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一生懸命頑張って働いて、朝起きたら天使がいた

 世の中カスだ。

 頑張ってる奴が否定されて、ろくに苦労もしてねえ奴が笑ってる。

 呑気な顔して幸せそうにしてる奴が汚らわしくてしょうがねえ。

 そんな自分が、汚く見えてしょうがねえ。

 

「くそぉ……」

 

 俺は情けなくベッドの上に体を放り投げた。

 

【ピピピ、ピピピ、ピピピ】

 

「……ん、んぁ」

 

 しまった、最悪だ。アラームなんかかけていた。

 仕事は夕方からだってのに、朝起きても何もいいことねえのに。

 

「おはようございます」

「……」

 

 聞き慣れない声に顔を上げた。

 目の前に知らない女が立っていた。どういうことだ。ここは俺の家だぞ。

 白装束の、俺より一回りも二回りも背の小さい女。俺は背が高い方だが、こいつは普通の女と比べても身長が低いんじゃないだろうか。

 不自然なほどの白づくめ。フリルの多いその服はゴスロリかと見紛うほどだった。

 こういうの何ってたっけか。姫……袖? だかなんだったか。客が随分と熱を入れて喋ってた。話の大半は頭に入っていない。

 

「いけませんよ。朝起きは三文の徳です。主も朝日に感謝して早くに起床し、全てに恵みを感じながら祈りを捧げるべきだとおっしゃっています」

「誰だお前」

 

 俺の口からはするりと言葉が出た。

 ショートボブの知らない女。要するに不審者がいつの間にか家にいた。

 本当なら警戒するところなんだろうが、体格からしても俺の敵ではない。

 やばい奴だったら取り押さえればいいわけだし、そういうわけで俺は内心そいつを舐めていた。

 精神的余裕から問答をする気になったのだ。

 

「失礼しました。申し遅れました私、啓司を司ります天使ラミエルと申します。今日より朝月様の改心をお手伝いさせていただきたいと存じます」

「知らないぞ、俺は宗教になんざ入った覚えも、デリヘルを読んだ覚えもない」

「デリ……!」

 

 随分と幼い顔立ちだったが、デリヘルが何かは知っているようだ。

 

「そんな破廉恥な存在ではありません!」

「はぁ? 朝っぱらから男の家に上がり込んでるやつが何を言ってる」

「違います! 私はただあなたの改心を手伝おうと──」

「だから、何様だって言ってんだ」

「っ……」

 

 壁に押し倒す。

 距離を詰めて、壁際まで追いやった。

 形的には壁ドンの形になっているが、そんないいものじゃない。

 少しだけイラついた。

 

「あぁ? お前、俺の母ちゃんか何かかよ」

「っ……私は天使です。主の命令に従い、あなたを改心させるために来ました」

「主、主ってお前、あれか、神ってことか」

「その通りです」

「いるわけねえだろ、んなやつ」

「います! 確かにいるのです!」

 

 まさに神の存在を信じていると言わんばかりの少女の顔に反吐が出る。

 その疑いもしていない曇りなき瞳、それが俺の神経を無性に逆撫でする。

 神がいるって? こんなクソッタレな世の中に、そんなご大層なものがいたらなんで世の中はこんなに腐ってるんだ。

 何も悪くない奴が嫌な目にあって、何も悪くない奴が濡れ衣被せられて、何も悪くないやつが責任を取らされる。

 なんなんだ? どうなってんだ?

 それで?

 神様がいるから敬えってのか? だったらもうちょい助けてくれよ。何も悪くない奴がなんで苦しんでんだよ。

 

「……帰れ」

「いやです!」

「テメエの都合なんざ聞いてねんだよ! 帰れ!」

 

 後ろの壁を蹴り付けて、明らかに脅しつける。

 イカれた少女は怯んだ様子を見せたが、俺が指差した玄関に行こうともしない。

 

「……ああ、そうかい。犯されてえんだな。わかったよ。そんなにお望みならやってやる」

「いけません! これ以上業を重ねないでください!」

「これ和姦だよな? 帰れっつって帰らねんだから。ほら、今なら帰れるぞ」

 

