スーパーマーケットで
翌日は、事務所の掃除をすると決めてあったので、桑原がアパートまで迎えに来ることになっていた。
車に同乗し、8時半にスーパーマーケットが開くと飛び込み、掃除機やホウキ、バケツにぞうきん、洗剤などを購入し、10時過ぎに事務所に辿り着く。
床を洗うのに、長靴を履いていなかったので足元が汚れてしまった。
靴をきれいにしていると「お掃除と倉庫の番をする人を雇い入れる予定にしているので、こんな事はもう何度もないよ」と桑原が言う。
汚れたことに対する慰めとしては、少し遠い感じがするけれど、気持ちは伝わって来た。
それに二人のままでなく、本当に早く誰かに来てもらいたいと思う。
二階の事務所部分は、掃除機をかけてから拭き掃除をし、一階のキッチンやトイレ部分は掃除機をかけてから床を洗った。
倉庫は、床がコンクリートだったので、水を撒いてからホウキで掃くだけにした。
昼食には、近くのイタリアンレストランに出かけ、肉料理を食べ、そのついでに電話会社へ寄って、申し込みをする。
朝から夕方まで桑原と二人っきりで、食事も一緒。全く休憩時間もない。
早く通常勤務の環境が整って、普通に休憩時間が欲しいと思った。
いや、正確に言えば、桑原が昼食後に休憩しようと言って、食事から戻ると事務所で休んでいいと言うのだ。
しかし向かい合わせに置かれた折り畳みの椅子に座ると、途端に桑原が喋り始める。
自分のこれまでの経験や家族のこと、取引先の担当者のゴシップのようなことまで喋り出すので、それを聞いていれば、何の休憩にもならない。
桑原がそんなことに気が付いていない事は分かっている。
けれども私には、それを止めさせる良い台詞を見つけることができなかった。
この日は掃除と固定電話の申し込みだけで一日が終わった。
夕方、帰ろうとしていると、桑原に呼び止められ「一緒に買い物に行ってもらえないだろうか」と頼まれた。
桑原はスーパーに出かけても食料品以外の表示が読めないので、何も買えないと言うのだ。
しかし、ここの商品の表示は、殆どが仏語、蘭語、そこに時々独語が入っているけれど、英語が入っていないので、私にもよく分からないのだ。
辞書を見ながら、或いは勘で買い物をして行くしかなかった。
一度調べたものはメモに書いておく。
そうして、単語帳を作って暗記して行くしかないだろう。
大きなスーパーマーケットは8時まで営業しているので、5時半に辿り着けば、充分に買い物ができる。私たちは事務所に鍵を掛けると、そのままショッピングセンターへ向かった。
こちらのスーパーにある買い物カートはとても重く、腰を入れてえいっと押さなければ動かない。
周囲を見回すと、平日だというのに意外とカップルでお買い物をしている人が多いのに驚いた。
勿論、女性の一人客もたくさんいたけれど、男性客がこんなに多いのは、日本とは違うと思う。
カップルを見ると、ほぼ全ての男性がカートを押して、女性が商品を選んでいる。
なるほどこれもレディーファーストなのかな、と思う。
桑原が同じようにカートを押して歩くと、何だか違和感を感じる。
それでも私には重いし、辞書を引きながら桑原に説明をしたりしなければならないので、両手がふさがっている。
なので、ここは頼っておこうと思った。
桑原は一人暮らしに慣れていると言った通り、漂白剤や冷蔵庫の脱臭剤などの細かい物をリストに挙げていた。
私はそのひとつずつを辞書で引いてからカタカナ風に説明し、メモを取って行くけれど、桑原は「ふんふん」と言うだけで、聞いているのかどうかさえ分からない様子だ。
「漂白剤はジャベルと言います。例えばアベック・ジャベルと書いてあれば、磨き粉のようなものや、トイレ洗剤にも漂白剤が入っているということです。
お洋服にかかると色が抜けますから気を付けてくださいね」
「あ、そうか。ふんふん」
あまり考えすぎるとまたストレスを感じると思い、私は気にしないことにした。
「しかし、電池なんか高いよねぇ。日本じゃあこんなにしないよ」
「そうですね。この国で生産していないものはみんな輸入になるので関税がかかるのでしょうか? そうでなくても、きっと輸送費はかかっていますよね」
