王女に「世界一かっこいい」と言われ続けた公爵令息の苦悩
王女フェリシー視点と公爵令息ロラン視点、交互です。
「ハンナ、どこかおかしいところはないかしら?」
鏡の前で何度も回っては装いや髪型を確かめるわたしに、侍女のハンナはクスクスと笑った。
「どこもおかしくありませんよ。いつもどおり可愛らしい姫様でいらっしゃいます」
「まぁ! いつも通りじゃ駄目なのよ。だって……」
「大好きなロラン様とお会いするのですものね」
そう、今日はロランと会える日なのだ。指折り数えて七日。やっと、やっとだ。ロランに会うからには一番可愛いわたしでありたいし、一番いいところを見てほしい。それでもお化粧は十歳のわたしにはまだ早いと言われてしまったし、装飾品もあまりない。
そんなものつけなくてもわたしの笑顔が一番だって侍女たちはいうけれど、本当にそうかしら。
わたしがロランに初めて会ったのは、五歳の時。五歳の記憶なんてだいぶおぼろげだけれど、その日の事だけは鮮明に覚えている。
わたしが城の庭で侍女と遊んでいると、同じように侍女を伴ったロランがやってきたのだ。その日はとっても良く晴れた日だったのに、わたしは雷に打たれたような衝撃を受けた。
なんて綺麗な人なんだろう。
侍女に何かを耳打ちされた彼は、ゆっくりわたしのところへやって来た。
「王女様、はじめまして。カンタール公爵家のロランと申します」
「は、はじめまして、フェリシーです」
お辞儀をすると、彼はニコッと笑ってくれた。そして一緒に庭の花を摘んで遊んだ。彼の笑顔は綺麗な花たちにも全然負けてなくて、まるで彼自身が光っているように見えた。当時十歳だった彼は、五歳のわたしからしたらずっとお兄さんで、大人っぽくて、とにかく全部が素敵だった。
カンタールこうしゃくけのロランさま、ロランさま、ロランさま。
よし、もう忘れない。
後から聞いた話では、王の側妃であるお母様が主催したお茶会に参加した公爵夫人が、その息子であるロランを連れてきていたのだそうだ。その日のうちにわたしはお母様にまた彼に会いたいと懇願したのだった。
それから五年。わたしの願いを聞き入れてくれたお母様は、時折ロランに会わせてくれる。わたしの遊び相手としてわざわざ呼んでくれたり、その日のようにお茶会だったり。わたしは宮城の外へ勝手に行くことはできないけれど、許可をもらって静養地に一緒に行ったこともある。
わたしは彼に似合う人になりたい一心で勉強に励んだ。お辞儀だって綺麗にできるようになったし、彼に渡すためのハンカチの刺繍も頑張っている。最初は王女が厨房に入るなんてと怒られたけれど、彼が気に入っているというチョコレート味のクッキーも自分で作れるようになった。もちろんちゃんと生地から作るのだ。
「ロラン様は今日もかっこいいです。世界一です」
「そう言ってくれるのはフェリシー様だけだよ」
苦笑するロランもかっこいい。容姿だけじゃなくて、いつも穏やかで優しいところも、わたしが「二人だけの時は王女だと思わず接してほしい」と言ったら口調を変えてくれたことも、頭をポンポンってしてくれることも、全部大好きだ。
今日のロランもまたかっこいい。紺色の輝く髪に、冴えわたった夜空みたいな濃い青の瞳。初めて会った時は可愛い感じだった顔つきが、最近急にぐっと大人っぽくなった。
わたしの体も少しは大きくなったけれど、それ以上に彼が大きくなるから、差は開くばかり。どんどんかっこよくなる彼に追いつけない。ちょっとへこんでいる。
「フェリシー様ももうすぐ入学だね。一緒に通えるのを楽しみにしているよ」
「わたくしもです!」
この国の貴族は十歳になった年に学園に入学し、六年間学ぶ。彼は学園に通っていたから、会う事ができたのは学校がお休みの時だけだ。それがついに、わたしも入学の年になった。五歳も離れているから、共に通えるのが一年だけなところが悲しいけれど、それでも一年は一緒に通える。ロランの制服姿を見られるし、毎日会えるかもしれない。もう楽しみでしょうがない。
なーんて思っていた。実際に入学するまでは。
わたしはへこんでいる。ちょっとどころではなく、かなり。しかも焦っている。こちらもかなり。
ロランの制服姿はかっこいい。かっこよすぎて、眩しくて、直視できないほどだ。それはいい。見ているだけでも幸せな気分になれる。
だけど、だけど!