 明らかに誘導するが、それでもそいつは帰らなかった。

 ……ああ、いいよ。まじで帰らねんだったら俺もマジだ。

 

「きゃっ」

「きゃっ、じゃねえよ気持ち悪い。他人の家に勝手に入り込んでるテメエの方が──」

「私は!」

 

 その時、バサリと何かが這い出た。

 思わず後退りする。こんなもの、他人の背中から生えてくるわけがない。

 

「っ……翼⁉︎」

「私は、天使です!」

 

 曇りなきアメジスト色の瞳が、俺を射抜いた。

 

 ◇

 

「……もうすぐ死ぬ、ねぇ」

 

 俺は、少しだけ真面目にその少女の話を聞くことにした。

 訳がわからなかったが、目の前で翼を生やすところを見せられ、確かにそれは作り物ではなかったのだ。

 器用に動かせているし、それこそ動物のように機敏に上下している。ロボットとかならこうはならない。

 それに、根本を見せてもらったわけではないものの、背中を向いてもらって、確かにそれは生えたり無くなったりしていた。ここまでくれば少しは信用せざるを得ない。

 ……まあ、天使に化けた悪魔の可能性もあるが、ここまでくるとなんでもありだな。

 

「はい。朝月様はもうすぐ女性に刃を突き立てられ、主が給もうた血潮を失い、地へと帰られます」

 

 要するに、刺されて死ぬらしい。

 

「……誰だ」

「その……朝月様は女性癖が激しく、業が入り組み深まっております。私はそれを解消するために、朝月様の改心を手伝いに参りました」

「……はぁ」

 

 刺されるというが、刺されそうな相手が誰かわからない。

 そういう相手がいないんじゃなくて、いすぎて誰に刺されるのかわからないのだ。

 マジで、どいつに刺されても仕方ないんだよなぁ……

 

「それで? 聞きたいんだが、どうして天使さんが俺なんかのためにここに来たんだ?」

「? それは……」

「人が死ぬなんて、良くあることじゃねえか」

「……詳しくは言えませんが、業とは本来の天命から外れた結果を引き出してしまうものです。そして、最も入り組んだ業の渦の中心にいたのが……朝月様、貴方です」

「そうかい」

 

 なんでもいい。

 要するに、この嬢ちゃんはなんか偉い人が俺を助けるために派遣してくれたってことだ。

 誰かが呼んだ出張デリヘルでもなければ、ただの不審者でもない。

 

「……はぁ」

「……」

 

 俺は、この状況に文句を言うこともできなかった。

 本当は錯乱してもおかしくなかったんだろう。おかしな状況なんだからリアクションが薄いと言える。

 しかし、俺はもう仕事の方で参っていて、体がボロボロなのだ。驚く気力も残っていない。

 

「わかったわかった。好きにしてくれ。けど、ここは俺の家だからな。俺の勝手にするぞ」

 

 そう言って、二度寝しようとした俺の布団を、そいつは剥ぎ取りやがった。

 

「おい……」

「朝月様、これより改心の時間です」

「……くそ」

 

 こうして、クソッタレな時間が始まった。

 

 最初にさせられたのは洗濯だ。放り出していた私服を洗濯機に放り込んでボタンを回し、次に買い物に行かせられる。

 俺の体は栄養が偏っているとか、隠の気がどうだこうだ、陽を循環させるためにああだこうだ。

 なんか、要するに良さげな食材をバランスよく買えと言われた。もう面倒なのでそいつのいうとおりにした。

 俺は周りを見たが、他の誰もそいつのことが目に入っていないようだった。格好としてはそこまで変ではないが、顔はいい方だし、普通見るんじゃないか? 誰も気にしてないだけか?

