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【ぱんなこった】―記憶―

 ――これは私の記憶


    出会いと穏やかな日々の思い出――



  *  *  *



「魔王だ! 魔王が攻めて来たぞ!」

「魔物が来るぞ! 早く鐘を鳴らせ!」

「早く家に入って扉を閉めるんだ!」


 数多の同族を率い、村を襲う。


 生きるためには仕方が無かった。

 森が焼かれ、棲み処を追われていく。

 人は魔物を殺していく。ただ危険だからというだけで。ただ醜いからというだけで。ただ己の欲望を満たすために――


 森を追われた私は、散り散りになった同族たちを集めた。

 村を襲い、食料を奪う。

 私は率先して危険な人間を引き付けた。それ以外の人間は家の中に隠れる。

 日を追うごとに付き従う同族たちは増えていく。


 私はいつしか“魔王”と呼ばれるようになっていた。





 私は河原に倒れていた。

 どこまで流されてきたのだろうか。

 同族たちはみな殺されてしまったかもしれない。

 魔力が体から抜け落ちていく。

 気高い黒豹の姿が保てない。小さな猫になっていた。

 凍えるような風が私を突き刺し、吹き抜けていく。

 私にはもう、何かをする気はない。

 倒れこんだまま、身動きひとつしない。

 甦るのは、耳にこびりついて離れない音。棲み処が燃えて灰になっていく音。逃げ惑う同族が剣で刺し貫かれる音。怨みの咆哮を上げながら空へ消えていく音。げらげら笑う人間の声が木霊する。

 魔物はただ人間に殺されるために生きているのか。私はいったいなぜ生まれてきた?

 この胸に残るのは――虚しさ。

 頭に響いていた、いつかの狂喜の音も遠ざかる。

 私はここで朽ちていく。



「生きてるか?」

 上から声が聞こえる。歳若い声だ。

 近隣の村人と思しき男が、前屈みになって私に手を差し出そうとしていた。


 力が入らない。

 ただ人間を力の限り睨みつける。

「なんだ、睨んでるのか?」

 人間が私の体に触れる。

「おまえ魔物か」

 私の羽としっぽに気がつく。


 私は人間など信じない。

 私の誇りにかけて、せめて一矢報いる。

 残されたわずかな力で指に噛みついた。

「痛ッ」

 噛んだ指から血が滴る。これが精一杯だった。

 魔王と呼ばれた私は、ただの村人にトドメを刺されて終わる。


「傷薬塗ってる間ぐらいじっとしてなよ、まったく」

 私は信じられなかった。

 この人間は何を言っている?

 薄れていく意識。

 私の体が持ち上げられていた。


 あたたかい。


 私は抱きかかえられていた。

「もうすぐ家に着くから。しっかりしろよ」

 投げかけられた言葉に、こくんと頷く。

 それを最後に、私は意識を失った。



 金の髪が揺れる。目の前には顔。

「あ、目覚ました」

 人間の女だ。澄んだ黒い瞳には、猫になった私の姿が映っていた。

 私の鼻の頭をつんつん指先でつつく。興味深げにあちこち触れてまわる。

 敵意は感じられなかった。

 女は隣の部屋へ行く。

 私は木箱に毛布を敷き詰めて寝かされていた。

 ここは民家の寝室のようだ。ベッドが置かれてある。

「これどうかな?」

「さあ、魔物なんて飼ったことないからね」

 女が私を抱き上げた男と一緒に入ってきた。

 鼻先に白い液体の入ったスプーンを突きつける。

 この二人は魔物の私にいったい何をしようというのか?

