Passion
翌朝、何故か1時間も早く目が覚めた。
いつも出勤には時間に余裕を持っているので、普段よりも早く出かけても仕方がない。
アランの部屋には、昨日ざっと掃除機を掛け、簡単に拭き掃除もしておいた。
パソコンを開いてみる。短い間にも遠くなった日本だけれど、ニュースを見る限り相変わらずという気がする。
梅雨明け宣言がなされたということと一緒に、雨量の少なさが書かれていた。
ここでは今朝も雲が空を覆っていて、今にも泣き出しそうだ。
この雲を日本へ持って行くことができればいいのに、と思う。
昨夜書き込んだ掲示板をチェックしてみる。
まさかと思ったけれど、シュバルツからの丁寧な返信が書き込まれていた。
こんなに早くレスに返事がもらえるとは思わなかったので驚いた。
「お住まいの地域のお天気も、ここと同じであまり良くないようですね。それでも雨さえ降っていなければ、庭やバルコニーでいいワインを片手に夏の日の長さを楽しめますから、この時期、欧州の暮らしも悪くないでしょう」
この掲示板は、みんながレスにレスを重ねて行くのが特徴のようで、他のトピックも長くつながっているのを確認してから、同じように返すことにした。
「そうですね。まずは、一緒にワインを楽しむ相手がいないと難しいので、この国の言葉を学ぼうかと考えています。それから友人を作って、生活を楽しめるといいと思うのですが、それには時間がかかるような気がします」
読み返してみると、自分で書き込んだ言葉なのに、何だか遠くの誰かの話のように感じられた。
言葉を学ぶと言っても、たった1年で学べることなど、たかが知れている。買い物には不自由がなくなるかもしれないけれど、同年代の人と楽しくおしゃべりをするところまでは行かないだろう。
でも1年しか、ここにいないということを書くと、こんなに日本人の少ない地域では、すぐに個人を特定されてしまうかもしれない。
会社のことも含めていろいろ話をしたいと思うので、所在も明らかにしないままでいる方が都合がいい気がした。
短いやり取りでも、こうして話の通じそうな人と会話をすることができれば、とりあえず気持ちが落ち着く。
ありがたいと思った。
会社でランチを済ませた時、携帯電話にメッセージが届いた。
送り主の名前を見たとたん、心がときめいた。
アランからだ。
「これが自分の部屋かと見間違うくらい、きれいに磨き上げてくれてありがとう。植木もみんな元気で嬉しい。プレゼントがあるから、食事をしないで早く帰って来て欲しい」
アランが帰って来た!
自分でも驚くくらい嬉しかった。
そう、気がついたら、すでに気持ちは走り出していた。
どんなに理屈を並べてみても、恋する気持ちをコントロールするのは難しいと思う。
自宅に戻って、さっとシャワーを浴び、着替えてからアランの部屋へ出掛けた。
アランの部屋の扉が開いたかと思うと、いきなり抱き締められて驚いた。
けれども体を離したいとは思わなかった。
アランの分厚い胸や体温、シャツからの清潔な匂いに安らぎを感じた。
「会いたかった」
「アラン……」
「帰ったら一番に、かすみにキスをしようと思いながら仕事をしていたんだ」
「……本当に?」
「本当だよ」
「だって私たち、まだ知り合ったばかりで……」
「そんなの関係ないよ。時間なんて意味がない」
「私も会いたかったの」
「ほらね? 僕たちは同じ気持ちなんだよ」
そうしてアランに抱き上げられたかと思うと、そのままベッドルームへ運ばれた。
(まだ早いわ、早すぎる!)