顔良し、性格良し、ついでに成績も家柄もいい彼は、当然ながら人気者だった。男も女も引き寄せてしまう彼の魅力が恨めしい。
しかも彼の近くには同じく顔良し、スタイル良し、ついでに成績だって悪くないご令嬢たちがいっぱいいる。精一杯勉強してきたから、同じ学年の子たちに負けない自信はある。だけど十歳のわたしでは、さすがに最上級生にはかなわない。
そんなご令嬢たちに微笑んでいるロラン。やめてそんな素敵な笑顔見せたらみんな好きになるに決まってる。
ぐぬぬぬぬ、と教室の外からこっそり覗いているわたしのうしろから声が降ってきた。
「どうした妹よ。ひどい顔してるぞ。そんな顔も可愛いが、王女らしくはないな」
「お兄様は常に王子らしくて素敵ですこと」
目線はロランに合わせたまま、皮肉を込めて言ってやる。異母兄だって学園内ではけっこう好き勝手やっている。知っているんだぞ。
兄はわたしの視線を追って察したらしく、「あぁ」と呟いた。
「お前はずっとロラン一筋だもんなぁ」
「わたくし、悔しいのです。こうしてみると、わたくしはロラン様にとってただの子供。今のわたくしでは全然釣り合わないではないですか」
「ようやく気付いたか」
「ひどい。お兄様、性格悪い」
機嫌の良さそうな兄を睨みつける。びくともしない。そりゃそうだ、ロランと同じく最上級生の兄は最近、長年追い回し続けたご令嬢をようやく落として婚約したのだ。今の兄に何を言ってもこの気持ちは理解してもらえないだろう。
微笑み合っているご令嬢方よりも、わたしの方がロランの良いところをたくさん知っているのに。ロランが好きなものや苦手なものも知ってるし、真面目そうに見えてけっこう悪戯好きなのも知っている。この気持ちは誰にも負けないって思ってるのに、どんなに頑張っても、年齢だけは追いつけない。
「ロランは人気があるからな。それに、ロランもそろそろ婚約者を決めなければならない頃だろう」
「婚約者っ」
「お前は、まぁ、まだ十歳だからな」
「それって、わたくしには無理ってことですか?」
「さぁ。もしかしたら、もう決まっているかもしれないし?」
そんな……。
絶望に打ちひしがれながら、わたしはその場からよろよろと立ち去った。
〇〇〇
「ロラン、頼みがある」
「殿下、どうしたのですか?」
学園の教室で、同じクラスの王子殿下に声を掛けられた。曰く、妹を追いかけてなだめてほしい、と。殿下の妹といえば、フェリシー様のことだろう。
「ちょっと揶揄いすぎた」
「何をおっしゃったんですか」
「ロランもそろそろ婚約者を決めるころだよなって言ったら、絶望した顔して行っちゃった」
「あぁ……」
俺は仕方なく腰を上げた。行き先はたぶん庭のベンチだろう。彼女はそこが気に入っているから。
彼女との出会いは五年前。母に連れられて行った王宮の庭で、フェリシー様が花を摘んで遊んでいらっしゃった。花の中に見えた彼女はとても可憐で、まるで妖精みたいだと思った。侍女に「王女様ですよ」と小声で教わり、挨拶をしたのが初対面だ。目を見開いてなんだかすごい顔を一瞬していたのを覚えている。
それからなぜか俺はその王女様に懐かれて、遊び相手に任命されて学園が休みの日にはよく王宮を訪れた。
「今日はお茶会なのです。わたくしがクッキーを焼いたのですよ」
ちょこんと足の届かない椅子に座る姿は、完全におままごとだ。少し恥ずかしい。だけど、「王女様のお茶のマナーの勉強のために、お付き合いくださいませ」と言われてしまえば断れない。
「美味しいですね」
「そうでしょう、わたくし頑張りました」
ふふん、と胸を張るフェリシー様は単純に可愛らしい。妹ができたような気分で、遊び相手を務めるのは全然嫌ではなかった。
「ハァ、今日もロランさまはかっこいいですね。すてきです」
毎回のようにそう言われた。彼女はいつも俺にそのまま好意をぶつけてくれた。そりゃ、悪い気はしない。むしろ嬉しかった。公爵家の出身とはいえ、三男である俺は、あまり期待されている存在ではなかったから。
最初は単純に一緒にいるのが楽しいと思った。十歳だったから、何も考えずに。おままごとっぽいお茶会をしたり、一緒にちょっとした悪戯をしたり、王女様のお勉強のお手伝いをしたり。
静養地に連れていかれたり、俺のために頑張った、と、チョコレート入りのクッキーをもらったりもした。やけに指の怪我が多いな、と思っていたら刺繍の入ったハンカチをもらったこともある。もしかしたら、そうしてまで頑張ってくれていたのだろうか。
側妃さまの前でいかに俺がかっこいいか、という話を力説されていたたまれなくなったり、フェリシー様の父である国王の前で「将来結婚するの!」と宣言されて殺されるかと思ったりしたこともあった。
それから少しずつお互い成長し、俺は十五、フェリシー様は十歳になった。
初めて会った時から変わらぬ可愛らしさを残しつつ、彼女は幼女から少女になった。
最近俺は悩んでいる。こうもまっすぐに好意を伝えられ続けてしまったら、俺だって、やっぱりその気になってきてしまうじゃないか。だからといって、相手はまだ十歳だ。もしかして俺、そういう趣味あるの? いやいやいやそんなはずないでしょ。ない、絶対に、ない!
