恋人
暖かいベッドの上で、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
気が付くとアランが傍に座って、寝顔を覗き込んでいた。思わず恥ずかしさに、ブランケットを頭の上まで引き上げると、呼吸を整えた。
「ほら、出ておいで。僕、今日から君のお部屋の住人になるんだよ」
アランが声を作って言うので、おかしくなって少し顔を出してみると、クマのぬいぐるみが目の前にあった。
アランのお土産はテディ・ベアだった。妹がクマのぬいぐるみを集めていて、毎回お土産にせがまれるらしい。米国には各地に特徴のあるものが売っているのだそうだ。
今回は、妹宛てに小さいテディベアと私宛てに大きなテディ・ベアを買って来たと言って笑った。
「僕がいない時には、この子で我慢して欲しいと思ってね」
そう言われても、恥ずかしくて返事ができない。こんなにストレートに表現されると、どう対応したらいいのか分からなくなってしまう。
「どうしたの?」とアランに尋ねられて、とつとつと自分の気持ちを説明すると、嬉しそうに抱きすくめられた。
「君はね、僕が心に思い描いていた通りのアジア人女性なんだ。出しゃばらないけれど気が利いていて、シャイで優しい」
「そうなの? ありがとう」
「それに、ベッドで過ごした時間も、とてもすてきだった」
「………」
アランは恥ずかしがるのを見ると、喜んでいる風だった。もしかすると男性にはそういう性癖があるのかもしれないと思う。
アランが体を離した時、そっとブランケットの中から手を伸ばし、テディベアをブランケットの中に引き入れて抱きしめた。
可愛い。どうして女性は、いくつになっても、こういうものが好きなのだろう?
自分もその一人だと思った。
「ねぇ、かすみ。準備をしてあるから、バスルームへどうぞ」
「ありがとう。でも私は行かないわ。部屋に戻ってからでいい」
「帰るのには、まだ早いよ」
「でも恥ずかしいもの。ここから出られないわ」
「あ、そうか。ごめんね」
そう言うと、アランはバスローブを持って来てくれた。
迷ったけれど、せっかく用意してくれたのだから、バスルームを借りることにした。
寝室から廊下へ出る扉を開けると、ガラス越しにキャンドルが灯されているのが見えた。洋画の中で観るようにロマンチックで格好いいと思った。
考えてみれば、このバスルームは自分の部屋と同じもののはずなのだ。こういうセンスは、なかなか日本人にはないかもしれない。何だか自分が、特別な経験を積んでいる気がして、気持ちが舞い上がりそうになる。扉を開けると、甘い香りが浴室いっぱいに広がっていた。
ふと脱衣スペースの灯りが消えると、アランが入って来た。
「これなら、恥ずかしくないでしょう」と言うと、肩からバスローブを外して、浴室へと手を引いて行く。
バスタブは、そんなに大きくはなかったけれど、何とか二人で入ることができた。
アランの膝の上に乗せられ、手でお湯をすくっては肩から掛けてくれる。
「この香りは好き?」
「えぇ、甘いいい香りね」
「ロータスの香りなんだよ。少し前にデパートで見つけたんだ。韓国製なんだけど、日本製は見つけられなかった」
その時、先日掃除をした時に見つけた箱は、アランが自分で購入したものだったのだと分かった。
「そうだったの。日本製のものが欲しいの?」
「いいや。正直に言えば、どこのでもいいんだ。香りさえ良ければ」
「そう? 日本製のものはね、ジャスミンの香りが多いかも知れないわ」
「ジャスミンも好きだよ。でも、日本のイメージだと桜かな?」
「桜ねぇ。あるといいなぁ」
「かすみに似合う香りだと思う」
「そうなの?」
「あ、そうだ。僕の知っている香りがあるよ。今度買って来る」
アランは時折キスをしたり抱きしめたりしながら、時間を楽しんでいるようだった。
比較する自分を嫌だとは思いつつも、日本人男性が相手だと、こんなに長い時間肌を触れ合ったりすることはないのではないかと思った。