そう叫ぼうとしたけれど、キスでふさがれた唇では何も言うことができなかったし、力強い腕からは逃れることができなかった。
やっとアランの唇が離れた時、ようやく「待って!」と言った。
「僕が嫌なの?」
「そうじゃないわ。でも、早すぎると思うの」
「そんなこと気にしなくていいんだよ。ほら、僕はこんなに君が欲しいんだ」
もっと何か言おうとしたけれど、興奮しているアランは止まらなかった。
こんな時、日本人男性なら理性で自分を抑え、きっと思い留まってくれたことだろうと思う。
思い返してみると、その場の雰囲気を壊してアランに嫌われたくないという気持ちと、こんなに急に求められたのが初めてで戸惑っていたので、どう動いたらよいのか分からなかったという気がする。
アランにしてみれば、もしかすると抵抗が弱いために、軽くためらっているだけという風にも見えたかもしれない。
そう考えると、アランを一方的には責められないようにも思える。
それにキスにふさがれてしまえば、それを受け止めるのに心が奪われ、言葉が思いつかない。
夏の薄い衣類が簡単に剥がされると、今度は身を隠すのにも気を取られてしまい、上手く抵抗ができずにアランのペースで事が進んで行った。
この時のアランの動きは、慣れている人のものという感じがした。
それでいて興奮して夢中になっている姿は、人間以外の動物のようで、そこには少しも理性を残していないようにも見えた。
思いつく限り抵抗はしてみたけれど、アランは難なく目標に到達した。
もっと抗う術はあったのかもしれない。
けれどもこの期に及んでは遅すぎて、自分より強い男性に対して逆らうのが怖いという気もした。
それも上手に動けなかった理由のひとつなのかもしれない。
アランは激しかったけれど、決して乱暴だった訳ではない。
これではレイプと言えないし、大きくは私が許してしまった結果だと思える。
行為が終わってアランが静まった時には、涙が溢れて来た。
外国に来て心細かったとはいえ、こんな風に簡単に男性の家に出入りをして、こういう結果を招いたのだ。
自業自得だと思う。
よくある馬鹿な日本人女性の話のひとつとして、自分自身を数え上げることになるかもしれない。
日本人女性がレイプだったと主張し、外国人男性側が違うと主張してぶつかる話を何度か耳にしたけれど、きっとこれに似た状況だったのだろうと思う。
裁判や法律は、その国の人間の味方であることも多いし、部屋について行ったという時点で合意と見なされることになるとも聞いていた。
そうなると、女性の言い分は通らない。
日本ではこうじゃない、と言っても、日本を知っている人などほとんどいないし、こうした場合に、他人の国の文化やメンタリティーを中心に、物事を判断する人などいないのだ。
愚かなことだ。
涙に気が付いたアランが、長い指先でそれを拭いながら謝る。
「どうしたの? そんなに嫌だった? 僕は身勝手だったのかな? ごめんね、かすみ。でもね、待ち切れなかったんだ。大好きなんだよ」
「………」
「信じて欲しい。本当に好きなんだ。最初に会った時から触れたいと思っていた。早すぎるなんてことはないんだよ。気持ちが本当なら」
もしかすると、アランはこれでおしまいにしようと考えている可能性もあると思っていたので、その言葉に少し救われたようにも思えた。
それでも、こういう一方的な行為の後では、素直に頷いていいものかどうか分からない。
イタリア人は情熱的とかラテン的だという言葉が頭をかすめたけれど、それが実際にはどういうことなのか、感覚としてよくわからないのだ。
自分と同年代の欧州人女性だったら、こんな時、どういう反応をするのだろう。
一緒に夢中になって、感覚を貪るのだろうか?
それとも、まだ早すぎるわよ、と平手で頬を打つくらいのことはするのか。
こんなことは誰にも尋ねることができない。
急に欧州の女性みんなが大人で、日本人の自分は子供のような気がして来た。
アランの言うことは本気で、ここから恋愛を始めようと思っているのか? だとしたら私がここにいる短い期間にそれを育てることができるだろうか?
けれども全くの嘘で、信じたら最後、ずっと都合のいいように遊ばれ続けるという悪い方の可能性も残っている。
しばらくの間、しっかりと抱きしめられていたけれど、アランはやがておでこからキスを始めた。
「かすみが泣くのを止めるまで、ずっとこうしているよ」
もう、泣いてなどいなかった。
目を閉じて、先ほどからの思いを反芻しながら考えていたのだ。
この状況に至っても、まだアランを擁護しようとしている自分がいる。
やはりアランに恋をしているのだと思う。
これが欧州式なら、流れに身を任せてもいいのだろうか?
アランの唇とその周囲の器官は巧みに動いて、顔から頸へ、そしてもっと下の方へと移動して行った。
(アランが好きだ)
それを考えると、自分が一体何にこだわっているのか分からなくなってしまう。
アランは優しかったし、プライドは既に打ち砕かれてしまっている。
このまま本当にアランと恋愛関係に入って行けるなら、幸せなのではないか。
今いけないと感じているのは、日本の常識をベースにした罪悪感かもしれない。
しかし今更ここで意地を張っても、それが何になるだろう。
それなら、このまま身を任せてみても間違いではないようにも思える。
アランはそれを求めているし、それに応えたいと思う自分もいた。
恋愛のプロセスなんて、元々は、きまりのないものかもしれない。
自分の気持ちは、望まれるように与えたい方に傾いている。
「好きだ」とアランが言う度に、心の中には甘くせつない気持ちが湧きあがって来た。
気持ちが熱くなると、このまま進んで行きたい思いがさらに高まる。
(ここは日本ではない。この日本式の未熟な思いが通用しないのなら、欧州式に応えよう。そして愛されたい)
「私も好きよ」と答えた途端に、アランの動きはまた激しくなって行った。
それに応えながら、(これが殻を破って、大人になるということかもしれない)と思った。