 本人に聞いてみたら、天使はそういうことができるんだと。便利で羨ましい。

 

「俺にその能力があったらな」

「……? どうしました?」

「いや……」

 

 そのあとは洗濯物を干して、掃除に取り掛かった。

 ゴミ袋にゴミを入れて、分別して集めてる場所に持っていって、それから掃除機を回す。

 ……一人暮らしだからとりあえず買ってみたはいいものの、数回使っただけであとは放置になっていた掃除機は、コードレスで充電式だったために過充電でバッテリーが参っていた。

 したら、天使がなんかして、そしたら動くようになった。

 

「内緒ですよ」

「……」

 

 口元を人差し指で抑える彼女の仕草に、不覚にも可愛いと思わされてしまった。畜生。

 それから遅い朝飯を適当に済ませて、昼飯に取り掛かって、ああだこうだ、その切り方では野菜の生命線を切ってしまう云々カンヌン、この場合は逆に生命を絶った方がいい云々カンヌン、もうよくわからんので言う通りにした。

 

 そしてできたのが、チキン南蛮にサラダと味噌汁。こんなの俺作れたのか……

 

「できましたね。主の恵みに感謝していただきま──」

「ぱく」

「あ〜!」

 

 うるさいな。食事中ぐらい静かにしろ。

 

「ふるふぁいな。ひょくひひゅうふらいふぃふふぁふぃふぃふぉ」

「食べたまま喋らないでください!」

「……ん、うまいな。俺こんなの作れたのか……」

 

 自分じゃ一生美味い料理なんて作れないのだと、一人暮らしを始めて一週間で絶望したものだが。

 

「祈りを済ませずに食事に手をつけるなど……」

「そんなやつ、この国じゃごまんといるぞ」

「朝月様の場合は背負う業が深すぎます!」

「……」

 

 だから、その業ってなんなんだ。

 

 その後、皿洗いまですぐやれと言われて、眠い体に鞭打ちながら洗う羽目になった。

 その間も食物を飾ってくれた食器に感謝すべきだとか、本来食物というのは地の上で指で食べるべきだとか、うんちくを延々と垂れ流しやがったので、流石にカチンときた。

 苛立ちを胸にしまいながら洗濯物を畳み、畳み方に感謝が足りないと言われてもう一度青筋を立てて、じゃあテメエでやれと言ったら説教がさらに長くなってしまった。

 俺がその件で学ぶべきことは一つある。説法者に、口答えしないということだ。

 

「すみましたね。それじゃあ祈りの時間です」

「はぁ?」

「本来は朝にするべきなのですが、畏れ多くも緊急で済ませるべきことが多く、夕方にずれ込んでしまいましたが、やるに越したことはありません。さあ、手を合わせて!」

「俺は宗教に入る気なんぞないんだが……」

 

 結構な圧で詰め寄ってくる少女に、俺は二の足を踏んでしまっていた。

 自分より15cm以上身長の小さいやつには大抵恐怖なんて抱かないはずだが、おかしいな。

 それに、宗教というのも嫌いだ。あいつら、すぐに俺の味方ヅラしてきやがる。

 だったら、俺の事情を少しは解決してみろってんだ。

 

「形式を整えることから始めましょう。さあ、まずは手を合わせるだけでもいいのです」

「そっからあれやこれやと要求するんだろ」

「さあ!」

「……」

 

 いつもなら断った。

 けれど、このままだと俺は死ぬらしい。刺殺なんていう日本では珍しい、クソッタレで最高な死に方で。

 そして、この少女はそんな俺を助けるために派遣されたのだという。なんとも健気な話じゃねえか、泣かせる。

 とりあえず手を合わせた。したら、そいつは俺の手に自分の手を重ねてきたんだ。

 

「なっ」

「では、頭の中で感謝の念を祈ってください。なんでもいいですよ。自分が感謝できそうな対象を思い浮かべるだけでいいんです」

「……んなもん、ねえよ」

 

 だって、誰も助けてくんなかったから。

 俺は助けて欲しかったのに、誰も助けてくんなかった。

 俺が我慢するしかなかった。俺が勝手に一人で助かるしかなかった。

 俺が頑張って、俺が背負って、俺が前に踏み出して、全部一人でやるしかなかった。

 感謝なんてしてやんねえ。誰も助けなかったくせに、俺から徴収しようとすんじゃねえ。

 

