プライバシー
私は車を持っていなかったので、このアパートの地下駐車場へ入ったのは初めてだった。
アランにそう告げると、「この近所ならトラムやシカ鉄を乗り継げば、けっこう便利なんだけど、僕の働いているオフィスは工場を併設しているから、郊外にあるんだ」と言った。
アランの車はドイツ製のカブリオレで、車をよく知らない私でも素敵で驚いた。
「素敵な車ね。」
「ありがとう。僕の宝物は、今これだけなんだ」
「十分に立派な宝物だと思うわ」
「そう? よかったら運転してみる?」
「してみたい気もするけど、でも今日は止めておくわ」
「免許証は持っているんでしょ?」
「えぇ、日本では毎日、運転をしていたもの」
「それなら、買い物に行く時に乗って行ってもいいよ」
「ご親切に、どうもありがとう」
「どういたしまして」
けれども初めてのドライブが風邪を引いた上司へのお見舞いで、しかも冷凍リゾット10パック詰めた保冷バッグを抱えてであるというところが冴えない。
(現実とは物語のように美しくは行かないものだな)と思いながら、アランが扉を開けてくれたので、助手席に座った。
アランの運転は、少しスピードが出すぎているかもしれないけれど、丁寧なハンドルさばきで安心が出来た。
桑原のところへはGPSをセットしたので、迷うこともなく15分ほどで辿り着いた。
アランがアパートを見て、立派だと驚く。
「日本の企業は、お金持ちなんだね」
そう言われても、日本でなら、そんなに珍しくないレベルの建築物だと思う。
しかし、よく考えてみれば、歴史的建築物の多い欧州では、美しくもアンティークなものが大事にされる分、モダンな建物が日本のように林立しているわけではないから、珍しさもあるのかもしれないと思う。
古いものと新しいものを上手に調和させるのは、簡単ではないことなのだろう。
日本でも古い町並みを抱える観光地は、景観を大事にしている。
「そうかも知れないわね」
こちらの企業の待遇はよく知らない。組合がしっかりしていると聞くから、そんなに悪くないと思うのだけれど、正確に返事をしたくても、どう答えればいいのか分からなかった。
パーキングスペースに車が止まってから、桑原に電話をして到着したことを告げた。
一人で大丈夫だと言ったのだけれど、アランが「保冷バッグは重いから」と言って抱え、後ろからついて来てくれた。
桑原の部屋のベルを鳴らすと、すぐに扉が開いた。
「いやぁ、申し訳ない……」
そう笑いながら扉を開けた桑原は、なぜか急に表情が強張り、視線がアランの方に注がれるのが見てとれた。
桑原は着替えをしたのか、清潔そうな様子で髭や髪も整えてある。
「あ、こちらお隣の方でアランさんと言います。ここまで車で送ってくださったんです」
「そう……、それはそれは、サンキューサンキュー」
アランが「大丈夫ですか?」と英語で話しかけると、桑原も大丈夫ですと答えていた。
アランの肩にかかっていた保冷バッグを受け取り、私は桑原に渡した。
「あの、この中に冷凍パックのリゾットが入っていますので電子レンジで温めて召しあがってください。それから、これが解熱剤です」
「あ、そう。ありがとう。ちょっと待ってて。これ、冷凍室に移して来るから」
「はい、わかりました」
私がそう言うと、桑原はさっさと扉を閉めて部屋に戻って行った。
なんだか、玄関にも入れてもらえず、変な感じだ。
リゾットを作ったのが私ではなく、アランだということも言いそびれてしまった。
そう思ってアランを振り返ると、肩をすくめて見せた。
「バッグを返してくれるそうだから、ちょっと待ってね」
「別に急がなかったのに……」
「えぇ、でも、もらって帰る方がいいわ」
「そうだね。これからの季節、買い物にも持って行った方がいいしね。まぁ、そう言っても、僕はいつも持って出るのを忘れてしまうのだけど」
そこへ桑原が戻って来て、頭を下げた。
「どうも、ありがとうございました」
アランはちょっと驚いた顔をして、「オーケー、オーケー」と言いながらそれを止めようと慌てていた。
外国人は日本人が頭を下げると慌てる人もある。
習慣にないので驚くのと、対応の仕方が分からなくて怖い、という人もあるくらいだ。それは時おり勝手に宗教と結び付けて考えてしまうからではないかと思う。
日本人の宗教観をこちらの人に説明しようと思えば、容易ではない。
「それでは、お大事になさってください」と言って、私はその場を切り上げた。
桑原が最初に扉を開けて、アランを見た瞬間から桑原の態度が変わったように感じたのは、気のせいだろうか?
