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習慣の違い 1.

 月曜日、出勤すると桑原はひどい風邪を引いていた。

 咳もくしゃみも鼻水をかむ音も入れて、三重奏を一人で奏でている。

 特に斜め向かいに座っている私には、咳が気になった。申し訳ないけれど、自宅で養生してもらう方がありがたい。仕事はまだ事業の許可も下りていない状況で、忙しいとも言えないのだから。


「桑原支社長、今日はご自宅でお休みになられては如何でしょうか?」

「いや。君一人をここに置いてはおけないでしょう」

「どうしてでしょうか?」

「こんな田舎だし、何かあっても誰も助けに来ないから」

 いったい、どんな想像をしているのだろう?

「私は大丈夫ですよ。まだ強盗に入られるほど値打ちのあるものもありませんし、インターフォンがあるのですから鍵を掛けておきます」

「いや、大丈夫だよ。はっくしょーん!」

「……」

 こんな状態では得意先も回れないし、落ち着いて電話で話すことさえできない。

 私は、もう少し強く言ってみることにした。

「風邪薬はお持ちでしょうか?」

「いや、忘れたんでね。今、日本からの社内便で一緒に送ってもらうことにしているんだよ」

「よろしければ、私のを差し上げましょうか? 私、数日分でしたら持っていますので」

「お? そうなの? いやぁ、申し訳ないけどお願いしようかな? 薬局へ行っても話せないしさぁ」

「いえ、実は日本のような総合感冒薬というのは、売られていないのです」

「そうなの? 困るよねぇ? じゃあ、こっちの人は風邪を引いたらどうするの?」

「おそらく、喉のお薬や鼻水のお薬などを一つずつ、購入されるのではないでしょうか?」

「へえ、不便だよねぇ」

 私は薬入れにしているポーチの中から風邪薬の瓶を取りだすと、「どうぞ」と桑原に渡した。

「いやぁ、悪いねぇ。日本から届いたら、ひと瓶返すからね。助かったよ」

「でも、今はお飲みにはなれませんよ。眠くなるので、運転に差し支えますから」

「そうかい? うーん。じゃあ、お言葉に甘えて帰るとするかな」

「それがいいと思います。熱でも出たら長引きますから、最初にゆっくり休まれた方がいいと思います」

「こっちに来てからさぁ、夜が明るいもので、ついつい夜更かして窓を閉め忘れたりするんだよねぇ。昼間は暖かいし、もう来週は7月だと思うと夏の感じかと勘違いしちゃってさ。そうしたら結構、夜中は冷えるだろ? それで風邪を引いちゃったんだろうな」

「そうですね。早めに窓は閉めておかれた方がいいと思います」

 それでも桑原はぐずぐずして、帰ったのは結局お昼前だった。


 お昼、サンドウィッチのお弁当を持って来ていたので、コーヒーを沸かし包みを開いた。

 その時、携帯電話がピピッと耳慣れない音を発した。見るとSMSショートメッセージシステムが送られて来ているという表示のようで、封筒のマークが点滅していた。

 私は(誰からだろう?)と驚いた。

 日本のように電話同士でEメールを送ることはできない。つまり、システムが違うので日本からではないということは確実だ。しかし、他にと言っても桑原がそれを使えるはずもないので、いったい誰だろう? と思いながらメッセージを見ると、お隣のアランからだった。

 私は嬉しくなり、すぐに内容を確かめた。

「ハイ、かすみ。元気? 大家さんに連絡しておいたよ。遅くても週末までには直しに来るって。それから、ちょっとお願い事があるんだけど、帰ったら連絡をくれる? キス」

(お願い事って、何かしら?)

