序章・二 四阿
廊下に出ると、雪が溶けて春めいた中庭がある。
名勝を模した池には巨岩が配され、優美な橋がかけられている。薄く青く広い空は穏やかに晴れていた。
池の端の築山の上で黒猫が鳴いたので、冥は駆ける。
黒猫は振り返りながら冥を待ち、四阿に入ると、少年の姿に戻った。
まだ芽吹いたばかりの木々の枝が風に揺れる音と鳥の声がする。日陰はまだ少し肌寒いが日の当たる場所は暖かい。
黒潭は、置かれた椅子を日向に移動させて、自分は日陰に座り、冥を待った。
冥は息を切らすこともなく四阿に着くと、日向の椅子に腰掛けて、めくれてしまっていた裙の裾を手で払って直した。
「はい」
黒潭は珊瑚の簪を冥に差し出したが冥は受け取らない。
「自分で返したら」
「いいじゃん。返しといてよ」
「自分で返しなさいよ」
「なんだよ」
「あなたね、あとで、叱られるわよ」
「いいよ」
「どうして」
「だって俺、冥と一緒に萌宮に行くって決めたから、そんくらいは誰にだって叱られてやるよ。母上だって、亡くなる前に、おまえは冥についていてってくれって言ったんだ。病で、あんなに弱ってたのに、母上が頼んだんだ。そうでなくてもおれは冥と一緒にいる」
冥は黒潭を見つめ、唇を尖らせる。
「──別に私一人でだって行けるわよ」
黒潭は、年の差などないように笑って、椅子に座ると床につかない足をぶらつかせた。
「でも、やることがいっぱいある。冬宮の研究科がみつけた蝗の撃退法を教えて、国を救う。これは大急ぎ。冥が一番最初に逢う第三皇子が聞いてくれたらいいけど、そうじゃないならけっこう手間取る。それに、宮廷に忍び込んでるはずの、冥の道士仲間の宮学も探さなきゃいけない。老師が教えてくれた、あの、ワケのわかんない道筋もたどらなきゃ。帝と皇后も、冬の行幸以来姿を見せていないならそれも探らなきゃ。そして」
「うん」
冥は黒潭を見つめる。
まっすぐに。
「私のこの目の青が、もっと薄くなって、私が死んでしまう前に」
「うん。俺にくれたいのちの残りを、冥が使い切ってしまう前に」
黒潭も冥を見つめ返す。
「掟を覆さなくては」
どちらの声だったろう。
どちらの言葉だったろう。
どちらでもいいことだった。
冬宮では、誰の言葉でもいいことだった。
冬宮において、それを望まないものはいなかったのだから。
本書は、集英社Webコバルトに掲載された同タイトル作品の、著者本人による改訂版です。
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