「だったら、私にでいいですよ」

「……なんでだよ」

「朝月様からすれば、私は命の恩人であると思われます」

「……自分で言うかよ、天使が」

「事実ですので」

 

 間近で、すごいニコニコ顔を向けてきた。

 何考えてるかわかんねえな。天使と話したことなんてないからか。

 ……客の女たちよりはマシそうだ。

 

「ちっ」

「それじゃあ、目を瞑ってください」

「瞑っている間にフェラしてくれてもいいんだぜ」

「フェっ……⁉︎」

 

 薄笑いで半目を開けてみると、少女はパッと俺から離れていった。

 それを見届けると目を閉じて、言われた通りにする。さっきからうざったくてしょうがなかった。

 

「貴方は、そうやって!」

「うるさいぞ、瞑想中だ」

「うぐぐ……」

 

 結局俺は、そうやって四時まで時間を潰すことになった。

 

「夕ご飯は……」

「いらん」

「どちらに……」

「仕事だ」

 

 5時から出勤だ。電車だから、急がねば。

 

「金……要るな」

 

 天使とやらに財布から取り出した一万円札を投げつける。

 わわっ、とそそっかしく天使はひらひらと舞う紙幣を掴み取った。

 

「天使が飯食うかなんて知らねえが……ああ、昼に食ってなかったな。まあいいや、なんかあったらそれ使え。使い方わかるな」

「えっと、もうお仕事に行かれるのですか?」

「普通はもっと早えよ」

「そうなんですか……」

 

 落ち込んだように、天使は俯いた。

 こいつ……人間社会のことをそこまで知らないのか?

 いや、だったらなぜデリヘルとかフェラなんて言葉は知ってる。もしかして、こいつの頭は真っピンクなのか?

 

「……行ってくる」

「……行ってらっしゃいませ。お気をつけ──」


 彼女の言葉を遮るように、扉が閉まった。

 

「……数年ぶりだな。行ってきます、なんて」

 

 焼きつく夕暮れの空は茜を帯びていた。

 

 ◇

 

「へ〜、そ〜なんだ」

「そ〜なの。なのに、マジでそいつが使えなくてさあ」

 

 世の中はカスだが、それでもカスの中にもマシなカスとクソみたいなカスと、よっぽどクソなカスの三種類がいる。

 ここは、そのよっぽどクソなカスのなりかけの掃き溜めだ。

 歓楽街、聞こえはいいが要するに酒と女に溢れた通り。

 ソープとデリヘル店が路地裏を行けばすぐに見当たり、ラブホが電光掲示板を奏でている。

 その一角の地下に店を構えているが、俺の職場だ。

 

「──なのにそいつ、旅行行こうって言うんだよ? ありえなくない? 空気読めって話だよね」

「……そうだな、そりゃねえわ」

 

 キモい話にも相槌を打つ。

 打ちすぎちゃいけない。舐められるからだ。

 相手が「相槌打ってくれないのかな……?」と一瞬思いかけたところで、言う。

 そうすると「なーんだ」と安堵が生まれて、親近感を持つ。

 実際に最中でこういうのをいちいち考えているわけじゃないl。

 理屈じゃない、勘だ。フィーリングでそうすべきだと分からなくてはいけない。

 それが俺の仕事だ。


「そういえば、ミメイ君ってさぁ、今月大丈夫?」

「ん〜、まあピンチかも」

 

 女の匂いは相当にきつかった。そう言えばこいつ、たまに風呂に入らないとか言ってたな。

 私サバサバしてる女ですアピールか? それとも男っぽいでしょ、ガサツな部分あるのよアピールか?

