【ミスト】―彼女―
「今日からお隣で暮らすことになったミスト君だ」
村長の娘は、白いドレスの裾を上げ、うやうやしくおじぎをする。
「アイシャです、よろしくね」
彼女と初めて会ったのは僕が十二歳の頃だった。
「………………」
それは、僕が両親を亡くして二週間後のことだった。
「なんで私がこんなこと」
彼女は村長に言われて、僕の新しい家を整理しに来た。数日前まで彼女が住んでいたそうだ。ぶつぶつ文句を言っている。
彼女は村長の前とは態度が随分と違った。乱暴に雑貨類を蹴飛ばす。
「アンタ、棚の上のビン下ろしといて」
何をするでもなく、イスにうずくまって窓の外を眺める。
僕の瞳には外の景色なんて映っていなかった。
「聞こえてないの?」
僕の耳を右から左に通り過ぎていく。
親がいなくなった後には、ただ虚しさだけが残っていた。
「ちょっと、耳ついてんのよね?」
彼女は僕の耳を無造作に引っ張る。
僕にはどうでもいいことだった。
「もお、なんとか言いなさいよ」
いきなり視界いっぱいに彼女の顔が映る。金色の髪が僕の頬をかすめる。
僕はたじろいだ。
「……なんとか」
何を言えばいいのかわからなかった。
「こ、この!」
頬っぺたをつねられる。痛い。
でも、怒ってる彼女がなんだか可笑しくて。
僕は無意識に微笑んでいた。
「な、なに? そういう趣味でもあんの?」
つねったまま、彼女がうろたえている。やっぱり可笑しい。
僕は親がいなくなっても泣かなかった。でもそれは、乗り切ったからじゃない。
何も話さない、聞かない、感じない、考えない――ふさぎこんで事実をちゃんと受け入れていないだけだった。
僕の奥底で眠っていた感情が目を覚ます。
止まっていた時間が動き出した。
微笑む目に涙が浮かぶ。
感情をせき止めていた壁に亀裂が入る。決壊する。
頬に涙が伝っていた。
流れ込む事実を止められない。
雪の降る冬、家の暖かさ。もう二度と触れられない、感じられない。
間抜けなことをして僕に怒られる父、くすくす笑う母。もがいても暴れても大声で泣き叫んでも、あの頃に戻ることはできない。
三人で笑いあう夕食。いくら望んでも時間は戻らない、どうにもできない。
流れ出した感情が止まらない。
喉から嗚咽が漏れる。
「ちょ、ちょっと!」
僕は彼女に抱きついていた。
「なに、を……」
声を上げて泣く。顔をくしゃくしゃにしてしゃくりあげる。
彼女はされるがまま、ずっと僕にしがみつかれていた。
このときから彼女はなにかにつけて面倒を見てくれる。
ひとつ年下の僕は、彼女の弟のようになった。
新しい家族が出来たみたいでうれしかった。
「ちょっとアンタ」
こそこそと背を丸めて家へ入ってきた僕は、突き刺さるような視線を感じた。
「またなんか拾ってきたでしょ?」
ダメだ、完全にバレてる。
「虫はやめてよね……で、今度はなに?」
「虫じゃないよ、ということで」
そそくさとリビングに向かう。
「なにが『ということで』よ。いいから見せなさい」
後ろから肩をつかまれた。
お手上げだ。彼女が僕の腕の中を覗き見る。
「なにそれ?」
「えーと……魔物、じゃないかな?」
「ま、魔物って! アンタなに考えてんの!」
「いや、だってほら、ケガしてるし」
「手負いの魔物なんてもっと危ないじゃない!」
「大丈夫だよ。手、噛まれたけど痛くなかったし」
右手の人差し指を見せる。少し血がにじんでいた。
「いいから、元の場所に戻してきなさいよ」
彼女は心配してるのか怒ってるのか、よくわからない表情をしていた。両方か。
