納車
翌日から、昨日出した営業社員募集広告に対して、たくさんの問い合わせメールがあって驚いた。この日は十三通もあり、そのほとんどの応募者が新卒で、日本語を話せる男性だった。
倉庫で働いてもらう人の方には全く応募がなかったけれど、こちらはローカルのパートの人でもいいので、職業安定所のようなところへ声を掛けてみよう、と渡辺が言う。
今週中なら営業社員の面接にも立ち会えるからと、出来るだけ予定を詰めるように指示された。
中には女性もあったけれど、渡辺は「英国などに出張もあるので、出来るだけ女性は避けたい」と言う。ところが桑原が「女性でもいいじゃない?」と、渡辺のいないところで不服を漏らしたので困った。
上司が二人いて、両方から違う指示を出されると、間にいる者はどうしたらいいのかわからなくなる。しかし渡辺はすぐにアフリカへ帰るけれど、桑原は直接の上司としてずっとここにいる。迷ったけれど、一応女性たちも候補として残し、今週は男性を中心に面接の予定を組むことにした。
桑原に面接時間の都合を訊くと「うーん、そうだな……」と考えている風だったけれど、横にいた渡辺が即答した。
「金曜日には、得意先へ外出が決まっているし、それ以外でも時間内に処理しないといけないことがいくつかあるので、面接時間は午後4時から6時の間に、一人20分ずつでセッティングしといて」
私は指示通りに動くことにした。
渡辺の物言いや態度は、決して付き合いやすいものではないけれど、仕事を一緒にするのには、クリアーでやりやすい。これまで桑原と仕事をしながら感じていたような、手探りにも思えるやり方への不安はなかった。
桑原の方は、まるで自分をないがしろにされたというような態度で、渡辺が仕事をどんどん進めて行くのが面白くないのか、何となくむくれているようにも見えた。
けれども新しい支社として、これから利益を上げて行かなければならないのだ。個人的な感情は、できるだけ抑えて行かなければならないのではないかと思う。もしかすると桑原には会長の親族としての甘えがあるのかもしれないけれど、他の多くの社員の生活が懸かっているのが会社組織だ。その辺りに渡辺の態度が変化した理由が潜んでいるではないかという気もしていた。
お昼前に自動車の販売店から電話があった。
「何時に来られますか?」と英語で尋ねられたので、どういうことか訊きなおすと、納車のことを言っているようだった。納車なのだから、持って来てくれるとばかり思っていたのだけれど、どういうことだろうかと考えていると、渡辺が「ちょっと貸して」と受話器を取って話し始めた。
まさかこんなにフランス語ができるとは思っていなかったので驚いた。しかし考えてみれば、当然かもしれない。渡辺はアフリカ工場起ち上げの時からのスタッフだと聞いている。だとすると、もう十五年近くフランス語圏で暮していることになるのだ。何かと手際の良いのも、これまで経験を積んで来た結果なのだろう。
電話が終わると、渡辺が説明をしてくれた。
「この国では、自分で車を受け取ってから、車検場プラス陸運局のようなところへ車を登録し、ナンバープレートをもらいに行かなくちゃいけないらしいよ。頼めば代行もしてくれるけれど、混んでいるので車検場へ予約すると一週間もかかるらしい。今から行って予約なしに順番待ちの列に並べば、夕方までには済むと言っているから、出掛けた方がいいな」
「はい」
「桑原さんと僕は打ち合わせもあるので、車検場まで送って行くから、悪いがそこからは一人で何とか頑張ってくれ」
「わかりました」
「英語が通じるそうだから、心配いらない」
「そうですか。確かめて頂いてすみません。それなら大丈夫だと思います」
「うむ」
出掛ける前に、紅茶を飲んだカップを洗おうと思い、片付け始めると、渡辺が止めた。
「そんなの後でいいさ」
「でも……」
「さっさと並んだ方がいいよ」
「はい。わかりました」
私は食器を水に浸けて出掛けることにした。
桑原は、まるでその様子を見ていないような振りをしていたけれど、渡辺が「行きましょうか?」と声を掛けると「ん? あぁ」と返事をしてから、いかにも作業を途中で邪魔されたという様子で鈍く立ち上がった。
何となく雰囲気が良くない。桑原にとっては、やはり渡辺のリードに従うのが面白くないのではないかという気がしていた。
渡辺が運転を申し出たけれど、桑原は自分の車だからとハンドルを握った。
自動車販売店までは渋滞を抜けなければならなかったので、三十分ほどかかったけれど、お店の人から車と書類を受け取り、車検場までは、そこから十分ほど来た道の方向へ戻ればいいと教わった。
「ここから運転できるかい?」
桑原の問いに「はい」と頷いていると、渡辺が苦笑して言った。
「だって、そのために車を早く購入したんでしょ?」
「そうだが、いきなり大丈夫かと思ってさ」
「既に空港から自宅まで運転したのなら大丈夫ですよ。彼女若いんだし、しっかりしてますって」
そんなことまで喋っているのかと思い、一瞬戸惑ったけれど、桑原の性格を考えると、ありがちなことだと思いなおした。
車はすぐに引き渡せるように準備ができていた。
担当者はにこりともせずに書類を示し、桑原にサインを求めた。いちいち比較しても仕方のないことだけれど、日本でなら、もう少し親切に対応してもらえたのではないかと思った。車は小さなものであっても決して安価ではないのだ。
