隣人
金曜日から降り続いていた雨が、ようやく上がった日曜日の朝、その事件は起こった。
私がキッチンでミントティーを淹れていたところ、ベランダの方向で何か重いものが落ちる音がした。
扉を開けて覗いてみると、赤いレンガの大小の欠片が散らばっている。物干し兼ベランダの隣との境界に立てられた壁の一部が壊れて落ちたのだ。
壁と言っても煉瓦で造られた塀のようなもので、そこから初めて顔を見たお隣の男性によると、バーベキューのコンロを置くのに重くて少しよろけ、壁に肩がぶつかったら、折れるようにしてレンガが落ちて行ったと言う。
「ぶつかっただけで、壊れちゃったんですか?」
「そうなんですよ。以前から亀裂が入ってはいたんだけど」
「危ないですよね。私が立っていなくてよかったわ」
「あ、本当だ。ごめんなさい」
「いいえ、そんなつもりで言ったんじゃないのです。それに、いなかったんだもの。ラッキーでした」
私は欠片を集めようとしたけれど、大きいものは重すぎる。一人で動かすのは大変だった。その様子を見ていた男性が自分が片付けると言い、塀を乗り越えようとしたけれど、まだ、何だかぐらぐらしていて危険だった。そこで、私の部屋を通って、ベランダに来てもらうことにした。
彼は、申し訳なさそうに部屋を移動すると、ベランダへ行き煉瓦を丁寧に端に積み重ねて帰って行った。
私がその後、箒で掃除をしていると、また声を掛けて来た。
「あの…、今日はここのオーナーが留守みたいで、電話に出ないのですよ。明日、また掛けるので、今日はこのままになりますけど、ごめんなさい」
電話の申し込みの一件以来、この国で、物事はさっさと進まないことは理解していた。
「いいえ、大丈夫ですよ」
そう答えて笑って見せた。
ちょうど晴れたので、今、機械の中で回している洗濯物を干すのには、残った塀でお隣から見えない角度の位置に干せば、特に問題はないだろう。
私が「じゃあ」と言って部屋へ戻ろうとした時、男性が「すみません」と言うのに振り返ると、男性はバーベキューパーティーに誘ってくれた。私は、彼がきっとお詫びか何かのつもりなのだろうと判断したので、「そんなに気を遣わないでください」と答えると、彼が、そうではないと言う。
「少し前に廊下ですれ違った時、あなたは東洋人の女性なので、英語が話せないと思っていたんです。お父さんとご一緒で、あなたの国の言葉で話していらっしゃったから・・・」
私には父がいないので、彼が誰かと私を見間違えているのではないかと思ったけれど、そうではなく、桑原を見て父親だと思ったのだろうと気がついた。
あの時、私は気が立っていて、誰かとすれ違ったような気もしたけれど、相手の顔をよく見ることもしていなかった。
そこで、私がプッとふき出してしまったので、彼が怪訝な顔をしているのに気がついた。桑原が上司であることを説明すると、彼は驚き、上司がプライベートな空間にまでやって来ることをひどいと言った。私は外国人から見ると、確かに変だろうと気がついたので、今の状況について手短に説明をした。そこで彼が、「では、別に特別な関係があるわけではないのですね?」と訊いてきた時には、逆に私の方が驚いた。
しかし考えてみれば、そうなのだ。こちらの人から見れば、ただの上司が部屋にやって来るのは異常なことで、何か下心があると思われても仕方がない。これからは気をつけなければならないと思う。
この後、ようやく私たちはお互いを自己紹介し合った。
彼はアランという名のイタリア人。飛行機を作る会社でエンジニアをしていると言った。私は数学が得意ではないので、その職業だけで既に尊敬に値すると思っていた。
「今日やって来るのは、友人のカップルで、学生の頃からの友人なのです。僕にも彼女がいたのですが、2ヶ月前にふられちゃって今は誰もいないので、彼らがやって来ると三人で食事をすることになります。それでもいいと思っていたのですが、あなたもお一人のご様子だし、僕には下心がないので、都合が良かったら一緒にバーベキューをしましょう」
どうやら怪しい人ではなさそうだった。私は迷ったけれど特に予定もなく、もう少し話をしてみたい気持ちもあったので、気分転換になると考え直し、彼の誘いに応じることにした。
「私は、今日のランチにはサラダを作るつもりでいたので、それを持って伺いますね」
「あぁ、それは助かります。お肉はたくさんあるので、じゃあ、僕はパスタを用意しておきますね」
1時間半後に、友人たちがやって来ると聞いたので、私も同じ頃に行くと告げた。
私はサラダの下ごしらえをした。
ちょうど、大きすぎると思いながらも魅力に負けて買ってしまったカリフラワーと、これも消費するのに3日はかかりそうなサラダ菜がある。
カリフラワーは、コンソメベースにマヨネーズやミルクなどを加えでドレッシングを作り、シボレーをからませた。サラダ菜の方は、刻んだガーリックやトマトと混ぜてオイルで軽くトスして冷蔵庫に入れる。食べる直前に、塩コショーとレモン汁を混ぜるために、別の容器に用意しておいた。
時間通りに彼の部屋のチャイムを鳴らすと、まだ他の人たちは到着していない様子で、サラダボールを二つ抱えた私は、アランに手伝ってもらいながら、それをテーブルへと運んだ。
アランは、テーブルにグラスを並べ、その中にきれいな模様の紙ナプキンを挿して、上手に飾り付けをしていた。
(やはりイタリア人には、センスがあるのかも?)
私は、周囲を見回して、天井までぴったりサイズのクローゼット以外に背の高い家具のないことに気がついた。そのせいで空間が広く見えるのだ。私の部屋と同じ間取りとは思えないくらい広く、そしておしゃれな部屋だった。
なんだか、私の部屋のごちゃごちゃした感じが恥ずかしくなった。
(インテリアの本を買って、少し勉強してみよう)
アランは「シャンペンでいいですか?」と尋ね、オーケーをすると、次いでカシスのリキュールを加えるかどうかを質問した。
私の答えはYesだ。
別にお酒が好きなわけではない。でも、お酒を飲んで友人たちとワイワイする雰囲気が好きだし、恋人といても心が少し高揚するのが心地いいと思う。
それには、透明な泡立つ飲み物よりも、少し赤みのある方が魔法の飲み物みたいでロマンチックに思える。
「日本語でグラスを合わせる時には、なんと言うのですか?」
「乾杯と言います」
「イタリア語では?」
「チンチンと言います」
「・・・あ、そうですか」
「今日は、日本語で行きましょう」
「はい」
私に依存はなかった。