もしかすると、まだ引っ越して間もないのに、こんなに早く男友達を作っているなんて、今時の若い子は……というような感想を持ったのかもしれない。
アランの悪戯とはいえ、さっきのキスのことを思い出すと、私も後ろめたいような気がする。
でも、私はそんなに簡単に男性に身を許すような性格ではない。勘違いをされているとしたら訂正したいけれど、自分から言い出すのはとても変だと思う。それに、このまま行けば、恋愛に発展する可能性があるかもしれないという予感もあった。
アランは、「出張へ持って行く新しいシャツが欲しいんだ」と言った。
クリーニングが間に合わなかったので、自分で洗ったものはみんなアイロンが必要だけれど、実家に持って行って頼む暇がなかったのだと言う。
「ねぇ、私がアイロンを掛けましょうか?」
「え? そんなの悪いよ。時間がかかるのに」
「あら、大した時間じゃないわよ。シャツを買う時間より短くて済むかもしれない」
「そうなの? 僕が実家に持って帰ると、母にはいつも文句を言われるんだよ。『もう、時間がかかるのに!』って」
「それはきっと、他のご家族の分も掛けなくちゃならないからでしょ?」
「うん、たくさんあるらしい」
「私は大丈夫よ。今日、シーツを洗ったので、どうせそれにもアイロンを掛けなくちゃいけないから、ついでにさせてもらうわ。今日はリゾットの件で助けてもらったもの」
「本当にいいの?」
「えぇ、いいわよ」
「ありがとう。あ、次の信号待ちまでキスは待ってね」
「嫌だ、アランったら!」
アランは面白い人だ。
一緒にいると、これまでの外国暮らしが、嘘のように楽しく感じられる。
明日、アランが米国出張へ出掛けてしまうことが、とても寂しいと思った。
車でアパートに戻り、アランにシャツを持って来るように言ってから、自室でアイロン台を出して準備をした。
買い物には寄らすに直接帰ったので、桑原のアパートを出てから30分くらいしか経っていなかった。
するとその時、初めて固定電話が鳴ったので驚いた。
(えっ? まさか……)と思った、その予感は的中していた。
「あ、帰っていたんだ」
「えぇ、さっき戻ったばかりですけど……」
「桑原ですが、さっきはどうもありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
「いや、彼とどこかへ行っちゃったんじゃないかと思ってさ、携帯に掛けて邪魔しちゃ悪いから、戻っていたらと思って、自宅に掛けてみたんだ」
「どこへも行きません。アランは、ご説明した通りお隣の人ですし、明日から米国出張なのです」
私は、余計なことまで言ってしまった。
「そうかそうか。それがさぁ、言い忘れたんだけど、明日もう一日お休みにさせてもらおうと思ってさ。だから君もゆっくり休んで」
「わかりました」
「あ、そうそう、あのリゾット、おいしかったよ。春野君は料理が上手だねぇ。もう、すぐにでも嫁に行けるじゃないか」
「あれは……」
アランが作ったことを言おうとして止めた。
「いえ、冷凍で申し訳ないですけど」
「いやいや、助かったよ」
「それでしたら良かったです」
「じゃ、そういうことで、また」
「分かりました。ごめんください」
電話が短く済んでよかった、と私は思った。
なぜならその時、アランがドアをノックしたからだ。
この電話の件を説明しなければならないとしたら、またかなり面倒な仕事になると思う。
それにしても、桑原の何となく私の行動に探りを入れて来るような発言が嫌だ。
私は、ほっとした気持ちで扉を開けた。