第二章の四 蛾(ろん)楼(ろん)門(めん)
『蛾楼門』
と、日に焼けた大きな看板がかけられた大きな建物があった。板戸が立てられ、赤く塗られた階段には、洗われた朱塗りの盆がずらりと並べられて干されている。
その番をしているらしい、椅子に座って刺繡をしている老女に、冥華は声をかける。
「あの」
老婆は針を布にさすと、掌を上に向けて差し出す。
冥華は小銭を三枚渡した。老婆はそれを懐にしまう。冥華は言う。
「御店主に会わせてください」
老婆は、椅子に立てかけてあった杖を取ると板戸をガンガン叩いた。少しすると板戸が開いて、少女が顔を出した。
「はい」
老婆は冥華に視線で示し指を三本立てる。冥華には何の符丁かわからなかったが、少女にはすぐに頷いた。
「こちらからどうぞ。あ、沓は拭いてくださいね」
渡された雑巾で沓を拭いて冥華は中に入る。中では何人もの少女や男たちが、掃除をしているところだった。
「こっちよ」
掃除をしている者たちの視線を感じながら少女についていく。
奥へ向かい、狭い階段を上がると、青で塗られた扉があった。少女が扉を叩く。
「三階にご用のお客さんです」
「ちょっとお待ち」
少ししてから、中から髪を降ろした、寝間着のままの女性が現れた。年を取って顔に皺はあるが、その分崩れた身体の線が色気になった中年の女性だ。女主人だろう。腰帯に鍵束を下げていて、動く度に音を立てる。
「部屋借りたいのかい」
女主人に言われて冥華は言う。
「ここに大宮学、または宮学という名の男の客は来ますか」
「あんた名前は?」
「仙冥娘です」
じっと見つめられた女主人は、口の端を上げて言う。
「聞いてるよ。あたしは林兆月。あんたも道士かい」
「はい」
「そりゃいいや。暇な時に、夜、一階でなんかやっとくれ。宮学は怠け癖があってさ」
「取り分は?」
「半々」
「二八で私なら」
「六四かな」
「三七でいかがですか」
しばらく二人とも視線をそらさずにいた。それから女主人と冥華は鋭く手を打ち鳴らす。
「泰一公主現前聴力!」
契約成立の誓文を言って、女主人は下げていた鍵束から、鍵を一本外して冥華に渡した。
「宮学はいつ帰ってくるかわかんないからね。一つ、部屋をあんたに預けるよ。道士なら使えるさ。全く、宮学は怠け者なんだ」
女主人は中に入って扉を閉めた。
冥華が手にした鍵には、金色の紙縒りがつけられていた。
冥華は少女の案内で廊下を奥へと進んだ。迷宮の様な建物だ。
小窓がある廊下をすこし歩いて角を曲がると、大きな窓が現れた。明るい日の光が溢れ、風が入る。中庭があり、見おろすとずらりと洗濯物がかかっていた。窓という窓に洗濯紐が渡されて、女物の下着や裙や襦が艶やかにはためいている。
少女は少し歩いたところの扉の前に立ち止まる。取っ手が金色に塗られた部屋だ。鍵につけられた紙縒りと同じ色だった。少女は部屋の扉を開ける。鍵は掛けられていなかった。
なにか、腐ったり、錆びたりしたような匂いがした。部屋の中は暗い。
「どうぞ。家具や、あるものは好きに使っていいですよ」
「そうなの?」
「前の人のなんですけど、喧嘩で死んじゃってね。夫婦者だったんですけど」
「ここで死んだの?」
「はい。その前の人もここで死んだんです。もう一人か二人、だったかな? だから、その人たちのもあるんで趣味バラバラですけど、よかったら使ってください」
では、と言って少女は去っていった。
ともあれ、と冥華は、引っかけるだけの留め具を外して、窓板を押して開ける。
蝶番が軋む音がして、室内に光と風が入ってくる。
下を見ると賑やかで埃っぽかった。
大路に面していた。
改めて部屋を見ると、そんなに荒れても居なかった。前の人間がいなくなってからそんなに経ってもいないのだろう。
箪笥と棚と、卓と、椅子が二脚。火鉢と、盥。棚には細々と、いろんなものがぎっしり入っていた。
何かの部品の様な木片や金属のかけら、石、歯の欠けた櫛が何本も詰め込まれた箱もある。
裁縫道具や人形、人の顔の絵。食器。箸。匙。小刀。小さな俎。生活の痕だ。
寝台に布がかかっていて、めくると布団に血の跡があった。
草の敷物があったのでめくるとやはりそこにも血の跡があった。
「敷物と布団は買わなきゃいけないかな」