変化
次の週は忙しい週になった。
いよいよ会社の事業許可が下りて、社員募集の準備を始めることになったのだ。
桑原は、とりあえず二人の人間が必要だと言う。
一人は桑原の営業助手で、日本語とフランス語、英語のできる人、もう一人は倉庫係で、荷物の受け入れと検品、管理と出荷までを担当してもらう人だ。
募集広告をお願いするにも、どこに連絡をしたらよいかわからないけれど、ネット広告でなら求人のサイトを見つけることが出来た。
そのことを桑原に話すと少し渋い顔をする。
「インターネットでいい人が見つけられるかねぇ?」
「支社長、ネットなら費用も高くはないですし、日本語で広告を出せば、少なくともそれを読んで理解できる日本語能力のある人が来るのではないかと思いますが」
「あぁ、なるほどね。それなら、とりあえずやってみるかい?」
「はい、よろしければ広告を出してみます。でも、倉庫の人には、日本語の能力まで求める必要はないと思うので、英語で出してみます」
「ふむ、そうだね。じゃあ、そうしといて」
午前中にその作業を優先して片づけたので他の事務処理が遅くなり、お昼を過ぎているのに気が付かなかった。
桑原も作業が終わるのを待っていたらしく、食事には出ていなかったので、その時携帯電話にメッセージが入り、音の鳴るのが耳に届いたらしい。
「何か鳴ってるよ」
「えぇ、大丈夫です」
「電話じゃないの? いいよ、もう休憩したら」
「そうですか、じゃあ、失礼します」
そう言ってからバッグに手を入れて、携帯電話を取り出した。
メッセージは予想した通りアランからで「今、お弁当を食べるところ。みんなに注目を浴びているよ」と書かれていた。
思わず顔がほころんで「まぁ、恥ずかしいわ。できるだけ隠れて食べてね」と返信をした。
今日は和食が食べたいと思い、お弁当を二つ作って、一つをアランに渡した。スプーンとフォークを付けたのに、ちゃんとお箸で食べてみたいと言うので、割り箸を持たせたのだ。
どんな風に食べるのだろう? 想像するとおかしい。
「何だか楽しそうだね」
桑原の声に驚いて顔を上げると、どうやらじっと見られていたらしいと気が付いた。
うかつだった。
「えぇ、友人からです」
「そう? もう友人ができたんだね」
「はい、今週からフランス語のクラスに一緒に通う人なのです」
本当のことを言えば、またややこしくなるかもしれないと思い、とっさに嘘を吐いた。実際に、クラスが始まれば友人の一人もできるだろうから、それで帳尻を合わせるしかない。
「若いっていいなぁ。年寄りになんか誰も振り向いてもくれないよ」
「そんなことはないと思いますよ。きっと、チャンスがなかっただけだと思います」
自分でも調子のいいことを言っていると思いつつも、嘘を吐いた時にはそれを気取られまいと、ついつい饒舌になって余計なことまで喋ってしまう。
それでも桑原は、その言葉に気を良くしたようだった。
「チャンスねぇ。うむ、そう言えば、そうかもしれないなぁ。今のところ、会社とスーパーマーケットくらいしか出かけないからねぇ」
「そうなんですか? 週末も街に出たりなさらないのでしょうか?」
「ほら、外へ行くとさぁ、ずっと外国語だから億劫じゃない。もういいよっていう感じになっちゃってね」
「そうですね.確かに面倒な気はします。でも、それなら日本人会の活動なんかに出席されるのもいいかもしれませんよ。日本語で話ができますし」
「あぁ、そうだねぇ。今度行ってみようかと思っていたんだ。ゴルフに出かけるグループもあるらしいしさ」
「それはいいですね」
「うん? 君も行きたいかい?」
「あ、いえいえ。私はゴルフができないのです」
「いや、あんなもの、難しくないよ。興味があるのなら教えてあげるよ」
「ありがとうございます。でも、足手まといになっては申し訳ありませんので……」
「そんなに遠慮しなくていいよ。これまでだって、もう何人も教えたんだよ。来ればいいのに」
「あの、本当に大丈夫です。教えて頂きたい時には、ぜひ支社長にお願いしますが、今は他にもしたいことがたくさんあって手いっぱいなのです。せっかくのお申し出をお断りして申し訳ありません」
