旅立ちの前
私は学校を卒業し、自動車などの部品を作る会社に就職をした。
仕事を見つけた時には地味な会社という印象があったのだけれど、取引先の殆どが大手で海外にも進出していて、経営は順調だった。
日本の自動車メーカーだけでなく欧州の会社との取引もあり、営業管理課に配属された時から、時折そうした会社を訪ねる機会があった。
流暢に話せるとは言えないまでも、英文科を卒業していたので、私はそれなりに英語が出来る。
外国の企業を訪問する際、あちらの偉い方が見えていたら挨拶くらいきちんとした方がいいという事で、営業担当者の秘書のような形で肩書のない名刺を持たされ、常に同行するように言われた。
同じ部署で働く女性社員達には一緒の嫉妬心からなのだろうか、最初からあまり親しく接してはもらえなかったし、私からも友人になりたいと魅力的に思うような人も特になかった。
学生時代には春野かすみの本名のまま、雑誌のモデルのアルバイトをしていたので、容姿はそんなに悪くないと自覚している。
けれども、その道を先に進まなかったのは、自分の容貌の程度が解っていたという事でもある。
だから自信のあるような態度にならないように気をつけてはいたけれど、人に媚びを売るのも性に合わないので、それが鼻もちならない態度だと誤解されるかもしれない危険性はあった。
幸運なのは、じっと会社の中にいる訳でもなかったので、いじめの対象にはならずにすんだことだ。
そうして7年が過ぎた。
今の仕事が好きかと問われると、嫌いではない。でも、こういう仕事をしていても、何かを学んでスキルアップに繋がるわけでもないし、もっとやり甲斐のある仕事に変わった方が良いかも、というような漠然とした気持ちは持っていた。
時折、倦みの様なそれにストレスを感じる事はあっても、周囲の男性社員たちは一様に親切だったから、トラブルに思うほどではなかった。
まさか、こんな風にきっかけがやって来るとは思わなかった。
欧州工場を新たに増やす事になった得意先の大手メーカーに合わせて、うちの会社も倉庫を含む支社を作る事になったと聞いた。
女子社員は現地採用をする予定だったのが、すぐには見つからないので、とりあえず1年ほど行けないかと課長から打診があった。
そこはチョコレートで有名な王国で、日本の九州ほどの国土しかない。
言語は仏語と蘭語、独語の三ヶ国語が話されていると聞いた。
私は一応仏語を学んだけれど、クラスが好きになれず、ぎりぎり及第したという状況で、挨拶程度しか話せない。それでも首都圏へ行けば英語で十分だからと言われた。
支社長となる人と一緒に転勤し、オフィスを立ち上げて、何人かの社員を現地採用出来るまでいて欲しいという事だった。
どうだろうかと尋ねられたのは、結婚などの予定も含めて大丈夫かという意味だったのかも知れない。
打診とは言うものの、営業課の上司の口調は職業柄押しが強く、次々と魅力的な条件が提示された。
私にも全く迷いがなかった訳ではない。一人っ子なので、父亡き後あまり仲がいいとは言えないけれど、それでも一人暮らしで雑貨屋を営む母の事がちらと頭を掠めた。
母には年下の恋人がいて、顔を合わせたくない私は、訪ねる時にも彼の来ていないのを確認しなければならず、それが小さな垣根を作る原因にもなっている。
そういう訳で、距離にして50kmの道のりを訪ねるのは月に一度が精々で、都合の合わない時には、もっと間が空いた。
それに、目下恋人はいない。
以前いた彼氏は同学年で、どうにも感覚が子供っぽく頼りなさを感じ続けていた。些細なことで喧嘩を繰り返した後、男性としての包容力不足を問題に思っていたところへ別の女性の影を感じ、遂には嫌になってしまったのだ。
これらの状況から考えてみれば、1年くらい日本を離れたところで問題はないだろうと思った。
そこでいくつかの質問の後、言われるままに転勤を受け入れることにしたのだった。
これまで海外旅行には二度しか出かけたことがない。一度はハワイで、もう一度は香港。
どちらも学生時代からの友人達と出かけた。
殆どの友人は既に結婚をしていたけれど、私を含めた三人だけは独身だった。
転勤することを告げると、友人たちは、「欧州なんて羨ましい。きっと訪ねるから、お部屋に泊めてね。」と嬉しそうに言ってくれた。
支社長となる男の名前は桑原といい、私とは親子ほども年が離れていて、穏やかな雰囲気を持った人だった。
私は父を早くに亡くしていて、ファザコン気味でもあったから、年齢の近い男性と一緒よりはずっと安心できると思った。
転勤が決まってからは、桑原を含め海外事業部の人たちと毎日のように会議を続け、細かい打ち合わせを重ねた。
桑原の家族は自宅でエステと化粧品のセールスをしている妻、大学生の息子が一人と高校生の娘が一人いるのだそうで、一緒に移動するのが難しく単身赴任になると聞いていた。
向こうに着いたら、支社となるべきオフィス、それから桑原と私の住居を探すところから始めなければならない。
仕事のステップをひとつ確認する度に、少しずつ新しい環境で仕事をする事への期待で胸が膨らんで行った。
得意先のメーカーが9月に新工場をオープンするということなので、私たちの転勤は6月と決まった。
ちょうど日本は梅雨に入ってから蒸し暑くなる時期で、その前に引っ越せることはありがたい。
五月末にはアパートを引き払う。
出来るだけ持物が少なくなるよう整理をした。
船便で送るものと実家に預けるもの、寄付に回すものを手配し、最後にゴミを片付けてしまうと、トランクひとつだけが残った。
会社からは、引っ越し前1週間分の国内滞在費は支払われることになっていた。
私は出発の3日前にホテルに移ったが、桑原は自宅を引き払う訳ではないので、フライトの前日だけ空港近くのホテルに一泊すると言った。
出発するのは日曜日だ。時差の関係で同じ日付の内に欧州に到着する。
出発前の週末の金曜日には、会社の人たちが歓送会を開いてくれた。普段は殆ど口もきかなかった女子社員たちが、「栄転よね」「おめでとう」などと口々に言いながら、プレゼントまで贈ってくれたのには驚いた。
戸惑ったのも本当だけれど、やはり嬉しかった。
荷物にならないようにと渡された小さな包みをホテルに帰って開けてみると、朱塗りを施した手鏡と櫛のセットだった。
あちらに着いたらエアメールでお礼状を書こうと思う。
私がもう少し上手に距離をはかることが出来たなら、彼女たちとも親しく出来たのかもしれない。
けれども私は、子どもの頃からそういう事が苦手で、無理をして誰かに近づくようなことは出来なかった。
人は似た者同士に惹かれるのか、或いは異なる者同士で埋め合うことを幸いとするのか、私にはよくわからない。
それでも、あまりにかけ離れた人とは接点もないので、何れにしろ自分の見渡せるだけの小さな社会の中で、人間関係は出来て行くのだと思う。
見えない垣根がそこにあるかのようで、それを自分で動かしたり壊したりすることが、私には出来ないのだった。