「やっぱりミルクはダメみたい」

「アイシャ、怖がられてるんじゃないの? 毒入ってそうで」

「えー? そうかな」

「僕に貸して」

 どうやら私に餌を与えようとしているようだ。

 どのみち回復するまでは従うしかない。

 差し出されたスプーンをなめる。

「ほらやっぱり」

「な、なんで……」

「日頃の行いだよ」

「関係ないじゃない。もう一回やってみる」

 女が鼻息を荒くしてスプーンを差し出していた。

 思わず顔を背ける。

「ほらやっぱり」

「くっ……アンタ、なんかしたんじゃないの?」

「日頃の行いだよ」

「おんなじセリフばっかり繰り返してんじゃないわよ!」

「お、結構飲むな、おまえ」

「ちょっと、餌あげてないで話聞きなさいよ」

 女がアイシャで男の名はアンタらしい。この二人は夫婦――いや、姉弟だろうか。

 魔物の私をまるで拾ってきた猫と同じ扱いをしている。こんな人間には初めてお目にかかった。

 私はその夜、久方ぶりの眠りにつくことができた。



 一ヶ月が経った。

「あ、こらっ」

 食卓の皿の上にあった魚をくわえる。アンタではなくミストの夕食だ。

 拳を振り上げて追いかけてくるが、ミストはまったく怖くない。

 とりあえずキッチンを逃げ回ってやる。

「修行が足りないのよ」

「そう言って僕の晩御飯をつまむのはやめてくれ、アイシャ」

「修行が足りないのよ」

「こらまて! ぱんなこった」

「ちょっと、無視しないでよー」

 私はアイシャに“ぱんなこった”と名付けられた。

「おんなじセリフばっかり繰り返してんじゃないわよぉ」

「……それ、私のマネ?」

「あぁ! ベッドの上に魚を引きずるのはやめろ! 染みがつくじゃないかっ」

「くぅ……いいわよ、もうひとつ食べてやるから」

 毎日が楽しい。

 私の傷はほとんど完治している。

 しかし、私はこの家から出るつもりはなかった。

 魔物として生きてきた私には、夢のような時間だった。



 二ヶ月が経った。

 今の私を誰が魔王だと思うだろうか。

「ほんと、この子は魔物とは思えないわね」

 私はただの飼い猫として生きている。

 猛き豹としての誇りなど要らない。

 今日も夕食後の心地良いうたた寝に浸る。

「赤ちゃんみたいだな」

「なっなに言ってんのよ……」

「何か恥ずかしくなるようなこと、言った?」

「し、知らないっ」

 ここには安らかな時の流れがある。

 いつまでもここで二人と過ごしていきたい。

 私にはこれ以上何も望むものはなかった。



 半年が経った。

 今日はなかなか夕食にならない。

 それどころか、部屋に明かりすらともっていない。

 ミストは食卓のイスでなにをするでもなく、腰掛けていた。

 怪訝に思った私は、ミストの足にからみつく。

「魔物……」

 抱き上げられた。

 瞬間、首をぎりぎりと絞めつけられる。たまらず口が開いて舌が出た。

 見上げる先には、恐ろしい顔。これはミストではない。あのやさしい瞳が、戦慄を覚えるような顔に変わるはずがない。闇夜に目の形をした鈍い色の光だけが浮かび上がる。

 怖い。舌が震える。止まらない。怖ろしい。殺される。ころされる。

「あぁ……ごめんよ」

 喉が解放される。ミストに戻っていた。だが、顔に表情がない。

 ミストは私のミルクを注ぐと、またイスに座って外を眺めていた。

 夕食がない、明かりのともらない部屋、魔物、ミストの表情――アイシャがいない。


 私は何が起こったか理解した。


 一週間、ミストの様子は変わらなかった。

 そして住んでいた家を後にし、私を連れて人里離れた古い家屋に移り住んだ。



 さらに半年が経った。

 今でもときおり、ミストはぼんやりと外を眺めてアイシャの名をつぶやく。

 あの暖かな空気はここにはない。乾いた風が流れる。

 安寧で、しかし冷えた時間が過ぎてゆく。


 私はミストの元を離れる。

 私にはひとつだけ思い当たるものがあった。

 私は旅に出る。

 失われたものを取り戻すため。

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