第一章の二 冥華
冥は一瞬息を呑んだ。
「俺このあと公務あるんだ。君、瑙正一品からもらった名前は」
「仙冥娘」
「仙? 道士なの? それでその格好? そんなら伺候したらいいじゃん? なんで入宮なの? 仙ってことは孤児だよね? 家系ないよね? 瑙正一品にいつひろわれた?」
冥娘は、すっと息を吸って言った。
「仙人で道士です。師に術を教わり、道に触れています。伺候しても、話を通すには長くかかります。孤児です。瑙正一品さまにひろっていただいたのは三歳の頃だと思いますが、何しろ孤児ですのではっきりしません」
鳴鳳は満足して頷く。
「で?」
「飛蝗が来ます」
その一言で鳴鳳の顔色が変わった。
飛蝗は、何年かに一度大発生する蝗の大群で、農作物全てを食い尽くして飢饉をもたらす。 この災害へいかに対処するかに皇帝の命運がかかっているということから「皇」の字が当てられたという説があるほどの政治の重要事である。
「凶兆があったのか」
「はい。いつでも飛蝗は詠草国から来る。そして飛蝗は止められます。冬宮での研究で成果がありました」
冥娘の言葉に鳴鳳は目をむいた。今まで飛蝗の害を防げたものはいなかったのだ。
「なんだと」
「完全ではないでしょうが何もしないよりはかならずよろしいはずです」
「どうすればいい」
「水に油を流すのです」
鳴鳳は言葉を失う。
冥娘は続ける。
「飛蝗は油に触れると息ができず死んでしまいます。卵も殻が破れて死にます。私も試しました。確かです。菜種油を使えば、田も畑も死なずに済みます。今年の実りは望めませんが、そこはお支えくださいませ」
鳴鳳は考えに沈み、冥を睨みつけて言った。
「この方策が効を奏せばお前を厚く遇する。だが違えれば、お前はもとより瑙正一品はじめ冬宮に累が及ぶぞ」
「はい」
「ところで紙を取れ。それは何のつもりだ?」
鳴鳳に言われ、冥はおずおずと紙を取る。
「……萌宮の、他の準妃のかたに、私は敵ではないと知らしめたいのと……」
「顔を上げて」
鳴鳳は命じて、冥の顔をじっと見る。
整ってはいるが平凡な顔だ。だがその瞳は平凡ではなかった。
右は黒かったが、左は甕の水のように青かった。
「左目が、青くなっちまってるぞ。命を売ったのか」
冥の顔が青ざめた。その後、瞬きをしてから鳴鳳の顔を見て言った。
「……と、いうように、一目で知られるのを、避けるために顔に紙を」
「心配すんなよ、こいつは知ってるヤツ以外知らない類の術だ」
「でも、鳴鳳さまはご存じでした」
「俺、禁呪に興味があってさァ。身内の道士の本勝手に見たんで知ってるんだ」
目を丸くする冥に、鳴鳳は呆れて言った。
「いいの、君、それで?」
「はい」
冥の返事に迷いはなかった。鳴鳳は化粧をした頰を搔いて言う。
「……まあいいや。禁呪のことは黙ってるよ。知ってる人にはすぐにわかっちゃうだろうけど、そんなにはいない」
「助かります」
「でもさ、近いうちにそのへんの話は聞かせてよ。いろいろあったんだろう? 知っておきたいな。それと、君はこれより冥華と名乗りな」
「は」
意外な言葉に冥は顔を上げた。
今までの砕けた空気から一変、鳴鳳は威厳を以て告げた。
「散る覚悟なら、ふさわしかろう」
そう言うと、皇太子鳴鳳は大股で歩いて出ていった。
冥華は顔の前に紙をつけ直しながら、肩をすくめて小さく溜息を吐いた。
第三皇子がこうであるなら、あとの二人も侮れない。
冥華は自然と口元が緩むのを感じた。
これで、ここに来た目的は早くも一つ達成されたのだ。
こののち、あの皇子がどう動くかを見定めなくてはならないが、蝗の被害が止められるなら。
「……誰だって、おなかがすくのは、やだものな」
冥華はぽつりと呟いた。