これ以上は駄目だ、と感じたのは、彼女が学園に入学した頃からだ。彼女の制服姿は、本当に可愛かった。本人は気が付いていないようだが、王女という身分も加わって周りからはすごく注目されている。その所作ひとつひとつが美しくて、新入生の中では群を抜いていた。
それでも彼女は変わらず俺を見てくれていた。
「制服姿のロラン様、すっごくかっこいいです。世界一です」
その言葉、そのまま返したいよ。そう思いながら、曖昧に微笑んでおく。だって、彼女は王女だ。これからいくらでもそういう候補者が現れる。
十五になった俺は、十歳の時と同じじゃない。十歳の時は、可愛い妹ができた気分だった。それときっと同じだ。彼女にとって俺は、構ってくれるお兄ちゃん、という括りに違いない。きっと学園生活を続けるうちに、そういった意味でのいい人が現れる。
こうして好意を寄せてくれているのも、今だけだ。
だから、調子に乗っちゃいけない。俺は、彼女を想っちゃいけない。
それに俺は公爵家の三男だ。次期公爵は兄に決まっているし、爵位を得ようとすれば俺は父の持つ子爵位をもらうかどうか、といったところだ。王女様のお相手が子爵では身分違いすぎる。
それに何より、まだ十歳とはいっても、フェリシー様はとても魅力的だ。どう考えてもこれからどんどん素敵な女性になる。彼女に好意を寄せる男はたくさん出てくるだろう。彼女の立場からしたら、選び放題だ。縁談だってたくさんくるだろう。次期公爵どころか、近隣国の王族だって彼女を欲しがるに違いない。
どう考えても俺は不釣り合いだ。
庭に出ると、思っていたとおりベンチに腰かけているフェリシー様がいた。いつも明るい彼女が、今はどんよりとした空気をまとっている。
「やっぱりここにいましたか」
いつものように近付くと、驚く顔をした彼女に許可も取らず、隣に腰かけた。侍女や護衛以外の人がいるところでは仕方がないが、二人の場所で王女扱いをすると彼女は機嫌が悪くなるのだ。
「ロラン様、どうしてここに?」
「王子殿下に言われたんだ。ちょっと揶揄いすぎたって、落ち込んでいらっしゃいましたよ」
「お兄様は落ち込んでなどいませんわ。そういう性格ですもの」
「殿下には厳しい」
思わず苦笑する。兄妹二人はいつも何だかんだと言い合って、それでいて仲がいい。自分の兄とはそうではないから、羨ましくもある。
意を決したかのように、フェリシー様は俺を見つめてきた。そんな顔も可愛いから、正直なところやめてほしい。
「ロラン様、もう婚約者の方が決まっているのですか?」
「いや、決まってないよ」
あからさまにホッとした表情。そしてすぐにまた不安そうな顔に戻る。普段は取り繕った王女の顔をしているのに、二人になると感情が全部顔に出るところもまた、俺に気を許してくれていると嬉しくなる。
「もしかして、どなたか婚約したいと思っている方や、候補者がいらっしゃる?」
君だよ、と言ってやりたい。
かろうじてとどまり、「いいや」と答える。
「それならばっ、わたくし、ロラン様の婚約者候補になりたいです」
そう言っている彼女につけこんで、無理に婚約させることは、もしかしたらできるのかもしれない。国王に殺されなければだが。
だけど、そうしたところで、後にフェリシー様にいいお相手ができたら?
俺は完全に足枷になってしまう。まだ引き返せるはずだ。幼いころから見ているせいか、フェリシー様に対して兄のような目線ももっている。どうか彼女には幸せになってほしい。
だからといって、彼女が俺以外にこのような気持ちを向けるのを、黙って見ていられるのだろうか?
矛盾した気持ちがぐるぐると渦巻いて仕方がない。
「フェリシー様があと数年経っても同じように思っていたら、また考えましょう」
ニコッと微笑めば、彼女は口を尖らせた。
「だって、あと数年経ったらロラン様はもう婚約してしまうではありませんか。こんなにかっこよくて、性格も所作も成績もいいのに、ご令嬢方が放っておくはずがありませんよ」
性格はどうだか知らないが、俺の成績がいいのは、完全に彼女のおかげだ。
俺は、学園に入学する前の彼女がすごく努力していることを知っていた。王女という身分に相応しくあるように、教師たちは非常に高いレベルを要求していたが、彼女は泣き言ひとつ言わずに一生懸命取り組んでいた。それに、誰からも傅かれるような環境にいながら我儘放題に育つこともなく、周りのことにいつも気を配り、下の者たちの気持ちを考えて行動していた。
年下だが、そんなところは素直に尊敬しているし、見習いたい。
だから俺も、できるかぎりの努力はした。だって自分よりも五歳も下の入学前の女の子が必死で頑張っているのに、その子から「かっこいい」と言ってもらっている俺が全然駄目であったら、カッコ悪いだろう。
たまに可愛い顔で「教えてほしい」と言われたことに、答えられないわけにいかないだろう?
