新しい街で
食事を終えた私は、気持ちを買い物に集中させることにした。
知らない街を歩いているので、全くの手探りだ。
ようやくインテリアのお店を見つけて中に入る。
そのお店ではカーテンやベッドカバーなど、いくつかの買い物は無事に済ませることが出来たけれど、布というのは意外に重く、すぐに手に持てる量の限界に達してしまった。
しかも今日中に、月曜の朝までの食料品も手に入れなければならないので、あまり時間がなかった。
残りは平日の帰宅途中を利用するか、次の週末に買い物をするしかない。
とりあえずトラムで一旦アパートへ戻って荷物を下ろし、その足で近くのスーパーマーケットへと出かけることにした。
こんな晴れた一日だと、夜が明るいので時間の感覚が分からなくなる。食料品の買い物を済ませて帰宅した頃には、もう8時半に近かった。
食料品を冷蔵庫と貯蔵庫の中にしまい、シャワーを浴びようと思ったところへ、また電話が鳴った。
予想通り桑原からで、私はネガティブな気持ちを押し殺しながら電話に出た。
「はい」
「あぁ、かすみ君、まだ街にいるのかな?」
「いいえ、もう買い物を済ませて部屋に戻っていますが?」
語尾を僅かに上げたのは、桑原が電話をかけて来たことへの抗議の気持ちと、名字ではなく名前を呼ばれたことに対する不快感の表明のつもりだった。
「そうか、何だ……。今日の僕は、どうも後手後手に回っているよね。いえ、まだ街にいるんならさ、荷物も大変だろうからアパートまで車で送ってあげようかと思ったんだよ」
「そうでしたか。それはご親切にありがとうございます。でも一旦戻ってから食料品の買い物も済ませましたから大丈夫です。どうぞご心配なく」
「そう? でも食料品なら明日にすれば良かったのに」
「明日は日曜日ですから、殆どのお店はお休みですよね」
「あ、しまった。そうだ、忘れていたよ。あ痛ぁ、こりゃ困ったなぁ」
「お忘れだったんですか?」
「そうなんだよ、参ったなぁ」
「あら、でもお困りでしたら、ホテルでなら朝食が頼めると思いますし、車で移動すれば何軒か午前中だけ開いているスーパーマーケットもあるそうですよ」
「んー、そうか。いや、いいよ、自分で何とかするから。君に迷惑を掛けるわけには行かないしね」
(迷惑を掛けるって、一体どういう意味だろう。)
私は更に嫌な気持ちになった。
まさか私に朝食を作れとでも言おうと思ったのか。
しかし、そこまでされれば立派なパワハラだ。
私は感情が昂ってしまったので返事ができなかった。
「いや、気にしなくてもいいよ。うん、明日6時頃に迎えに行くからね」
「わかりました」
私はそれだけ返事をするのがやっとだった。
しかし、この調子で、この先ずっと電話が続くのかと思うとぞっとした。
私は気を取り直し、シャワーを浴びてキッチンへ行くと、先ほど買って来た小さなワインボトルを開けた。
ひとりテーブルで飲むのも味気ない。
キッチンから3段のステップを上り、ベランダへ出て外を眺めることにした。
下見の時にも素敵だと思ったけれど、窓の外は一幅の絵のようだ。
たくさんの煉瓦造りの建物と赤い屋根が異国情緒を醸し出していた。
3階というのは日本で言う4階に当たり、遠くに背の高い建物がそびえ立っているのが見えはするけれど、この辺りにはないので街を俯瞰する事が出来る。
私はテーブルへ戻るとワインを片手にベランダで飲むことにした。
そろそろ九時半だというのに、まだ夕焼けのまま空は明るい。まるで時間の流れが遅くなったようだ。
手すりにもたれながら景色を眺めていると、気持ちが落ち着いて来る。
そこかしこに緑があるところも日本とは違うと感じる。
(そうだ。ここにも小さなテーブルと椅子を置こう)
時折、ここで食事をするのも悪くないと思った。
翌朝は、かなり早くに目が覚めた。
私は身支度を整え朝食をして、片付けをさっと済ませると散歩に出かけてみることにした。
これが日本にいたならパソコンのスイッチを入れ、ニュースやメール、SNSをチェックしていたところだろうと思う。
けれどもここでは電話回線もまだ繋がっていないし、TVも観られない。
桑原のアパートも同じ状態なので、月曜日に手続きをすることになっていた。
部屋の鍵をかけるとエレベーターで地上階に降り、私は表に出た。
一瞬どちらへ向かって歩こうかと迷ったけれど、昨日乗ったトラムのあるのとは反対側へ行こうと思い、スーパーマーケットのある方角へ向かった。
私は、じっくり街の様子を確認しながら歩いた。
昨日、食料品を買いに出かけた時には慌てていて気が付かなかったけれど、郵便局や銀行の出張所もあるし小さなブティックも何軒かある。
その隣にはお花屋さんが営業していて、中華料理店やイタリアンレストラン、この国が発祥で名物のポテトフライを売っているフリッツ・ショップもあった。
小さな街だけれどなかなか便利だ。
土地がほぼフラットなので、やはり自動車よりも自転車を購入する方がいいかもしれないと思う。
その先ですぐに商店が途絶えた。
引き返そうかとも思ったけれど、時間はたっぷりある。
もう少し歩いてみたかったので、住宅街に入った後も美しい家並みを眺めながら歩き続けた。
やがて林に辿り着いた。
背の高い白樺の木の間をくぐって少し奥に入ると、大きな池があり鴨が子供を連れて泳いでいた。
まだ疲れてはいなかったけれど、この風景が気に入ったので池の端のベンチに座り、しばらく休憩することにした。
今日もいいお天気で、木々の緑は鮮やかだ。
見上げれば濃く青い空に、幾筋もの飛行機雲が描かれている。
それらは、まるで子供の落書きのように見えた。
日本を出てから2週間。
引越しをして来たという感覚が、まだ身に付かない。
旅行者気分で眺める景色は全てが温かく、それでいて絵のようにも思えた。
私がぼうっとしていたところへ、小型犬を連れた老紳士が通りかかり、「ボンジュール!」と挨拶をされる。
咄嗟には口がフランス語にならないことを、自分でも意識しながら言ったので、私の「ボンジュール」は、ぎこちないものとなった。
そういえばと老紳士が通り過ぎてから、これが今日最初に発した言葉だと気が付いた。
日本にいた時も一人で暮らしていたので、お休みの日には話をしないこともあったけれど、大抵は親しい友人と外出をするか電話で話をしていた。
海外で、誰も知らないところへ来たのだから仕方のないことだ。
理屈では理解できるけれど、寂しくないと言えば嘘かも知れない。
それでも、参加する予定にしているフランス語の夏期講座が始まれば、友人もできる筈だからと私は楽観的に考えていた。