アランの出張
ビストロには、ちゃんとコースになったメニューもあったけれど、アランが明日の朝、米国出張へ発つことを考えると、ワンプレートの料理を食べて、早めに帰宅する方がよいだろうと思った。
「さて、何にする?」
「私はこのチキンサラダにするわ」
「じゃあ、僕は、トマトスープと鱈のグリルにしようかな?」
「それもおいしそうね」
「米国へ出張したら、きっとまたハンバーガーやお肉を食べることが多いから、今夜は魚にしようと思うんだ」
「あら、そう?」
「うん。まぁ仕事なんだから仕方がないけど、あちらが本社なので、出張すると忙しくて食事にかまっていられなくなる」
「そんなに忙しいの?」
「毎晩、九時か十時くらいまでは仕事かな。でも日本は、もっと大変なんじゃない? みんな、もっと遅くまで仕事をするのでしょ?」
「私は、日本の会社でしか働いたことがないので何とも言えないのだけど、ご夫婦で夕方ショッピングに出かけて、一緒に料理をするという時間はないかもしれない」
「こちらでも、みんながそんな風にはできないけどね。まぁ、日本人がよく働くというのは、思い込みもあるのかもしれないな」
「そうね。お休みが少ないから、そう見えるのかもしれないわ」
アランの言った通り、食事はおいしかった。
アランは、自分が支払うと言ったけれど、ランチもごちそうになっていたので、私は自分の分を支払った。
考えてみれば、プライベートでこんなに長く一緒に外国人男性と過ごしたのは、アランが初めてだ。
まだ知り合ったばかりで、会話の内容も深くはないけれど、日本人男性との会話以上に興味が持てるのは、やはり好奇心なのかもしれないという気がしていた。
その後、洗濯物やアイロンなどを置きっぱなしだったので、一旦アランの部屋に一緒に戻り、手伝ってもらって、それらを自分の部屋へ運んだ。
本当は、それでお休みを言うつもりだったのが、アランに頼まれた植木の水やりのことを説明すると言われ、またアランの部屋へ戻ることになった。
こんな風に男性の部屋へ出入りするのは良くないことだと思う。けれども外国にいるという開放感と、夜の時間帯とはいえ、昼間とほとんど変わりのない明るさなので、どこかで感覚が狂っているような気がしながらも、そう大した問題ではないとも感じていた。
アランは真面目だし、親切な男性だ。この人なら信用してもいいだろうと思ってもいた。
アランは「飲みながら話そう」と言うと、赤ワインの栓を抜いて、二つのグラスに注いだ。
その一つを私に渡して、乾杯を言い、寝室の扉を開けて見せてくれた。
さすがに中に入ることがためらわれたので外から覗いていると、遠慮しないで入っていいとアランが言った。
私は窓辺に並んだ大小の鉢植えを目で確認すると、「ここで充分よ。この鉢に水をあげればいいのね?」と答えた。
「うん、そうなんだけど、サボテン系の鉢は、お花が咲いているものだけ三日に一度上げてくれればいいんだ。お花の付いていないのはそのままでいい。それから、ここにある観葉植物は、毎日スプレーだけしてやって欲しいんだ」
「分かったわ。鉢はここにあるだけなの?」
「いや、バルコニーにもあるよ。プランターは大きいし、基本的には雨が降るから、あまり水やりは要らないんだけど、この時期だと二日間も全く雨が降らなかったら、三日目には上げてくれる?」
「はい、分かりました」
「あ、それから冷蔵庫だ」
アランはそう言うと、寝室を出てキッチンへと移動したのでほっとした。
「かすみ、一週間もいないと腐っちゃうから、野菜と卵、それからチーズを引き受けてくれる?」
「あら、ありがとう。頂くわ」
「あ、それからゴミだ」
「まとめておいてくれれば、私が捨てておくわ」
「そう? 一日早いから表に出すのも嫌だし、じゃあ、悪いけど頼むよ」
「えぇ、いいわ」
こちらの男性は、みんなアランのようにしっかりしているのかしら、と思った。
きっと小さい頃から、家事について、男女の区別なく教わって来たのだろう。
一緒に生活するパートナーとしては、きっと役割分担が自在にできるので楽に違いないと思う。
「そうそう。来週の週末は空けておいてよ。僕の実家に行く予定だから」
「えぇ、憶えているわ。楽しみにしているの」
「そう? それは良かった」
「じゃあ私、そろそろ帰るわね」
「それなら、僕も早く休もうかな」
「明日の朝は、早いのでしょ?」
「うん。シャトルが、6時半に来る予定なんだ」
「じゃあ、気をつけてね」
「ありがとう」
「おやすみなさい。良い旅をね」
「チャオ、チャオ、お休み」
そうして頬にキスのあいさつをしてから、早めに私は部屋に戻った。
眠る前に目覚ましをセットしようかどうしようかと、私は迷った。
明日は仕事はお休みだけど、アランが6時半にシャトルで出かけると言う。
こういう場合には、下まで降りて行ってらっしゃいを言うべきなのかしら? アランの好意は感じているし、私もアランに好意を抱いているけれど、そこまでするには、まだ早く、なれなれしいかもしれない。でも時間を知って見送らないのは冷たくないかしら?