「いや、申し訳ないなんていうことはないけどね、残念だよ。まぁ、その内ということで、待ってるよ」
「すみません」
「いや、いいよ、その時で。お、それよりこんな時間だ。じゃあ、僕はサンドウィッチでも買って来る」
「行ってらっしゃいませ」
桑原が、すっと立って出て行ったので、ほっとした。
営業で鍛えたせいなのか、動きは早い。
机の上を片づけてお茶を淹れ、お弁当を広げたところへ、またメッセージが届いた。
「みんなと分けて食べたよ。おいしかった。ブラボー! どうもありがとう」
ブラボーだなんて大げさだと思いながら、とても嬉しかった。
しかし、この携帯電話の音を何とかしなければいけない。どうもマニュアル本を読むのは苦手だ。でも使いこなさなければ、また音で気づかれ、余計な詮索をされてしまうことになると思った。
食事を終えて後は、パソコンを開けて例の掲示板を覗いていた。すると桑原ではない誰かが階段を上って来たような足音がし、驚いて振り返ると渡辺が立っていた。
「あ、渡辺さん」
「あ、じゃないよ。不用心じゃないか。鍵もかけないで」
「すみません。先ほど支社長がお出かけになったものですから」
「そういう時は君も下まで送って行って、鍵をかけるくらいしたらいいじゃないか。ここは外国なんだ。ぼうーっとしていたら命まで持って行く奴だっているんだぞ」
「はい……、分かりました。気をつけます」
「もうすぐ車にも乗るんだろ? 車に乗って、最初にしないといけないのはドアロックだ。忘れたらこれも危険なんだよ」
「はい」
「ここではまだ聞いたことがないけどね、二台で車を挟んで襲って来る強盗もいる」
「そうなんですか?」
「まぁその場合、避けようがないけどね。とにかく向こうも真剣なんだ。ぼーっとしている奴が狙われると思っておいた方がいいな」
「はい」
「で、支店長、どこまで行ったの?」
「多分、役場の近くにサンドイッチを買いに行かれたんだと思います」
「そう。どのくらい前?」
「そうですね。私が食事をする前でしたから二十分から三十分くらい前だと思います」
「じゃ、電話してみて」
「はい、でも運転中かもしれませんが……」
「いいんだよ。構わないから電話して」
「……はい。分かりました」
相変わらず、この人は怖いと思う。頭が切れるというのはよく分かるけれど、有無を言わせないものの言い方が強引で、付き合いにくい。さっきのことにしたって親切心からの注意だというのは分かるけれど、同じことを言うのにも、もう少しやさしく言ってもらえれば気分が良かったのだ。
それに、桑原に対する態度が前とは違う。もう太鼓持ちは止めたというようにも見える。一体、どうしたのだろう?
番号をプッシュして三回目で桑原が出た。
「春野です。あの、今渡辺さんが見えまして……」
「あぁ、渡辺君が?」
そこで「いいから貸して」と言いながら、渡辺が受話器を取った。
「いやぁ、支社長。お忘れでしたか? ……えぇ、そうです。参りましたよ。……はい、タクシーで来ました。で今、何してらっしゃるんですか? ……はぁ? じゃあ、戻って来て下さいよ。私もまだだし、外へ出ましょう。じゃ」
殆んど電話で一方的に話すと、渡辺は音を立てて受話器を置いた。
「あの、お茶をお淹れしましょうか?」
「うん……。いや、コーヒーある?」
「はい、あります。コーヒーの方がよろしいですか?」
「あぁ、濃いやつを頼むよ」
「かしこまりました」
「あのさぁ、桑原さん、今日僕が来ること、言ってなかった?」
「はい。今日だとは仰ってませんでした」
「そう……」
話を繋げてみると、どうやら渡辺が今日来るということを桑原は忘れていたようだ。
渡辺は怒ってはいない様子だったが、何か考え込んでいる風だった。
コーヒーをいれて持って上がると、渡辺が訊いた。
「君、予定表、作ってる?」
「はい、メモ書き程度ですが作っています」
「桑原さんに指示されてないの?」
「別に仰いませんでしたけど……」
