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【麻緒】―魔王―

 わたしは観覧車から外の景色を眺めていました。夕焼けに染まる街並みが、これまでのことを思い起こさせます。



  *  *  *



 わたしは“魔王”そう呼ばれていました。

 名前が麻緒だから。

 そして――


「ねーねー、魔王ちゃん。ちょっと笑ってくんない? こう、がはははは! みたいな」

「え? あの……」

「ほら、早くしなよ。もう写メの準備できてっからさー」


 ファンタジーの太った魔物みたいだから。


 わたしは一人でした。

 いつも一人でした。

 一人になりたかった。



 全学年参加のマラソン大会。

 息も切れ切れに、わたしは何周も遅れて最後尾を歩いていました。

 二月の風が頬へ突き刺さるようにして吹き抜けていきます。

「あぐ」

 わたしは、つまづいて倒れました。

 もう立つ気力はありません。

 なんでマラソン大会なんてあるんだろう。どうして、こんな苦しい思いしなきゃいけない?

 道端に突っ伏したまま、顔をくしゃくしゃにして真っ赤に腫らせていました。

 次々に、わたしを追い抜いていく足音。ケータイのカメラを取る音。げらげら笑う声が、遠ざかっていきます。

 惨めで、辛くて、悲しくて。

 涙が出てきました。

 早く帰りたい。


「大丈夫?」

 上から声が聞こえました。

 顔を上げると、男の人が前屈みになってわたしに手を差し出していました。


 わたしは信じませんでした。

 くしゃくしゃになった顔のまま、彼をキッと睨みつけます。

 わたしの手を掴んで仰向けにひっくり返すつもりなんだと、そう思っていました。


 でも、

「なんで睨んでるか知らないけど」

 彼は手を差し出したまま、わたしを真っ直ぐに見据えていました。

「僕は手をどけるつもりはないよ」

 黒く澄んだ瞳で。


 わたしは信じられませんでした。

 こんな人がいるなんて、わたしに手を差し伸ばすなんて、睨んでるのに手をどけないなんて。わたしは、わたしは――

 また涙が出てきました。


 手を震わせながら伸ばすと、わたしの体が軽々と引っ張られて持ち上がりました。

「歩ける?」

 彼の言葉に、こくんと頷くわたし。

 彼はそのまま、わたしの手を引いて歩き始めました。

 男の人と初めて手をつないだわたしは、顔から火が出そうでした。

 追い抜いていく人が物珍しそうな視線を向け、にやけながら去っていきます。

 わたしは、今度は恥ずかしくて泣きそうになりました。

「僕はちょっと疲れて歩いてるだけだから」

 彼は気を使ってくれたのか、つないでいた手を離しました。

 わたしの隣で、歩調を合わせて歩きます。



 結局、彼は最後までわたしについてゆっくり歩いていました。

 ゴールすると、彼は何事もなかったように去っていきます。

 わたしはただ後ろ姿を見つめていました。


 わたしはその夜、ほとんど眠れませんでした。



 一ヶ月が経ちました。

 わたしはいつの間にか、彼の隣を歩く夢を見るようになりました。

 食事もあまり喉を通りません。

 もう一度会ってみたい。もう一度あの瞳を見たい。

 あの日つないだ手を見つめます。

 彼を手当たり次第に探したい。

 でも“魔王”のわたしは、きっと彼に迷惑をかけてしまう。

 だから、今日も下校途中にあのときの後ろ姿を探しています。

 彼を見つけたところで何かあるわけもないのに。



 二ヶ月が経ちました。

 彼の姿は見つかりません。

 わたしよりひとつ年上だったんだと思います。

 わたしは三年生になりました。



 半年が経ちました。

 もう彼の姿を探すことはありません。

 手のひらを眺めてみる。

 時々まだ、彼の大きな手の温もりを思い出します。



 わたしは中学校を卒業しました。

 今でも彼の姿を思い出します。

 あの凍えるような寒い日、“魔王”だったわたしに差し出された大きな手を。

 睨んでいたわたしを射抜くように見据えていた黒く澄んだ瞳を。

 凛とした声。初めてかけられたやさしい言葉を。

 この手に残る温もりを。

 わたしはきっと、忘れることはないでしょう。


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