迷った末に、私は見送らないことに決めた。
もうすでに挨拶は済ませたのだし、急いでいる時に私が行っても煩わしいかもしれないと思った。
そんなことを考えている内に、ワインのせいか、すぐに眠気がやって来た。
翌朝、携帯電話の音で目が覚めた。
「もしもし、おはよう。アランだけど、ちょっと困ったことになったんだ」
「おはよう、アラン。一体どうしたの?」
「シャトルがね、事故に巻き込まれて渋滞で動けなくなったらしいんだ。それでまだ代わりの車が来られないし、タクシーも30分後しか手配できないらしい」
「まぁ、大変じゃない。それで、どうするの?」
「かすみ、運転が出来るって言っていたよね?」
「えぇ、出来るけど」
「車で行けば間に合うと思うんだ。でも帰りは、ここまで運転して帰って来られる?」
「大丈夫だとは思うけれど、私、そんなに大きな車を運転したことはないわ」
「ゆっくり運転すれば大丈夫だよ。GPSも付いているし、車両保険にもしっかり入っているから、少々ぶつけても問題ない」
「そう。分かったわ。十分以内に部屋を出るけど、それでいい?」
「ごめん。助かるよ。じゃ、待ってるから」
私はとりあえず洗顔を済ませ、一番前にあったワンピースに袖を通すと、部屋を飛び出してアランの部屋をノックした。
アランも玄関先で待っていたようで、「ごめんね」と言いながら、すぐに部屋を出て来た。エレベーターはちょうど私たちの住むフロアーに停車していたので、大小二つのトランクを引きずりながら飛び乗って、地下駐車場まで降りる。
そこからは、もう驚きのスピードだった。
国際便のフライトは、出発時間の二時間前までには、チェックインを済ませていなければならない。
アランの乗る便は9時15分発で、空港に到着したのはぎりぎりだった。
ともかく出発ロビーに一番近い駐車場に車を乗り入れると、アランがGPSを帰宅用にセットしてからキーを抜いた。
「これで、次にスタートボタンを押せば、自宅へナビゲートしてくれるからね」
「えぇ、わかったわ」
「あ、これ、鍵とパーキングチケットだ。それで、支払いは……」
お金を出そうと、ポケットを探ろうとしたアランを止めて言った。
「帰ってからでいいわ。それより、急ぎましょう」
そう言って車を降りると、トランクからアランの機内手荷物用の小さいキャスター付きバッグを取り出して、一緒に走った。
チェックインカウンターに辿り着くと、係の女性にEチケットを渡して、無事に搭乗手続きは済ませた。
けれども係員に「時間がぎりぎりだから急いでください」と言われ、アランとパスポートチェックカウンターの前まで、また走った。
「気をつけてね Bon voyage!」
私は荷物を渡し、息を切らせながらそう言った。
アランも同じように息を弾ませながら「本当にありがとう」と言ってから、どさくさに紛れてさっと私の肩を抱き、頬と唇にキスをすると笑った。
私は「あっ」と思いながらも、「メールを書くよ」と手を挙げ、去って行くアランに手を振った。
やがて、アランがゲートの向こうに消えて行くのを見送ってから、ポケットの中にある車のキーの重さを確認した。
こんなに焦って走ったのは久しぶりのことだった。
何とか間に合ったと思うと、緊張が一気に緩んだせいか、急に笑いがこみあげて来た。