「話し方はこうだけど、別に責めているんじゃないよ。状況を知りたいんだ」
「はい、分かりました」
「じゃあ今日中に、分かる範囲でいいから予定表を作っといて。内容は、僕が後で連絡するから」
「はい」
「コーヒー、うまいよ。ありがとう」
まさか、渡辺からお礼を言ってもらえるとは思わなかった。先に出張して来た時のイライラしたような感じがなくなっていた。
「あ、どういたしまして。よろしかったらお代わりを持って来ましょうか?」
「いや、もういい。ほら、桑原さんが帰って来たよ。役場の近くのサンドイッチ屋が閉まってて探し回ったらしい。さっき、こっちから電話した時、長い列に並んでいたんだってさ」
渡辺は、少しあざけるような調子で話した。
「そうだったんですか……」
何が起こっているのか分からないけれど、もしかすると単にこのことではなく、何か大きな問題があるのではないかという気がした。
桑原が「いやぁー、悪かった!」と言いながらオフィスに入って来ると、渡辺は手を振りながら「いえいえ、かまいませんよ。誰にも間違いはあります」と答えた。
「で、タクシーで来たの?」
「えぇ、申し上げたように日本の電話が故障しているので、アフリカの電話じゃ使えないんですよ。1時間近く待っていたんですけどね。煙草で口が苦くなって来たのでタクシーに乗りました」
「本当に悪かった。昨日は憶えていたんだよ。朝、空港へ行かなきゃな……って。でも、今朝起きたらさ、例の山本課長からメッセージが入っていて、どっか行こうって書いてあったもんだからね、頭がつい、そっちに行っちゃって……」
「山本課長って、あのプロダクトマネージャーの若い人ですか?」
「そうなんだ」
「へぇ。それ、いいじゃないですか。勝てるかもしれませんよ」
「ほら、先日行った時にさ、やっぱり日本人のいる会社の方が付き合いやすいなぁって言ってたんでね、ひょっとするかと思っているんだ」
「で、何て返事をされたんですか?」
「いや、午後一番で電話をしようと思っていたんだ」
「どうしてですか?」
「だって今朝は、弁護士から事業許可が下りたっていうもんでさ、募集広告を考えるので、手一杯だったんだよ。ねぇ? 春野君」
「あ、はい。そうですね」
広告を作ったのは私で、桑原がそのことで何かをして忙しかったという訳でなかったけれど、ここは頷いておくしかないだろうと思った。
「じゃあ桑原さん、行きましょうよ」
「あ、でも、アポを取らないとな」
「そうですね。じゃあ、待ちますよ。どうせ僕たちも食事に寄ってからだから、今からだと三時の休憩に間に合うんじゃないですか?」
「そんなに早く食べられるレストランがあるかな?」
「中華料理店で、焼き飯でも頼めばいいじゃないですか」
「あ、そうだな。うん、じゃあ、とりあえず電話してみるよ」
桑原は渡辺の言う通りにして、取引先の山本課長とアポイントを取った。
前に渡辺が来た時には、もっと嫌みな印象を持っていたのに、今回の渡辺は、相変わらず口はきついし冷たいけれど、前ほど嫌な感じではなかった。
やはり桑原が言ったように離婚したことで、前の時には心が尖がっていたのだろうか。
「じゃあ、春野君、出掛けて来るよ」
「はい、わかりました」
「桑原さん、鍵をお持ちですよね? 若い女性一人でお留守番させているんだから、忘れずに施錠しなくちゃ駄目ですよ」
「あ、そうかそうか。これは気が付かなかったな」
「いってらっしゃいませ」
「コーヒーをありがとう。お昼に邪魔をして悪かった。その分、適当に休憩をしといて」
「いいえ、どういたしまして。お気づかいをありがとうございます」
「じゃ、鍵を掛けて行くから」と言いながら桑原が手を上げ、渡辺の方は振り返ることなく出て行った。
何だかいっぺんに肩が凝った気がした。渡辺は人を緊張させる男だと思う。
ただ鍵の件では、私に注意をした後で桑原にもちゃんと言ってくれた。こういう平等な扱いは好もしいと思う。
スクリーンセーバーのかかっていたパソコンに戻り、しばらく掲示板を読んだ後、渡辺の使ったコーヒーカップを洗いながら(人を判断するのは難しい)と思っていた。