 まぁ、いい。帰ればわかることなので、あちらもお昼休みだと思い、短いメッセージを返した。

「元気よ。あなたは? 大家さんに連絡をしてくれてどうもありがとう。今夜帰ったら連絡するわね」

 まだ、こちらの習慣に馴染んではいないので、アランのように最後にキスとは書けないが、その内、私もそんな風に書ける日が来るのかしら? とも思った。

 

 午後には、弁護士からの電話が一本あって、今週中に一度寄って欲しいと言われた。そこで桑原が風邪を引いていることを話し、明日、連絡をすると答えておいた。

 夕方5時を過ぎ、帰る準備をしていると、桑原から電話があった。

「何か変わったことない?」

 私は弁護士からの電話の内容を伝え、桑原の体調を尋ねた。

「いやぁ、ありがとう、ありがとう。おかげで頭の痛いのが治って、鼻は駄目だけど、ずいぶん楽になったよ。薬が効いて、午後は3時間くらい眠っていたんだ」

「それは、よかったですね。風邪には休養が一番だそうですから」

「そう? なんかお腹が空いたんだけど、ご飯があったからさぁ、これでお粥でも作っておくよ。そうしたら、いざ熱が出ても食べられるからね」

 ふと、国内でも単身赴任が多かったという桑原の言葉を思い出し、気の毒な感じもするけれど、何もできない人よりは、ずっといいと思った。

「それでね、明日なんだけど、僕の風邪が治っていなかったら出社しなくていいから」

「え? そうですか?」

「うん。だってね、若い女性を一人で置いておくというのは、気になって仕方がないんだよ。僕にも娘がいるからさ」

「お気遣いいただいて、ありがとうございます」

「いやいや、普通のことだよ。多分、もう一日くらいゆっくりした方が治りやすいような気がしてさ。君にうつしても悪いしね」

 確かにそうなのだ。桑原の風邪をもらうと思うと、あまり気持ちのいいものではない。

「そうですか?」

「うん。明日の朝、大丈夫だったら7時半くらいに電話をする。もし、電話がなかったら休みだと思っといて」

「わかりました。では、そのようにさせて頂きます」

 桑原のいいところは、こういうあっさりしたところだと思った。人間としては決して悪くない人なのだ。


 私は施錠を入念に確認し、自宅に戻った。

 手洗いやうがいを済ませ着替えた後、アランの部屋のドアをノックしてみたけれど、まだ帰宅していないようなので、自室に戻って夕食の支度を始めると、私の部屋のドアをノックする音がした。

 扉を開けるとアランが立っていた。

「やぁ、かすみ。もう帰っていたんだ。僕の方が遅くなってしまってごめんね」

「いいえ、いいのよ。入る?」

「うん、ありがとう」

 アランは、頬に軽くキスをしてから部屋に入って来た。

「あ、そこに座って。何か飲む?」

「お水を1杯くれる? 喉が乾いちゃって」

「お水でいいの? って言っても、シャンペンもビールもないんだけど」

「普段は何を飲むの?」

「お水がお茶かコーヒーかな?」

「ふーん、コーラなんかは飲まないの?」

「私は炭酸の入った飲み物や瓶や缶入りのジュースが飲めないの」

「へぇ、そうなんだ」

 冷蔵庫から取り出した冷えた水をグラスに注いで、アランの前に置いた。


「あ、そう言えば、何か私に頼みごとがあるって言っていたんじゃない?」

「そうなんだよ。実はね、水曜日から急に米国へ1週間の出張なんだ。それでその間、僕の植木に水をやってもらえないかと思って連絡したんだ」

「いいわよ。おやすいご用だわ」

「ありがとう。それから大家が壁を直しに来るでしょう? 僕が発つまでに来てくれればいいけど、無理だと思うから、それもあって僕の部屋の鍵を預かって欲しいんだ」

 私は吃驚した。まだ出会ったばかりの私を信用して、こんな風に簡単に鍵を預けるものなのかしら?

 そう考えているとアランが心配そうな顔をして訊いた。

「どうかしたの?」

「いいえ。ただ、私は構わないけど、鍵をこんな風に預けられたのが初めてだったから戸惑ったの」

「日本ではこんなことしない?」

「そうねぇ。親しい友人ならするかな?」

「僕たちだって、もう親しいじゃない」

「まぁ、そうだけど」

「君なら問題ないと思ったんだ。弟に頼めないこともないけど、自転車でも結構距離があるし、忘れそうで心配だから」

「そう? わかったわ。お預かりします。私にはすぐにそんな機会がないかもしれないけど、その時にはやはりあなたにお願いするわね」

「うん、もちろんだよ」


 習慣の違いには驚いたけれど、こんな風に信用してもらえたことが嬉しかった。


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