序章・三 冬宮の主人
「冥。黒潭」
築山の下から体重などないような優雅な足取りでやってきた貴婦人が、二人に声をかけた。
黒い髪を結い上げ、櫛や簪でまとめている。
それらの多くは翡翠や青といった色だったが、一つだけ鮮やかな牡丹色の簪が挿されていた。
すらりとした肢体と、落ちついた夜のような瞳。
ひと目見れば二度と忘れないような冴えた美貌だった。
二人は椅子から降りて床に平伏しようとしたが、貴婦人が止めた。
「よい」
「でも、あの、これから萌宮に上がるのだから、作法はきちんとと」
冥の言葉に貴婦人が答えた。
「誰かに言われたのね」
「はい」
「でも、まだ、ここではそんなことをしなくてもよい。冥。おまえは冬宮の娘。黒潭。おまえは冬宮の息子。そして冬宮の主は私」
「瑙正一品」
二人は主の名を口にして頭をさげた。
「二人で萌宮に行くのなら、心強いことです。お互い、よく助け合っていきなさい」
「はい」
どちらともに言われた返事に、瑙正一品は瞼を伏せて頷きとし、呟いた。
「そして、私の愛する方を、どうか助けて差し上げて」
鵬国前王朝、鴻国。
帝の死後、皇太子の母が権勢を振るった。
皇太子の母は全ての民衆が飢えても更に重い税をかけ、納めねば殺した。
またその金を己が遊興と贅沢のために使い、宮廷の中には自分の一族と愛人しか入れなかった。
皇太子は宮廷の奥の間に閉じ込められ、生死もわからぬ状態でいたが、鴻国滅亡の日、反乱軍が打ち破った扉の奥で兵士を微笑んで迎え入れ、文字を刻んだ石板を渡すと安堵して死んだという。身体は枯れ木のように衰えていた。衰弱死だった。
そのため碑を受け取った将軍が王となって興った鵬国には第一の掟がある。
碑文そのままの掟である。
『皇太子を産みし妃は即日命を失うこと。
鴻代の過ちを繰り返さんがため』
時は流れ、鵬国十代目。
現在、王宮には父母を同一とした皇太子が三人いる。
碑文の掟に、逆らっている。第一の皇太子が生まれた時点で、皇太子の母は殺されていなければならないからだ。
皇后に対する帝の寵愛があまりに深すぎるが故だという。
かといって、そもそも国の興りであったこの掟は撤廃されることはなかった。
掟は守られねばならないと、じくじくと、熾火のように、多くの人間が腹の底で憤っていた。
民は戯歌を作って笑った。
『矛盾撃音天轟鵬国皇太子三人』
矛盾の音が天に轟く。鵬国には皇太子が三人もいる。
第一皇子、哄竜。
第二皇子、唱亀。
第三皇子、鳴鳳。
掟はそのままあるというのに。
本書は、集英社Webコバルトに掲載された同タイトル作品の、著者本人による改訂版です。
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