猛勉強した。必死だった。
成績上位をキープしているのは、そんな矜持があったからだ。
「放っておかれないのは、フェリシー様のほうでしょう。皆から注目されているのに気が付いていないのか?」
「それは王女という身分だからでしょう?」
「そうとも限らないと思うけど? 俺よりもフェリシー様のほうが先に婚約が決まってしまうかもしれない」
「そ、そ、そんなことは絶対にありませんわ!」
急にきょどきょどし始めた彼女もまた可愛らしい。
「数年は待ってくださるのですね?」
「やむを得ない事情がなければ、そうします」
「やむを得ない事情?」
「父上に命じられてしまえば、お互い断れないでしょう?」
「それはっ、お父様に言っておきますわ。五年、いや、三年は待ってほしいって!」
いきなりの強権発動。
クッと笑うと、彼女はきょとんとした顔をした。
「何か変なことを言ったかしら?」
「普段は王女様としての権力を使わないように注意していらっしゃるのに、急に国王陛下の力を持ち出してきたから、なんだかおかしくて」
「もうこうなったら権力でもなんでも利用しますわ。それとも、ロラン様はわたくしが相手では嫌ですか?」
「嫌なはずがないよ」
フェリシー様は満面の笑みになって、スキップする勢いで教室へ戻っていった。いつもの優雅さはどこへやら。
あぁ、俺は、ズルい。
〇〇〇
三年は待ってやる、と国王である父に約束してもらい、ロラン様のお父様であるカンタール公爵からも了承を得た。公爵は、もういっそのことすぐにでも、と乗り気だったけれど、三年は待つことになった。父がそうさせたのと、ロラン様自身が三年後を望んだからだ。
父はいい。我ながらだいぶ可愛がられていると思っているので、そういうものだと母も言っていた。しょうがない。
でも、ロラン様は?
もしかしたら、わたしでは嫌なのだろうか?
そんな不安を払拭するかのようにわたしは勉強に打ち込み、毎年首位を得ている。貴族令嬢としての作法もバッチリのはずだ。父曰く「フェリシーはどこに出しても恥ずかしくない、いや、どこにも出さない」だそうだ。出してほしい。
そして三年。わたしはもうすぐ十四歳になる。
「はわぁぁぁ」
王宮で働き始めたロランを影から眺める。今日もかっこいい。わたしもだいぶ成長したはずだけど、ロランもさらに身長が伸びた。いつまでたっても追いつけない。悔しい。
「何やってるんだ妹よ」
「見たらわかるでしょうお兄様、ロラン様を眺めて幸せな気分に浸っているに決まっているではありませんか。お兄様こそなぜこちらに?」
「なぜって、ここは俺の執務室だ。ロランは俺の側近だぞ」
そうだった、と思いつつも、そんなことどうでもいい。仕事をしているロランは本当に素敵だ。制服姿も良かったけれど、仕事のための貴族服もキリッと着こなしている。はぁ、もう、溜息が止まらない。
仕事の邪魔をしたくないからこうしてこっそり眺めているわけだけれど。
「おい、ロラン」
なんで呼んだ兄よ!
「殿下、なんでしょうか? あれ、フェリシー様?」
気付かれちゃったじゃないか。
「ちょっと付き合え。今日は休憩を取ってないだろ? フェリシーも来い」
「えっ」
そして小部屋に連行された。そんなつもりはなかったから、ちょっと心の準備が、うっ、近くで見るロラン、より眩しい。兄めっ。感謝してやる。
「フェリシー様、どうかされたのですか?」
どうしよう、ロラン様を見に来ました、ロラン様を堪能してロラン分を補充してました、とか言えない。
「ちょっと近くを通ったら、ロラン様が見えましたので、寄ってみたのです、ほほほ」
心の中は焦りでいっぱいだけれど、優雅にお茶に口をつける。
そう、焦っている。
仕事をしている姿を見れば、より焦りがわく。すらっとした体躯に凛とした顔。そりゃあ、モテる。間違いなく。
もう婚約を待ってもらうはずの三年が過ぎてしまった。ということは、誰と婚約、結婚してもおかしくない。だって彼、もう十八歳。彼と同じ歳の兄が長年追い回し続けた伯爵令嬢とようやく結婚して、鼻の下どころか顔全体をゆるゆるにしていたのはもう一年前のことなのだ。いまでも顔は緩みっぱなしだが、それはしょうがない。王子妃になったセリーヌ様は美人と可愛いを合わせ持ったような人で、性格もいい。そりゃ惚れるのも仕方がない。それを言うと「そうだろう?」と延々と続く惚気に付き合わされるので、もう言わない。何年追いかけていたんだろうか、とりあえずわたしに物心がついたころにはそうなっていた。
セリーヌ様、お可哀想に。兄に選ばれてしまったが為に、ひたすら何年も追い回されて、ついに陥落させられてしまった。
「ところでお前たち、婚約はどうするんだ?」
ブッ、と紅茶を吐き出さなかったわたしを褒めてほしい。いや、教育してくれた先生方にお礼を言うべきところか。
いきなりそれかい兄よ!