二年間付き合った彼氏とも、行為が終わればそれで終わりというのが普通だった。友人の話を聞いても似たり寄ったりで、こんなにロマンチックな時間を過ごした話は聞いたことがない。決してお金を掛けたわけではないけれど、上手な演出に心がときめいた。
「お腹、空かない?」
「そう言えば、少し……」
「今夜はスープとサラダを作っておいたんだ。ソーセージを焼いて、一緒に食べよう」
「アラン……、私、嬉しいわ」
「そう? かすみの喜ぶ顔が見られて良かったよ。さっき泣かれた時には、どうしようかと思った」
「ごめんなさい」
「いいんだよ。でも本当に好きなんだ。信じて欲しい」
「わかったわ、アラン。あなたを信じる」
アランはキスをすると「ゆっくりしていていいから」と言い、軽くシャワーを使うとバスルームを出て行った。
しばらくバスタブの中にいたけれど、一人でじっとしているのは居心地が良くない。着替えて何か手伝おうと、アランに続いてバスルームを出ることにした。
迷ったけれど、まず、お湯を使った後のバスルームを掃除しようと思った。掃除用のスポンジでこすった後、シャワーで洗い流すとピカピカになった。
ほっとして振り返ると、アランがそこに立って、笑っていた。
「僕のバスルームを掃除したのは、僕以外だと、引っ越しの時に一度やって来た母と君だけだよ」
「あら、いけなかったかしら?」
「そうじゃなくて喜んでいるんだ。僕も同じで、さっと片付けるのが好きなんだよ」
「そう? それなら良かったわ」
「さて、じゃあ、いい子にご馳走しよう」
この日から生活は一変した。
キスは挨拶でもあるけれど、恋人が一緒にいる間はしょっちゅう交わすものだということが分かった。最初は慣れなくて戸惑ったけれど、人前でもそれは変わらない。忘れるとアランに注意されるので、気をつけなければならないと思った。
週末が来て、土曜日には一緒に買い物に出かけた。
「これからは、ずっと二人で食事をするのだから、材料は半分ずつの支払いにしよう」とアランが提案した。
異論はないけれど、日本人男性なら、こういう場合はきっと自分が負担をしてくれるのではないかという気がした。しかし考えてみれば男女同権ということは、男女が同じ条件で働いている以上、税金や生活費の負担も同じようにするのが普通のことだろうと思う。
同じ年齢で同じだけの収入があるのに、男性の方が余計に払わなければならないというのはおかしな理屈だ。日本でも、少しずつ男女が平等に近づいて来てはいるものの、まだ欧州と比較すると遠いのだということを感じた。買い物から帰って、個人の物をそれぞれの部屋に分けて片付けた。
アランには掃除をしたいからと言って、一旦自分の部屋へ戻ると、パソコンを開いてみた。
また新しい舞からのメールと、掲示板への書き込みがあった。
舞からのメールには、仕事が大変で毎晩疲れて帰るということと、これでは彼氏を作る暇もないということが書かれていた。
最後に「かすみの方はどう?」とあったので、迷ったけれど、舞にだけは打ち明けることにした。
「アランというイタリア人の彼が出来たの。
実は、先日書いたお隣の人なんだけど、甘い時間を過ごしています。
今から、また一緒に食事をするのよ」
送信ボタンを押してから、今度は掲示板の書き込みを読んだ。やはり、シュバルツからだ。
「語学。うーん、それもいいと思うけれど英語ができるのなら、先に英語で話せる友人も作った方がいいかもしれないですね。新しい言語を話せるようになるのには、どうしても時間がかかるから」
仰る通りなのだと思った。そこで返信を書いた。
「実は私も、先日の書き込みをしてから、そのことを考えていました。
一応、一人だけお友達はできたのですが、ご近所の人なので、もっと行動の範囲を広げれば、また別の友人もできるかな? と思っています。
大人になると、友達を作るのもなかなか難しいことですね」
書き終えてから感じたのは、先日ここへ書き込んだ時とはずいぶん心境が違うということ。
あの時は、どこかに救いを求めるような気持でいっぱいだったような気がする。それがアランと恋人関係になってから、こんなに気持ちが変化したのだ。
ほんの数日のことなのに、やはり恋の力はすごいと思う。