 どっちにしたってキモい。心底反吐が出るし近づいてほしくない。普通に風呂入れよ、バカが。

 それで男にモテるとか本気で考えてるからこんなところ来るんだろうな。

 ──だけど、そんな女共のおかげで俺は飯を食えている。そもそもこんな職を選んだのは俺の勝手だしな。こいつらのせいじゃない。だから、そこの部分はそれなりに感謝している。


「すいませ〜ん、このショコラっていうのを一本〜」

「ありがとうごあいま〜す!」

 

 店内にボーイの挨拶が響いた。

 俺の肩書きは所謂ホスト、この世の醜さが凝縮されたような商売だ。

 モテねえクソ女のクソみたいな話を聞いて、タバコと酒と甘ったるいゴミみてえな腐乱臭に鼻を曲げながら、恋愛ごっこをさせて金を巻き上げるなんていう商売だ。

 ゴミだ。ありとあらゆるゴミを煮詰めて濾過したみたいなクソ加減だ。腹が立つ。

 いい女と酒が飲めねえのも腹がつし、それでクソ女とどんどん知り合いになるのも腹が立つ。

 いくら仕事と割り切って、自分が選んだんだと言い聞かせても、空気も読まずに太ももをさすってくる女がいるたびに吐きそうになってしまうのだ。

 

「あ〜、すいませ〜ん。お客さん、ここはそういう場所じゃないんですよ〜」

「え? なんのことですか?」

 

 気づいたボーイが助け舟を出してくる。流石に店内で淫交騒ぎは御法度なのだ。

 ……いくら、その客が金を落とそうとも。

 

「あ〜、多分酔っちゃって俺の膝に手付いちゃったのかな?」

「あ〜、ごめんねミメイ君。そんなつもりじゃなかったの〜」

「……」

 

 いい年こいてこんなところに来ているこの女にも親がいるんだろうか。

 だとしたら泣けるぜ。こういう女に限って実家住みとかだからな。

 

「ミメイ君、そろそろ」

「分かりました」

 

 その場を立って、客に向き直る。

 

「ごめん、俺行かなくちゃ」

「え〜」

「今度会った時は指名して」

 

 名刺入れから「ミメイ」という俺の源氏名が綴られた名刺を取り出すと、自然な形でわざとその女の胸に触れる形で押し付けた。

 

「うん♡」

「……」

 

 こういう女は承認欲求に飢えている。

 むしろ性欲を向けてやった方が喜ぶのだ。若い子を転がしていると、優越感に浸ってくれる。

 たとえお前が何かの間違いで若返ったとしても無理だけどな。性格がドブ臭すぎる。

 

「ミメイ、二番のテーブル行って」

「はい」

 

 すぐに指定席に向かう。ここでは時間との勝負なのだ。

 

 ◇

 

「ふ〜」

 

 勤務終わり、ロッカー室のベランダの前で、窓を開けてタバコを吸っていた。

 

「あ、薫君、また吸ってる」

「……」

「タバコの匂いって人気悪いよ。俺も客の子からタバコ吸ってほしくないって言われてるし」

「何それ、きも」

「薫君のとこは違うの?」

「……」

 

 うるせえ。

 そうだよ、人気ねえよ。

 消臭スプレーはしているはずなのに、口元の方に残っているようで、この前唇を近づけた相手にタバコ臭いと言われたばかりだ。

 それを聞かれていたのか、後で店長に説教された。この職で食って行きたきゃ女の憧れのままでいろと。

 この職では珍しく、店長は嫌煙家なのだ。だから、喫煙者への配慮も特にない。まあ、最も俺はそんな者さっさとこの国から消えて、肩身が狭くなって喫煙家なんていなくなればいいと思っているが。

 そう、俺も含めて。

 それでも。

 

「うるせぇ……」

「あ、店長怒ってたよ。今日で3人目? ついてないね」

「あぁ……」

 

 客がバックれた。

 このホストって職業はカスだ。基本的に稼ぎのいいやつは客に借金させている。

 自分との恋愛関係を人質にとって、自分に対して借金するように促すのだ。

 お金がないならツケてあげると。こっちは好意で言ってるんだから、断れば関係に亀裂が入る。

 入れ込んだ女はそれを断ることはできない。そして、気づけば借金が膨らんでいる。

 上位十名は基本的にこの方法で稼いでいるのだ。つくづくこの仕事をしているとホストのイメージがどんどん下がっていく。もう辞めたい。

 だけど、辞めることはできない。なぜなら、客はホストに借金して、ホストは店に借金しているからだ。

 客があまりの借金の多さに飛んだら最後、ホストはその分の借金を客の代わりに負担しなきゃいけない。

 俺の知り合いにも二千万を借金してしまった奴がいるが、そいつは驚くことに完済していた。とんでもない、ホスト魂。

 ではなくて、俺は今月で既に3人に飛ばれてしまっている。一人一人は少額だが、因果なことに総額一千万は届きそうだ。

 笑える。俺、一千万とか封筒でもらったことねえぞ。

 