「なんだ、まだ決まってないのか。さっさとしないと逃げられるぞ?」
わたしとロランをチラチラと見た兄は、ニヤリと笑った。
「ロランはモテるからなぁ。そうだ、セリーヌの友人の妹が狙っているそうだぞ?」
「はうっ」
「婚約の申し込みも多数きているそうじゃないか」
「ロラン様、わたくしと婚約してくださいっ!」
兄が堪えきれないとばかりに笑った。王子らしからぬ笑い方だが、今はそんなことどうでもいい。
「おい、ロラン、俺の妹じゃ不満か?」
「いえ、とんでもないことですが」
「ですが?」
「私がこの場で勝手に了承するわけにもいかないでしょう」
家の事情もあるわけですし、と言葉を濁すロラン。
苦笑しているその表情からすると、きっと、困っている。ということは、それを望んでないということ。
わたしはショックで、周りの色が全てなくなったかのように見えた。
自己分析をするに、わたしは割と楽観的な性格だとは思う。それでも今回、婚約をやんわり断られたようなそうでないような、という状況は、わたしの心を沈ませた。
「お兄様、わたくし、もう駄目なのかしら」
「はぁ?」
「ロラン様の幸せを思うなら、黙って身を引くべきでしょうか」
「なに言ってんだ? 黙って身を引けるとでも思ってるのか?」
「自信がございません」
「お前には無理だな。そもそも、別に断られたわけじゃないだろう。嫌だとはっきり言われたわけじゃないんだから、諦めるのはまだ早いんじゃないのか? お前それでも俺の妹か?」
ハッと兄を見上げた。
そうだ、そうだよ。この兄の妹かどうかはどうでもいいとして、まだ駄目だとか嫌だとかもう俺に話しかけるなとか、想像するだけで悲しくなってきた、とにかくそういうこと言われたわけじゃない。
「お兄様、たまには良いことを言いますね」
「俺は良いことしか言わない。……おい、無視するな」
当たって砕けるまで前進あるのみ!
わたしは拳を握りしめた。
〇〇〇
もう、これは、そういうことにしてもいいんじゃないだろうか。
何度も何度も、本当に何度も繰り返した自問自答を、もう一度繰り返す。今日こそは、もうそういうことにしてもいいと思う。
「仕事着の姿もかっこいいです。世界一です」
目を潤ませて上目遣いで言ってくるフェリシー様。それだけで、俺はもうノックダウン寸前だ。
誰とも婚約しないと約束した三年。この三年が過ぎるころには、きっとフェリシー様は現実を見るはずだと思っていた。想いを寄せる人が現れるかもしれないし、そうでなかったとしても、俺のことは「兄のように」慕っていた、と気付くだろうと。かっこいいと言ってくれるのは嬉しいが、あくまでそれは年上へのちょっとした憧れのようなものであって、俺が思っているような情ではないのだと。
それがどうだ。
俺が学園を卒業してからも、彼女の態度は一向に変わることなく、むしろエスカレートする一方だ。
一生懸命自分の気持ちをごまかし続けてきた。
彼女がこのような情を向けてくれるのは今のうちだけだ、と。
だけど、もう限界だ。
かっこいいです凛々しいです素敵です眩しいです世界一です!
