不快感
昼食には大好きなパスタを料理した。
不自由なこともいろいろあるけれど、ここでは食べ物への税金が極端に低いらしく、お金をかけなくても充分においしいものが食べられる。
例えば生パスタやチーズ・ハム類は種類も豊富な上、手軽に入手出来る。
欧州がオリジンのものは、国内で加工されたものでも、日本ではお値段が高い。
私の大好きなイタリアンは簡単でおいしいけれど、オリーブオイルはコレステロールの心配がないにしてもカロリーが高いので気をつけなければならないと思う。
食後の片づけを終えた後、日本に送ろうと思って買っておいた絵葉書を広げた。
何通かのお礼状と、友人たちへの近況報告を書かなければいけない。
欧州では、電話にSMSというメールとは別のシステムが導入されているので、電話でメールというのは一般的ではない。
それは全く不可能ではないにしろ、電話が欧州仕様で日本語が打てないためローマ字送信となるので、私は部屋にインターネット回線が来るのを待つことに決めていた。
絵葉書を書きながら、ふと自分の選んだ漢字が間違っていないかと不安になる。
パソコンを使う生活に慣れ過ぎて、手書きでは自信のないことも多い。
薄いけれど、用字用語辞典を持っていて良かったと思う。
早速、誤字を見つけ、修正液を使って直した。
気が付くと数葉の絵葉書を書き上げるのに1時間以上かかってしまった。
私の場合にはそれが性格で、時間に遅れてはいけないと思うので、出かける日には時計が気になって仕方がない。
6時に桑原が迎えに来るのならと逆算をして、化粧や着替えなどの支度をする時間を計算に入れながら、明日のことを考えた。
おそらく今夜は遅くなるだろうと思うので、朝慌てなくて済むように冷蔵庫の中身を点検し、明日帰宅途中に買って帰る物のメモを作り、着て行くものとアクセサリーをセットにしてハンガーに掛けておく。
余分に時間を見ていたので5時過ぎには支度ができ、軽く拭き掃除をしているとドアのブザーが鳴った。
時計を見ると5時半だ。
(これから出かけなければならないというのに、いったい誰だろう?)
日本で暮らしている時には、お休みの日に突然来る人間と言えば振興宗教への勧誘か、セールスマンと相場が決まっていた。
しかし、このアパートは、建物の玄関ドアがオートロック式なので、私がインターフォン越しにそれを解除しない限り、部屋の扉の前まで来られるのは同じアパートの住人だけという事になる。
カメラは建物の外には取り付けられているけれど、部屋の前にはない。
覗き窓から見てみると、何と桑原が立っていた。
(一体、どうやって入って来たんだろう?)
まず、それが気になった。
それでも相手は上司だし、約束よりも早く来たからと言って、まさかセールスマンを追い払うような対応をするわけにも行かない。
昂りそうになる気持ちを落ち着けながら、ドアチェーンを外した。
扉を開けると、桑原が顔を崩しながら箱を差し出して言った。
「やぁ。これ、チョコレートなんだ。ほら、プラリネっていうアレ。
溶けちゃいけないから、すぐに冷蔵庫へ入れてくれる?」
私は不意を突かれた感じで一瞬返答に困ったけれど、チョコレートを受け取りお礼を言うと、そのまま扉を閉めてしまった。
準備は出来ている。
私は、とりあえずチョコレートを冷蔵庫に入れると、バッグと鍵を持ち外へ出た。
「お待たせしました」
そう声を掛けてから鍵を回すと、出来るだけ自然に見える仕草でエレベーターのある方向へ歩き始めた。
気を抜くと怒りで震えそうなくらい、嫌な気持ちになってしまっていたのだ。
「いやぁ、早く着いちゃってさ、どうしようかと思ったけど来ちゃったんだよ」
「そうでしたか」
「ほら、それにチョコレートを持っていただろう? だから溶けないかと気になっちゃってさ」
「えぇ」
「今朝ね、結局ホテルの朝食に出かけてさ、その後、ずっと街をブラブラしていたんだ。
食事が終わったら11時でさ、早かったもんで、どう時間を潰そうかと思ってね」
「はい」
「でさぁ、多くは閉まっていたんだけど、結構開いてるお店があったんだよ。それでこのチョコレートも買えたという訳なんだ」
「そうですか。ありがとうございます」
私は相槌を打つので精いっぱいだった。
本人には悪気がないのかもしれないけれど、こんな風にプライベートな空間に入って来るほど親しくされるのは困る。
それをどこかで言わなければならないけれど、微妙な問題だし、タイミングを計るべきだと思い、黙っていた。
「それがさぁ、おいしそうなケーキがあってね、僕は好きなもんだから買おうかと思ったんだけど、それを持って来たらさぁ、君にコーヒーを入れてくれって言っているように見えると厚かましいでしょ? だから止めたんだよ」
桑原の台詞は、どことなく私の心を探っているようにも聞こえる。
少しは、私が迷惑に思う事をしていると気付いているのだろうか?