桑原はキーを受け取ると、予備の一つを自分のキーホルダーに付けてから、もう一つのキーを「はい、安全運転で頼むよ」と言いながら手渡してくれた。
「はい、ありがとうございます」と答えてから車の運転席に座る。
車検場へは桑原が先を行くことになり、後ろについて走った。
新車ではなかったけれど、それに近い状態で、走行距離を表示するメーターの数字は八千キロを示していた。
パーキングに車を二台並べて停めると、渡辺が案内板を読み「登録事務所は、こっちだ」と教えてくれた。
中には番号札をセットした機械が置いてあったので、一枚引いて取る。
「ちょっと待ってて」と言って、渡辺が職員に尋ねてくれたところによると、ここで登録が終わるとナンバープレートをもらえると分かった。
「じゃあ行くけど、大丈夫だね?」
「はい、ありがとうございます。大丈夫です。お手数をおかけいたしました」
桑原も「じゃ」と手を上げてそのまま出て行った。
順番待ちをしていると、アジア人の少ないこの地域では、周囲の人たちの視線が気になった。
外国人と言っても、他の周辺諸国から来ていれば見慣れているので、さほど気にされないのだろう。けれども、その場にアジア人は一人きりで、広くはないこの部屋でじろじろ見られているのは気持ちのいいものではなかった。
様子を眺めていると、職員の動きは優雅で、きびきびと仕事をしているようには見えない。窓口は三つあるけれど、電光掲示板の数字がなかなか動かない。一人に対する作業に時間がかかるので、順番までにはまだ随分間があるだろうと思い、しばらく事務所の外で待つことにした。
煙草を吸う人たちから少し離れて立っていると、しばらくして、事務所からざわざわと並んでいた人たちが出て来た。
何だろうと思い中を覗いてみると、窓口が閉まっていた。時計を見ると正午を過ぎていて、ランチタイムなのだと気がついたけれど、慌ててオフィスから出て来たので、今朝作ったお弁当は事務所に忘れて来ていた。
(まぁ、一食くらい抜いても問題ないわ)
幸い水のボトルはバッグの中に入っていた。水を取り出そうとすると、そのタイミングで携帯電話が鳴っ他ので、先にそちらを手に取った。
ディスプレイには、KUWAHARAと表示されていた。
「はい」
「ランチのことを忘れていたよ。窓口、閉まったんじゃない?」
予想外の渡辺の声に驚いた。
「え、えぇ。閉まりました。でも大丈夫です」
「そこ、何かあるの?」
「お店のことでしたら、確認していません」
「そう。じゃ、待ってて」
「え?」
電話はもう切れていた。
それから十五分の後には桑原の車が戻って来て、窓から渡辺の差し出すサンドイッチとコーヒーを受け取った。
「わざわざ、すみません」
「いや、こっちも迂闊だった。これ、桑原さんのおごりだから」
「ありがとうございます」
「じゃ、このまま行くよ」
「はい。わかりました」
車から出ることもせずに、二人はそのまま戻って行った。
態度は冷たいけれど、とてもよく気が付くし親切だ。一体どちらが本当の渡辺なのだろうかと思う。人間は複雑なものだから、多少の矛盾があっても仕方がないのだろう。それでも最初の、あの意地悪な印象が拭えないのも仕方がないと思う。
サンドイッチを食べ終えてから、車のマニュアルブックを読んだ。
理解のできない専門用語もあったけれど、何となく意味が取れてよかった。それにしてもディーラーは、何の説明もしてくれなかった。この国ではこんなものなのだろうか。
それから事務所へ戻るため、ナビゲーションシステムにアドレスを入力した。もちろん日本語はないにしても英語でセッティングができた。
そうしている内にランチタイムは終わり、事務所の仕事が再開されたので、元の場所に戻った。
その場を離れなかったので、すぐに順番待ちに戻れたのが良かった。番号札を持ったまま、まだランチから戻っていない人が大勢いて、番号がどんどんスキップされ、二十分ほどで順番が来た。
そこで言われた通りの金額を支払うと、新しいナンバープレートを手に入れたけれど、これは後ろの分だけなので、前の分は、近くにあるお店かどこかで購入するように言われた。変わったシステムだと思う。
番号をもらった時に、この番号で良いか? と尋ねられたのにも驚いた。有料だけれど、嫌な場合には違う番号に変えてもらうこともできるのだそうだ。
外へ出て、車載工具でナンバープレートを取り付けようとしていると、通りかかった中年の男性が「手伝って上げよう」と言うように声を掛けて来た。
「メルシー」と言うと、慣れた手つきであっという間に取り付けてくれた。
中国人かと尋ねられたので、日本人だと答えると、日本のアニメの名前を言ってから、手を上げて去って行った。
親切な人もいる。
世界中、どこでもそうなのだ。親切な人もあれば不親切な人もいる。今更ながら、そんな当たり前のことに気が付いたように思えた。
さっさと事務所へ戻ろうと、車をスタートさせた。真っ直ぐ走っている分については不安がなかったけれど、やはりコーナーでは気を付けなければならないと思った。
左ハンドルの右側通行なのだけれど、曲がる時に信号待ちの車がないと、ついつい日本での癖が出てしまって反対車線の方へ入ってしまいそうになる。もしも間違えれば正面衝突だ。
交差点の手前では、右側通行だと何度も自分に言い聞かせながら角を曲がり、無事に事務所へ戻ることができた。