そんなことをあのフェリシー様に言われ続けて、落ちない男がいるだろうか。いや、いない。断言できる。
さらに。さらにだ。
成績が首位なのも、所作の勉強を頑張ってきたことも、今までの努力は全て俺に相応しくなるためだなんて言われたら、もうどうしたらいい。地面にのめり込むくらいじゃすまないくらいに落ちまくってるんだが。
「殿下、俺、どうしたらいいですかね?」
「なに言ってんだ? さっさとものにすればいいだろ。お前はいろいろ考えすぎなんだよ」
「そうでしょうか」
「あぁ、でも、手を出すのは結婚してからにしろよ。あと、フェリシーを幸せにしなかったら俺と父上が許さない」
すごい脅しをいただいた。国王と王子から睨まれたら、きっと生きていられない。俺だけならばまだいいが、周りに影響があるのはちょっと困る。悩みが増えた。
「でも、俺は公爵家出身とはいえ三男なので公爵位は継げませんし」
「王女に婿入りか、もしくはフェリシーが公爵になって、その配偶者になればいいだろ。婿入りは嫌か?」
「いえ、とんでもない」
あっさりと解決策の一つが出されて少したじろぐ。
「フェリシー様にはこれからきっと、想いを寄せる方が現れるんじゃないでしょうか。俺は、小さい時に遊んでくれたお兄さん、に過ぎないんじゃないかと。いつかそう思う日が来ます」
「んー、それはないな」
「えっ?」
「そこは俺も同じだからよくわかる。心変わりすることは、ないな」
妙に自信たっぷりなのは、何か根拠があるんだろうか。
そういえば王子殿下も幼少期からずっとセリーヌ様だけを追い続けて、ようやく結婚なさったのだった。
「心変わりしないんですか?」
「しない。たぶん、そういう血筋?」
血筋といっても、王子殿下とフェリシー様では母が違う。ということは国王陛下の血筋ということになるけれど。
「陛下には側妃さまもいらっしゃるでしょう?」
「でも父上はいまだに王妃様一筋だぞ。それも周りからみたらドン引きするレベルで。どうしても子ができなかったから仕方なく側妃を娶っただけで、俺の母上もフェリシーの母君も大事にされてはいるが愛されてはいないな」
自分の母が愛されていないなどと、あっけらかんという王子殿下に目を丸くする。
殿下の話によれば、長年追い回した上でようやく王妃様と結婚したが、なかなか子が授からず、側近と王妃様本人の懇願により五年できなければ側妃を迎えましょうという話に了承せず、十年に期限を延ばしてようやく合意したがその十年が過ぎても残念ながら授からず、それでも王妃様しか見えない陛下は養子を迎えればいいだのとごねにごねてごねまくって更に五年。プレッシャーと責任を感じすぎた王妃様が体調を崩してようやく側妃を迎えたのだとか。
そういえばそんな噂は聞いたことがあったが、本当だったのか。
ちなみに二人迎えた側妃がそれぞれ子を複数産んだので、王妃様は重圧から解放されてすっかり元気になり、今も国王の重い愛を受け止め続けているらしい。側妃とも仲が良く、本当によくできた方だそうだ。この国は王妃様がいることによって成り立つとまで言われている。
「王妃様に子があれば、俺もフェリシーも生まれなかった」
「そんな重い話をいきなり……」
「ま、事実だ。俺はもし子ができなくてもセリーヌ以外絶対嫌だから、国王にはなりたくない」
「さらに重い話をさらっとしないでくださいっ」
「ダジャレか? 面白くないぞ」
ダジャレのつもりはなかった。ちょっと恥ずかしい。
「とにかく、俺はフェリシーとはあまり似ていないが、その気持ちだけはわかるから、たぶん心変わりはしない」
いえいえ、殿下とフェリシー様はそっくりですよ。
殿下は知らないかもしれませんが、そっくりだと評判ですよ。
「ロラン、お前も可哀想な奴だな。フェリシーに選ばれてしまったが為に、何年もひたすら追い回されて、ついに陥落か?」
そう言う殿下の憐れんだような目は、どこかで見たことがある。そうだ、フェリシー様がセリーヌ様を見ているときと同じだ。
「言っとくけど、フェリシーの元には婚約の申し込みが多数きてるぞ。父上が握り潰しているが、今後はどうだろうな?」
「なっ?」
「うじうじしているうちに取られても知らないぞ」
ニヤリとして行ってしまった。
どうしよう。
今まではフェリシー様に相応しい相手がいるはずだと思ってきたけれど、フェリシー様が他の男の横にいるのか?
あの可愛らしい口で「かっこいいです、世界一です」とその男に言うのか?