「……はぁ」

「飛ばないでくださいね。死んじゃいますよ」

「マジでそうだな。分かってる……」

 

 すると、後ろで扉が開く音がした。

 

「おい、朝月」

「……桐島さん」

 

 店長だ。要件も分かっていた。

 

「おめえ、舐めてんのか?」

「っ……」

 

 胸倉を掴まれる。

 

 ◇

 

「……ただいま」

「おかえりなさい」

 

 ギョッとした。

 時刻は深夜の2時、まさか起きているとは思わなかった。

 いや、天使なのだから眠っているとも思わなかったのだが、まさかずっと俺の帰りを待っているとは。

 軽くホラーだぞ。白装束の女だが暗闇だ立ってるとか。

 

「……随分とお疲れですね」

「ああ、店長に怒られちまった」

 

 おかしいな。いつもならこんなこと他人に言わないのに。

 

「……死相が深まっています」

「……ははっ。そうかい。ならもう、いっそのこと死のうか」

 

 玄関に座り込んで、乾いた笑みを浮かべながら見上げるようにして後ろを振り向くと、天使とやらは複雑な表情を浮かべていた。

 

「……貴方が望むのなら」

「おいおい、マジかよ。介錯してくれるのか。なら頼むわ。まさか天使が逆に背中を押してくれるとは思わなかった」

 

 軽い皮肉のつもりだったのだが、天使とやらは気付かずに真剣に答えてくる。

 

「苦しむ子羊がいる時、すべがないのならせめて苦しまぬように看取るのが天使の勤めであると、そう主に賜りました」

「……冗談だよ。笑え」

「笑えません、そんな冗談」

 

 だよな。

 俺も最低のギャグだと思う。

 最近は踏んだり蹴ったりだ。

 客には飛ばれ、借金できて、店長には詰められて。

 殺されるかと思ったな。俺がとちったのに呑気にタバコ吸ってたのが気に食わなかったんだろ。弁明もさせないって感じだった。

 一発ぶん殴られて、ああ、ここは本当にヤクザの世界だなと思い知った。

 同僚の言う通りだ。俺が飛んだら、本当に何をされるか分かったもんじゃない。 

 そもそも連帯保証人の欄に書いちまってんだ、親父の名前。

 もう親父のことはどうでもいいが、まだガキの弟たちに迷惑がかかる。それだけは何としても阻止しなくてはならない。

 このままだと弟たちに迷惑をかけてしまう。

 

「……生命保険でもかけようかな」

「なりません!」

「あ?」


 また、少女は俺の神経を逆撫でた。

 必死な形相で俺に訴えてくる。

 

「自分の死を、まるで対価のように扱うなど、主はそんなこと望みません」

「……主、主。お前好きだな、それ」

「当然です!」

 

 銃声のような音が反響する。

 俺は靴底を思い切り蹴っていた。

 

「……」

「俺は、当然じゃないッ!」

 

 冗談じゃ、冗談じゃない。

 

「冗談じゃない!」

 

 本気で、ふざけてる。

 

「だったら教えてくれよ! 俺はどうすれば良かったんだよ! 業が溜まってる? ああそうだろうなクソ女達をだまくらかしてクソみたいな方法で金稼いで飯食ってるからなそりゃ女に刺されるよな!」

「……」

「ふざけんなよ、今更出てきやがって、ご高説だれて俺に説教できてそんなに嬉しいかよ……惨めな俺がそんなに面白いかよ!」

「そんなことは──」

「だったら、なんで母さんを殺した!」

「っ……」

 

 目の前の天使は動揺した。

 知ってる? それとも知らない?

