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人事


 食事をした後の食器と調理器具を洗った後、軽くシンクやコンロの周辺も軽く掃除をした。布巾を絞っているところで、明日には洗濯もしなければならないことを思い出した。

 インターネットで天気予報を見ると、明日はあいにくの雨のようだ。室内干しなら、今夜のうちに洗って干しておいても同じことだと思い、機械を回すことにした。

 洗濯機はアランのものよりも、レンタルで借りているこの部屋の機械の方が大きい。そこで、一緒に回してしまおうと思い、アランの部屋へ洗濯物を取りに行った。

 同じベッドで眠ってはいるけれど、化粧品や着替えなどをみんな持って行くわけにはいかないので、毎晩、着替えを持ってアランの部屋へ行き、朝は、こちらへ戻って洗面などを整え、化粧をしてから一緒に食事をしていた。

 アランは朝寝坊なので、朝はなかなか起きない。そこで朝食を作る役は自然とかすみの方へ回って来ていた。

 時折、日本で付き合っていた男性とのことを思い出す。

 あの頃、土曜日に部屋へ行くと、彼の部屋は毎回散らかっていて、掃除と洗濯をした後、キッチンで食器を洗い、食事の用意をするまでに半日かかった。

 アランは殆ど散らかさない。出したものを元にしまうことが徹底しているからだ。それに、こちらの男性は体力がある所為か、休日でもゴロゴロしていることなどなかった。

 けれどもアランは、このところ仕事が忙しく、部屋の掃除や洗濯は任せられてしまっている。

「日曜日にするから、放っておいたらいいよ」とアランは言う。それでも、こちらは殆ど毎日定時で帰宅して時間があるというのに、掃除をしていない部屋で一緒に食事をするのも後ろめたい気がして、つい手を出してしまうのだ。

 それに恋人の世話をすることは楽しいことだ。大きなシャツに触れるだけで嬉しいし、喜ぶ顔を想像したりする時間がいい。或いは、自分に対する評価が上がることで、もっと愛してもらえるかもしれない、というような計算をしている自分もいる。

 すると、しばらく考え込んで、愛することは、ただのエゴイズムかもしれないと思えたりする。そういう時には、相手が喜んでくれれば嬉しいという気持ちは本物なのだと自分に言い聞かせ、心を落ち着けることにしていた。

 恋をしている時のそんな小さな葛藤は痛みを伴わず、もっと甘い気持ちに陶酔するための儀式のようなものかもしれないと思う。ネガティブな考えをいろいろ並べてみては否定する材料を探し、また幸せな気持ちに浸ることを繰り返していた。ターゲットの方向が決まっているので、ボールを打ち返すテニスの選手みたいに悪玉も拾うことができるのだろうという気がしていた。

  

 その夜、帰宅したアランは少し酔っていた。

 悪い酒ではない。とても機嫌が良くて、かなり上の方のボスに仕事を褒められたことや、もっと大きな仕事を与えられるようになるかもしれないと興奮して話した。

 とりあえず、お水を入れたグラスを渡し、着替えを手伝っていると「あー、やっぱりアジアの女性はいいな。ちゃんと面倒を見てくれる」そう言いながら抱きしめようとした。

「ねぇ、酔っ払いさん、今夜はこのまま眠った方がいいわ」

「無理だよ。だって、こんなに素敵な夜なんだもの。ねぇ、グラッパーを一口だけ飲んだら眠るから、付き合ってくれない?」

 グラッパーとは四十度もあるイタリアの辛口のお酒で、こちらの男性は食後に飲むことが多い。女性は一般的に、アマレットやグラン・マニエ、コアントローなどの甘いリキュール類を飲む習慣があった。