そしてその男がフェリシー様に触れて……、それ以上は言葉にはできない。
メラメラと想像上の男に怒りが込み上げてきた。心の中で思いっきりそいつを殴り飛ばす。
決めた。もう決めた。彼女は俺のものだ。
俺が彼女に相応しくなればいいし、幸せにすればいいんだ。
決心したものの、どう伝えるべきか悩み続けて早二ヶ月。執務中にも関わらずハァと溜息をついてしまった俺を、執務室に戻ってきた王子殿下はチラッと一瞥した。
「またフェリシーの事を考えているのか?」
「そ、んなこと……」
叱責されるかと思いきや、殿下は少し考えるように顎に手を当てた。
「そういえば、縁談がきている」
「え、縁談?」
「相手は隣国の第一王子で、まだ立太子されていないが最有力候補だそうだ。両国の友好のためにも是非、と言われているらしい。王子と王女ならば身分も問題ないし、こちらとしても断る理由がない。まぁ、まだ正式に婚約が整ったわけじゃないが、父上も受ける方向で検討している」
「そ、そんな……。フェリシー様は何と?」
「本人に聞けばいいだろ」
知らなかった。心変わりはしない、と殿下は言っていたではないか。それに安心していたけれど、彼女は王女だ。両国の友好の為に差し出される可能性だって充分にありえるのだ。
急に焦りがこみ上げる。フェリシー様が、隣国へ行ってしまうかもしれない。
「ロラン、休憩にしていいぞ。あぁ、ここに戻ってくる途中、フェリシーを王宮の庭で見かけた。まだいるんじゃないか?」
ニヤリと笑みを浮かべた殿下にお礼を言うと、俺は執務室を飛び出した。そうだ、言われていたじゃないか。縁談が多数きていると。うじうじしているうちに取られても知らないぞ、と。
フェリシー様がいつも通りだったから、本当にそうなる可能性があることから目を背けていた。フェリシー様がいなくなる。あの笑顔も、「かっこいいです」という表情も、他の男のものになる。
実際にその可能性を突きつけられて、初めて絶対に嫌だと思うなんて、俺はなんて愚かなんだろう。
城の中で貴族らしくなく走る俺を、周りは何があったのだろうと振り返る。そんなことに構ってはいられない。
王宮の庭に出ると、フェリシー様は戻ろうとしているところだった。
「フェリシー様っ」
パッと振り返ったフェリシー様が少し驚いた顔をして、それから花が咲くように笑みを浮かべた。あぁ、いつも通りの彼女だ。
「ロラン様、どうしたのですか? ずいぶんお急ぎのようですけれど、何かあったのですか?」
「あの、縁談が」
「縁談?」
荒い息を整えている間に、侍女たちがサッと下がっていく。ゆっくり大きく息を吐き出して、可愛らしく首を傾げているフェリシー様をまっすぐ見つめる。
「縁談がきていると伺いました。隣国の王子との。陛下も受ける方向だとか」
「あぁ、そうみたいですね」
まるで他人事のように答える。
もしかしたら受け入れようとしているのか? 王女なのだから仕方がないと?
「フェリシー様はそれでいいのか?」
「いいのではないですか?」
「ほ、本当に? 隣国へ行くことになるんだろう?」
まさか、簡単にいいと言うとは思わなくて、絶望的な気持ちになる。
「えぇ。お姉様も望んでいるみたいですし、おめでたいことだと思います。たしかになかなか会えなくなることを考えると寂しいですけれど……ってどうかしましたか?」
お、ねえさま?
俺はそこで初めて勘違いに気付き、しばらく固まった後、安心してプシューッと空気が抜けるようにしゃがみ込んだ。ハハハと自然と笑いがもれる。とても貴族とは言えない有様だろう。
「どうしましたか? 大丈夫ですか?」
「もう、大丈夫です。俺はてっきり、君がいなくなってしまうのかと」
「え?」
「王女様に縁談がきていると聞いたから、つい」
「えっ、あの、えっ? もしかして、わたくしへの縁談だと思って、来て下さったのですか?」
フェリシー様によれば、縁談は彼女の異母姉であり王子殿下の同母妹である王女へのものらしい。隣国へ短期留学している時に良い仲になり、彼女のほうも望んでのことだとか。
情けない。あまりにみっともなくて、もう繕った笑顔も出せない。
全部王子殿下のせいだ。あれは、絶対にわざとだ。
少しだけ気持ちを整えて、彼女の隣に座る。
赤らめて見上げてくる彼女のその顔は、俺だけのものだ。もう誰にも見せたくない。その瞳も、口から出る言葉も、髪の毛も、それからその身体も、彼女の全部、誰にも渡さない。
だから……。
「フェリシー様、俺と結婚してください」
「えっ?」
「君がいなくなってしまうって思ったら、もうどうしていいかわからなくなったんだ。俺は……」
一旦言葉が切れた。急に緊張してきた。いつも言われているはずなのに、言うのはこんなに勇気がいるのか。彼女はそれを、毎日のように言ってくれていたのか。でも、伝えずに結婚を迫るのは駄目だ。
俺の気持ち、全部を知った上で、俺のところに来い。「かっこいい」と言い続けて俺をその気にさせたんだから、責任を取ってくれるよな?
「フェリシー様が好きだ。可愛いと思う。人知れず一生懸命努力しているところも、まっすぐでたまに向こう見ずなところも、全部大好きだ。世界一可愛い」
目が飛び出んばかりに大きくなった彼女は、少し固まって、じわじわと顔が赤くなってきた。それにクッと笑う。
「俺はフェリシー様が思っているような、かっこいい男じゃないし、優しい男でもない。今だって、そうやって赤くなった君を抱きしめてしまいたいし、そのはくはくしている口を奪ってしまいたいと思ってる」
思わず、といったように、彼女は口を両手で押さえた。俺としてはこれでもかなりやんわりと伝えているんだ。
「君の心も身体も、君の全部がほしい。他の男に渡したくない。ずっと側にいたい。こんな俺でもいいならば、結婚してほしい。了承するならば、もう逃がしてやれない」
しばらく目を見開いて固まっていた彼女は、ゆっくりと潤んだ瞳を俺に向けた。じっと俺の目を見て、顔をくしゃっと歪ませてから、彼女は何度も頷いた。
〇〇〇
なんかすごいこと言われた。
もう一度言うけど、なんかすごいこと言われた!