もしかすると私が、『あら、私はケーキも好きです』とか『あら、コーヒーくらい入れれば、よかったですね』などと言うのを期待しているのかもしれない。
そういう期待をされるのは嫌だ。
私は、きちんとラインを示そうと思った。
「そうですね。いきなりケーキだったら驚いたと思います。でも、チョコレートは私も好きですので、ありがたかったです」
「あ、そう? じゃあ良かったな、うん。いやね、昨日も何度も電話したから五月蠅いオヤジだな、と思われると困ると思ってさ」
それから一人「あっはっは」と笑う。
私は肯定も否定もせず、少しひきつっているかも知れない頬笑みで誤魔化すことにした。
一緒にエレベーターに乗る短い時間が、私には苦痛に感じられたのだけれど、桑原は上機嫌のまま、如何に買い物をしたかについて話をしている。
「それでね、通じないからさ、チョコレートを順番に指差して 『This and this and this……and all!』って言ったんだよ。そしたら、店員の金髪の女の子がね、既に箱に詰まったのを指差して『同じだから、これを取れ』って言うんだよ。で、手に取ったらさ、また僕の手から箱を取り返して、リボンを掛けてくれてさ、そうやって買って来たんだ」
「へぇ、そうでしたか」
「うん。もうね、何言ってんのかわかんないんだけど、何となく思った通り頑張っていれば、通じるもんだねぇ」
「はぁ」
自慢なのか自嘲なのかは分からないけれど、どうしてそんなことまで私に話すのが分からない。
こういうことは男性にとっては失敗談で、一種の恥とも思える出来事ではないのだろうか?
本当に桑原はよく喋る。
50代の男性が単身赴任して来て一人というのは、かなり寂しいものなのかも知れない。
それでも私も同じ条件でここにいるのだから、一方的に煩わされても困るのだ。
休日の食事に付き合うのは、今回限りにしてもらいたい。
しかし、それを言いだすのは難しいことだと思った。
車を止めてあるところまで移動すると、桑原が時計を見ながら言った。
「う~ん、食事にはちょっと早いよね。アペリティフにでも行こうか。」
「どちらへですか?」
「いや、ほら今朝行ったホテルだよ」
「ホテル……ですか?」
「うん、なんかね、ボーイが夜も来いって言うからさ、行ってもいいかなぁと思っていたんだ」
「そうでしたか。で、食事に出かける先には、もう予約を入れて下さったのでしょうか?」
「いや、なーんにも! だって僕には、調べられないだろう? 日本と違って方法が分からないから。まぁ、歩いていたら、適当にいいところがあるんじゃないかな?」
「それでしたら、ホテルで尋ねてもいいかも知れませんね。」
「うん、そうだね。でも、あそこでも食事ができるんだよ。そのまま食べてもいいしさ」
「そうですね。それで結構だと思います」
「いやいや、そういう意味じゃなくてさ、君が選んだらいいんだよ。他に行きたいところが見つかったら、他に行こうよ」
「分かりました」
私は動き始めた車の中で、会話に疲れを感じていた。
桑原の言葉は柔らかいのだけれど、どこかすれ違っている。
遠慮がないとは思うが横暴ではない。
桑原の言動に対して、いちいち相手の思惑を考えながら話すのは、それだけで大そう疲れる仕事だと思う。
けれども、正しい正しくない、という感覚に似ていて、間違っているとは言い難いのだ。
唯一言えるとすれば、好みの問題かも知れなかった。
しかし嫌いが言えなければ、こういう不快さをはねつけるのは非常に難しいと思う。
そして今、相手の言葉を跳ね返そうとする度に、自分が計算をしながら人と付き合うような嫌な人間に思えて来るのだ。
それは、振りおろそうとする刀で自分が傷ついてしまう感覚に似ていた。