 小さなグラスにグラッパーを入れて持って来ると、パジャマ姿のアランは、バルコニーに出ていた。

 灯りの半分消えた街は、こんな遅い時間になって、ようやく眠ろうとしているかのようだ。

 空には冴えた輝きを放つ半月が浮かび、カンツオーネが流れていた。

「きれいだね。かすみと同じくらい清々しい月だ」

「ありがとう」

 バルコニー用の小さなテーブルにグラスを置くと、座っているアランの隣に腰かけた。アランはお礼を言ってから、お酒を少しだけ飲んで言う。

「ねぇ、かすみ。僕のグラッパーは甘い味がするよ」

「え?」

 間違えたのかと思い、驚いて自分のグラスに唇を付けてみた。ところがそれは、むせかえってしまいそうなくらいに辛かった。おかしなことを言うアランだ。

 アランは、そんな表情を見て、声をたてて笑った。

「僕は、君がいて幸せだと思うよ」

「そう? 私たちはお似合いなのかしら?」

「もちろんだよ」

「そう信じるわ」

 アランは、ふーっとため息をついてから言った。

「もしかしたら、昇進するかもしれないんだけど、これから忙しくなると思う」

「そう? 大変だけど、頑張らなくちゃね」

「そういう理解のあるところがいいと思う」

「仕事って、出来る人のところへ集まって来るものだもの。それは素敵なことなのだと思うわ」

「この仕事が好きなんだ。だから、精一杯頑張ろうと思う」

「えぇ」

 かすみは、自分の勤めている会社のことを考えた。そこでも同じことが行われている。少し違うのは、古い会社では、実力のある人が必ずしも上にいるという訳ではないことだ。合理化と言いながら、そういうところが既に合理的ではないような気がしていた。


 翌日、出社すると、まだ誰も来ていなかった。

 とりあえず、簡単に机の上を拭き掃除して、汚れ物を洗い、自分用のコーヒーを持って、二階の事務所に上がると、ちょうど電話が鳴った。

 てっきり桑原だと思って受話器を取ったところ、渡辺からだった。

「おはよう、春野さん。今日は、午後まで外出なので、鍵を掛けて留守番をしておいて欲しい。あ、それから、昨日頼んでおいた予定表を完成させておいてくれるとありがたいんだけど」

 かすみが「おはようございます」以外には、口を挟む余地のない例の話し方で、一気にそこまで言った。

 とりあえず「わかりました」と言って、桑原のことを質問しようとしたら、先に渡辺が、桑原も一緒に外出だと説明し、「じゃあ、よろしく」と言って切れた。

 優しい人なのか冷たい人なのか、訳が分からない。

 パソコンを開いて、本社や他の支社からのメールを確認すると、社内報が届いていた。家族も参加できる一日旅行の案内や、新しく開発する商品のプロジェクトへのアイデア募集など、たくさんのコンテンツがあって、情報課も頑張っているんだなと思いながら、今の自分に関係のない部分をスクロールさせた。

 ふと、目に止まったのが人事異動という項目で、そこには、開発課の女性係長が誕生したと書いてあった。軽く驚きながら、少しずつ会社の考え方が新しく変化しようとしているところを好もしいと思った。

 そして次の行を見て驚いた。

「欧州・アフリカ統括部長 渡辺一生」とある。

 間違いなく、あの渡辺だ。それに統括部長などというポストは、これまでなかった。いったい、どういうことだろう?

 いずれにしろ、これで渡辺は、正式に桑原の上司ということになったのだ。今回の訪問で態度が変わったのは、このことと関係があるのかもしれない。これで桑原や私の立場に何か変化が起こるという訳ではないかもしれないけれど、いろいろな面で、これまでとは手続きが違ってくるだろう。

 例えば、新入社員の募集に関して、桑原は女性の社員も歓迎したい様子だったけれど、渡辺は反対だった。

 フェミニズムの問題もあり、ここでは当然のことながら、男女の雇用機会は均等である。なので、求人募集広告にも性別を書かない。しかし、こんな小さなオフィスなので、面接する前の段階で、こちらが選ぶのは自由だ。5人の従業員がいれば、半分と言っても1人はどちらかが多くなってしまう。

 私と、お掃除を手伝いに来てくれる女性で、既に二人は確保できているので、営業職のために雇い入れる人の性別は、どちらでもいいことになる。

 そういえば、私がここでの役目を終えて、日本へ帰国する頃には、事務員の女性を雇い入れなければならない。そのことについて、桑原はまだ一言も言わないけれど、どう考えているのだろう?

 アランとの関係を考えると、今は出来るだけ長くこの国にいたいと思う。

 二人の関係をどんな風に進めていくかについて、すぐに結論を出すことは難しいだろうと思うからだ。

 自分から言い出さなくても、その内、桑原の方から何か言って来るだろう。慌てることもないのだから、とりあえず今は黙っていようと思った。


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