「まぁ、そういうことだな」
レジには結構人が並んでいて、横切って行く人の通行の妨げになると思い、隙間を作って待っていると、横から順番を割り込んで入って来る女性がある。
私がぎこちないフランス語で「待っているのです」と言ったのに、「私もよ」と言い返されただけで、動こうとはしない。
私の後ろで待っている男の人が何か抗議らしいことをを言ったけれど、「はん?」と言うような声を出したきり、無視してしている。
桑原を見ると目が泳ぎ、卑屈に見える笑いを浮かべていたので私は諦めた。
別に順番を一つ抜かされたことくらい、人生には何の問題もない。
でも不正を感じると、それを赦すのは嫌な気がした。
やがて割り込んだ女性は何食わぬ顔で、ベルトコンベアに自分の購入したい商品を載せ始める。
今日だけのことならいいけれど、ずっとこんな風にならないように、これからは気を付けようと思った。
ここではキャッシャーの前に2mくらいのベルトコンベアが付いていて、その上に客が自分で商品を載せる。
すると、その商品はキャッシャーの座っているところまで流れて行き、レジ係がスキャンし終えて、スキャナーの向こう側に置いたものを、そちら側に回った客が待っていて持参した袋や籠に入れ、支払いを済ませてから持って帰るようなシステムになっている。
これにはずいぶん時間がかかるので、全く能率的ではないと思うけれど、どこのスーパーマーケットでもこうなっているので待つしかない。
おまけに、キャッシャーで働く人は椅子に座っていて、客は立って待っている。
知り合いなのか何なのか分からないけれど、突然、客が会話を初めて、それが終わるまで待たされるようなこともあり、どうにも理不尽な気がしてならない。
しかも、スキャンし終わった品物の方向を見ることもなく、客のスピードになんか構わない人もあるので、そうすると、サラダ菜の上に重いものが重なって潰れそうになったりして、慌てることもある。
どうして、こうもいい加減なのだろう。
比較しても仕方がないけれど、日本では考えられない事だと思う。
このことを後で地元の人に尋ねると、ここでは組合が強いので、トラブルがあればすぐワーカーがストライキに入るから、彼らは守られているのだと教わった。
客という立場がそんなに強いとか偉いとか思っている訳ではないけれど、せめて物事が円滑に進むような仕事の仕方を考えて欲しいと思う。
レジでは、いいと言うのに、桑原が私の分も支払いを済ませてしまった。
私は周囲の人間の理解できない外国語でやり取りをしていると、ニコリともせず怪訝な顔をされるのが嫌で、早めに諦めた。
それに自分の買い物は日本円にして1000円以下なので、そんなに意地を張るような金額でもないと判断した。
レジを無事にくぐり抜けて、支払いを終えた桑原に礼を言った。
すると桑原はご機嫌で、また誘い始めた。
「いや、いいんだよ。それよりさぁ、何か食べて行こうか?」
「いえ、昨夜もご馳走して頂いて外食をしたところですし、そんなに贅沢は出来ません」
「ほら、家に帰って作るのが面倒なんだよ。ピザとかスパゲティーとかさ、その辺で簡単に済ませようよ」
「そんなお店があるのでしょうか」
「あるよ。さっき来る時に見たんだ。時間が早いのにもう食べてるんだなぁと思ってさ」
「でも……」
どうも私は、強く言うことが苦手だ。
それに桑原が自宅に戻り、一人でスパゲティーを茹でている場面なんかを想像したくない自分もいた。
そういうことの似合う男性もあれば、似合わない男性もあると思う。
勿論、それは私の偏見なのだろうけれど。
結局、また桑原に押される形で外食を承諾してしまった。
もしかすると、このソフトながらも強い押しは、営業で培って来たテクニックなのかもしれないと、ふと思った。
私はピザがあまり好みではないので、ラザニアを頼むことにした。
すると桑原が、「僕もそれにするよ」と言ったので途端に後悔をした。
意地悪な気持ちからではないつもりだけれど、ずっと一緒というのは嫌なのだ。
これからは桑原が選ぶのを待ってからオーダーを決めようと思った。