられることになっていたので、私はオフィスに残り、コンピューターで報告書の作成をすることになった。
まだ、この支社のマシンはインターネットには繋がっていないけれど、渡辺が北アフリカ支社に帰ったら向こうから本社へ送ってくれることになった。
当分、別行動ということでほっとした。
週末、土曜日にお買い物を済ませ、日曜日には電車に乗って遠出をし、北の海辺へと出かけてみた。
驚いたのは別の国のように英語が通じて、都会的だったことだ。
お店も開いているところが多く、南のような感じの悪い店員もいなかった。
オランダ語圏とフランス語圏ではずいぶん違うとは聞いていたけれど、その通りだと思う。
一人気ままな旅なので、ブラブラと歩いては海岸で立ち止まり、海を眺めていると声を掛けて来る男の人もあった。
特に意味はなかったけれど、それでも短い会話を楽しんだので、ずいぶん気が紛れた。