 どっちでもいい。こいつが天使で、神の手先っていうならこいつも同罪だ。

 

「白血病、治らない病気じゃない、投薬で治る、そう言われて治療してみて、金はかかる一方でなんでか治んねえで、それで結局くたばったうちのお袋を、なんで助けてくんなかったんだ!」

「それはっ……天命です! 人には定められた末路が──」

「だったら俺もその通りに生きさせろよ!」

 

 少女は俺の言葉に何も返してくんなかった。

 まるで真っ暗なステージのように、玄関の灯りだけついた自室で、深夜2時に叫んだ。

 近所迷惑に、大声で、大の大人が、情けなく。

 

「俺を殺してくれよ! 誰かのために生きさせてくれよ! 教えてくれ、おりゃどうすれば良かったんだよ……!」

「……朝月さん」

「弟達の学費と養育費を貯めなきゃいけなくて、俺の大学費用は出せねえって親父に言われて、一緒に働いてくれって言われて……高卒の俺がどうやれば二人分の学費を捻出できんだよ! まともに雇ってくれるとこなんてどこ探しゃあるんだよ!」

 

 送った願書は全部落ちた。今更高卒なんてどこも雇ってくれなかった。世の中は就職氷河期なんてふざけた名前をつけている。

 

「親父も亡霊みてえな顔してるしよぉ! 休ませなきゃいけねえって分かってるけど、やりきれねえしよぉ! ガキの俺に……たかだか18のガキに、すぐに仕送りできるような職なんて、誰も紹介しちゃくれねんだよぉ……」

 

 ボロボロと涙をこぼす。みっともなくフローリングに崩れた。

 お袋が死んでしばらくした後、高校卒業を間近に控えた俺に親父が話があると言った。

 働いてくれ、と。

 お袋の治療費で家計が圧迫されていたこと、親父の給料が下がってきていること、年齢的にこれ以上の出世は望めないこと、退職金も選択肢にあるが、一時凌ぎにしかならないこと。

 他にもいろんなことを言われた。けど、親父の顔にはずっと罪悪感が見え透けていて、要するに俺をうまく言いくるめようとしていたんだ。

 実の父が、俺に腹も割らずに、詭弁を弄して。

 その瞬間に、腹の中が冷たくなったような気がした。今まで暖かい血が通っていたような気がしたが、急に冷めてしまったようだった。

 

 無論、それが親として最善の選択だったことは言うまでもない。

 俺もそうすべきだと思うし、頭では分かっている。それが一番いいんだろう。

 俺一人のために弟二人を犠牲にするのと、高校生の俺に働かせて弟二人を大学に通わせる。

 普通に考えたら後者だ。

 でも。

 でも。

 でも。

 親父には、息子扱いして欲しかった。

 

「俺が何したってんだよォ! こんなカスみてえな職について、カスみてえなことして、カスみてえな金稼いで、それで弟達にどんな顔すればいいんだよ! お前らは汚ねえ金で飯食ってんだぜ、ってか⁉︎」

 

 天使がどんな顔をしているのかわからなかった。

 さっきから何も言わないのだ、不自然なほどに。

 昼間はあれだけ説教くさかったのに、俺がブチギレ出すと何も言わない。

 だから俺は言った。言いたいことを言いまくった。

 

「他人のために生きてえよぉ……けど、俺はこれ以外の方法が見つからねえし、できもしねえし、やりたくねえことやって、不満を腹ん中で押さえつけて、そんで──」


「いいよ」

 

 急に、温かい何かが覆い被さってきた。

 

「……触んな」

「自分を許していいんだよ」

「離れろ!」

 

 無理やり引き剥がそうとしたのに、俺の動きを見透かしたように両手で頬を抑えられる。

 

「主は仰いました。汝、隣人を自分のように愛せよ、と。貴方は貴方を、隣人のように愛して良いのですよ?」

「ひくっ、ひぅっ」

 

 14の少女にも見える天使の前で、俺は目元を赤く晴らして肩を震わせていた。

 

「頑張ったね、薫」

「っ……」

 

『──頑張ったね、薫』


「……どこで知った」

「貴方を愛します」

「答えろ」

「貴方を尊重します」

「答えろって!」

 

 押し倒して、力強く組み伏せた彼女は、なされるがまま、それでも微笑を湛えて俺を見据えていた。

 

「私は天使ラミエル、神の啓示を下界の人々に伝えるためにやってきました」

「……」

「意訳します。『朝月薫、貴方はとても頑張り屋ですが、何代にもわたって頑張りすぎです。奉仕の精神が魂に染み付いて取れないので、傷つきすぎています』」

「……」

 

 なんの話だ? 前世ってことか?