「そう言われても。それにここ、僕の家なんだけど」
「元は私の家でしょ!」
理屈の通らないことを言う彼女。
「もう二年も前の話じゃないか。だいたいなんでアイシャが僕の家にいるんだよ」
「つべこべ言わずにとっとと捨ててきなさい!」
最後にはいつもこうだ。
でも今回は彼女の言うことを聞くわけにはいかない。
ベッドに向かう。
「ほら、そこの棚から薬草取って」
「ちょっと、聞いてんの?」
「聞こえてるよ、右から左に」
「聞き流してんじゃない!」
「そうとも言うかな」
適当にあしらいながら魔物の手当てを始める。
「あーっもお! 付き合ってらんない!」
「へぇ、アイシャは僕と付き合ってたのか」
なっ、と声をつまらせて固まる。そんな彼女が可笑しくて仕方がない。
彼女をからかうのは楽しかった。僕の趣味だ。
「あ、アンタなんて弟よ! ただの奴隷、拾ってきた犬よ、犬!」
まくしたてる彼女。
弟か。僕はそう思っちゃいない。
「そう言えば、もう僕の方が背はあるな」
彼女の身長は高かった。
でも、ここ一年で僕は急に背が伸びて、いつの間にか追い越していたみたいだ。
「おかあちゃーん、なんて抱きついてきたくせに」
「言ってない言ってない」
今ではもう昔の話。恥ずかしい笑いの種だ。
ここでの生活は楽しい。
以前のことは、ほとんど思い出さなくなった。
ゆるやかに過ぎ行く毎日。
僕は幸せだった。
秋の夕暮れ。
畑中に響き渡りそうな彼女の声が聞こえた。
手を休めて彼女に歩み寄る。
「かぼちゃってどこにある?」
「村の西から三キロ先にある、山の方の畑だよ」
「そう、ありがと」
「まだ収穫には早いけど、なにするつもり?」
「ないしょ」
そう言ってきびすを返す彼女。
僕にはなんとなくわかっていた。
食あたりに効く薬を準備しておいた方がいいだろう。
彼女の後ろ姿を見つめる。肩まで伸びた金色の髪が風にたなびいていた。
彼女は今年で十六歳になる。そろそろ年頃だ。
彼女が誰かと添い遂げるなんて、そんなこと想像もつかない。
彼女のいない生活など、僕には考えられなかった。
周りがダメだと言うなら、彼女と別の土地へ移り住んだって構わない。
これからもずっと一緒だと思っている。
……これじゃ、まるでプロポーズじゃないか。
この分だと、今夜は何か口走ってしまうかもしれない。
* * *
頬に冷たいものが当たっている。
吹き荒ぶ風。かすかに教会の鐘の音が聞こえる。
背中には冷えた石畳の感触。
視界には一面の真っ暗な夜空。白い点がひらひらと舞い降りる。
雪が降っていた。
秋のこの時期に雪なんてありえない。
僕は地面に仰向けになって寝ていた。
――ここはいったいどこだ?
記憶をたどる。
僕は白い光に体の内側から打ちのめされたはずだ。
起き上がってあたりを見回す。
確かにここは天空の塔の最上階だ。
しかし、誰もいない。
足元の地面には、血が固まってこびりついていた。これは僕のものなんだろうか。
五メートルほど先に黒い布のようなものが落ちていた。
歩み寄って取り上げてみる。
彼女の着ていたものだ。
――なぜ彼女の服が落ちている?
嫌な予感が広がる。脈打つ音が早く、大きくなっていく。
服の落ちていたあたりで何かが淡く光っていた。
思わず拾い上げる。
彼女にあげた指輪だった。
嫌な予感は絶望に変わる。早すぎる鼓動が眩暈を引き起こす。
突然、手の平に置いた指輪が強く光りだした。
明滅を繰り返し広がる。
まぶしい光が僕を飲み込んでいく――