 

「『よって、啓示を与えます。迷える子羊よ、汝、隣人を愛し、恵みを感謝し、汝を育みなさい』……私は、貴方の改心を手伝うためにここに参りました」

 

 天使の翼が、ばさりと広がる。

 ラミエルとかいう女は、俺を抱き寄せると、暖かくその翼で包み込んだ。

 なんだこれ、湯たんぽみてえ……

 

「頑張りましたね、朝月薫」

「……ひっく、うく」

 

 暗闇の中、少女と見紛う女の意外にふっくらとした胸元に顔を押し付けて、啜り泣いた。


 彼女の言葉が、どこか母親の声に重なったように聞こえた。

 

 ◇

 

「おはようございます」

「……」

 

 朝起きたら天使がいた。比喩ではない。

 

「……8時か」

「それではお祈りをしましょう!」

「……分かった」

 

 昨日と同じように手を合わせる。

 

「……」

「……? どうしました?」

「……昨日みたいにしないのか?」

「え?」

「その……ほら、昨日」

 

 言葉を濁したが、ラミエルはすぐに俺の言うことに気づいたらしい。

 

「…………目を瞑ってください」

「……あぁ」

 

 手の甲に温もりが広がる。

 後ろから、天使が俺の手を包み込むように合唱する。

 耳元で可愛らしい声が聞こえる。

 

「昨日と同じように、感謝するものを頭に思い浮かべましょう」

「……」

 

 俺が感謝すべきなのは一つしかない。

 

「私だけじゃダメですよ」

「……」

「貴方は一人で生きてきたわけではありません。多くの人が手を取り合うことによって、貴方という命が取り上げられ、今日まで育てられたのです。そのことに感謝して、祈りを捧げましょう」

「……わかった」

 

 いつもなら安い綺麗事だと吐いて捨てた言葉を、しかし、彼女の言葉とあっては聞き流すわけにもいかなかった。

 

「……それじゃあ朝ごはんを食べましょうか」

「そうだな」


 俺が振り向くといつの間にかトーストにヨーグルト、サラダと野菜ジュースが用意されていた。

 

「これは……」

「さあ、いただきましょう」

「……いいのか?」

「何がですか?」

 

 しらばっくれる彼女を見る。

 

「天使の業務的に、俺を改心させなきゃいけないんだろ」

「そうですね」

「昨日も自分の飯は自分で作らせてたろ。自炊がいいんじゃないのか?」

「そうですね。ですから──」

 

 あぁ、やはりというべきか。

 

「──内緒ですよ?」

 

 朝日に照らされた彼女は天使のように美しい。

朝月「……天使にまんこって付いてんのか?」

ラミエル「ぶふっ! ま、また、貴方って人は!」

朝月「だって、天使って人を模してるんだろ? どこまで同じなんだ?」

ラミエル「どっちかっていうと人が天使を模してるんですけど……」

朝月「で、実際のところどうなんだ?」

ラミエル「……」

朝月「まさか、内臓もないのか? 中は空っぽとか」

ラミエル「……ありますよ」

朝月「……」

ラミエル「……なんで今『ごくり』って喉を鳴らしたんですか⁉︎ ダメですよ⁉︎ ダメですからね⁉︎」

朝月「……大丈夫、大丈夫──ちなみに、天使と人間が性行為したらどうなるんだ?」

ラミエル「ダメですからね⁉︎」





これ以外にも書ける話あったんですけど、キリがいいので終わります。人気だったら連載するかもなぁ……チラチラ。というわけで、⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎評価よろしくお願いします

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