頭が働かないまま倒れ込んで、気がつけばもう朝。
頭がぼーっとするのは、熱を出してしまったかららしい。侍女のハンナがそう言っていた。
昨日の事をぼんやり思い出す。
『世界一可愛い』
一瞬で頭に熱が上った。蒸気が出そうだ。
今日が休日でよかった。動けそうもない。
『結婚してほしい』
そのまま寝台にボフッと倒れた。そう言ったよね? 聞き違いじゃないよね?
思わずすごい勢いで頷いた気がするけれど、彼が笑ってくれていたから、伝わったと思っていいよね?
婚約の話し合いをすると言われたのは、それからわずか数日後。
通常ならばありえない早さに驚く。
向かった王宮の一室には、ロランとそのお父様であるカンタール公爵がすでに来ていた。ロランの顔を見て先日のことが思い出され、また顔が熱くなる。
それから父である国王と母側妃が来て、全員が揃った。
婚約はあっけないほど簡単に整った。元々公爵は爵位を継がない三男であるロランと王女との婚姻に大賛成だったし、母は小さい時からわたしがロランを見ていたのを知っていたので、あらあらよかったわねという感じだった。
父だけが少し不服そうだったけれど、仕方がないと署名していた。
婚姻を結んだら、わたしが王女の位から降りて公爵位を得ることになり、ロランは公爵の配偶者という扱いになるらしい。領地も賜る予定だが、今まで通り城勤めも続けることになるそうだ。
婚約が整い、ロランがわたしを見てニコリと微笑んでくれたから、わたしは嬉しくて嬉しくて嬉しくて、倒れた。
〇〇〇
まったく、どうしてくれようか。
学園の最終学年になったフェリシー様は、それはもう可愛らしく、そしてぐっと女性らしく成長された。長く艶のある銀の髪、白くすべすべな肌、くりっとした瞳に赤く艶やかな小さな口。どれもが俺を魅了する。
それにも関わらず言動はあまり変わらない。
「わたくしの婚約者は世界一かっこいいです」
ふにゃりとした顔でそう言ってくる。もう、本当にどうしてくれよう。
甘えたような顔も、俺を信頼しきっていると言わんばかりの瞳も、目に毒すぎる。その信頼にだけは応えてやれそうもないというのに。
何度手を伸ばしそうになったことだろう。もう伸ばしてしまってもいい気さえする。
でもそれでもし婚約を取り消されるようなことになっては大変だし、学園を卒業して正式に婚姻を結ぶまであと一年なのだから、辛抱するしかない。
卒業してしまった俺はもう行けないが、学園でも注目されているに違いない。そういう話は聞いている。俺がいない場所で知らずのうちに口説かれたりしてるんじゃないかと想像するだけで、イライラしてくる。
それとなくフェリシー様に聞いてみても、「そんなことあるわけないじゃないですか」と笑っていた。あるわけない、わけがない! その笑顔! 俺以外の前で出すなよ?
「そんな顔もかっこいいですけど、何か怒っていらっしゃいますか?」
「いや、怒っているわけじゃないんだけど」
いつもやられっぱなしでは悔しいから、たまには意趣返しをしてやろうと思い立った。
「フェリシーが世界で一番可愛いから、取られてしまうんじゃないかって不安なんだ」
彼女の耳元で囁くように言ってやる。固まった彼女に気を良くしていたら、ボンッと音がなるかのように顔が真っ赤になった。見上げられたその瞳は潤んでいる。その顔はずるい。無理だ。俺が悪かった。
「はあぁぁぁ」
思わず出てしまった溜息。いかんいかん仕事中だと気を入れ直したが、聞かれてしまったらしい。
「どうかしたのか。フェリシーと何かあったか?」
「何かあったらまずいでしょう!」
「あぁ、何もできない方か」
余裕しゃくしゃくな王子殿下に腹が立つ。立ったところで王子に対して何ができるわけでもないが。
「気持ちはわかるぞ。俺も辛い」
うんうん、と頷く殿下。共感していただけてしまったが、辛いの意味がちょっと違う。王子殿下はセリーヌ様がめでたく懐妊されたから相手をしてもらえないだけであって、基本的には幸せいっぱいなのだ。
「先日セリーヌがフェリシーとお茶を飲んだらしいのだが、フェリシーも悩んでいるらしいぞ」
「悩みですか?」
なんだろう。俺といるときはそのように感じなかったけれど、もしかしたらあと一年というところになって、やっぱり嫌になったのだろうか。
少しネガティブな方向に思考が動いた俺に向かって、王子殿下はニヤリと揶揄いたっぷりの目をしてきた。
「今日もロラン様がかっこよくて辛い、これで結婚して毎日会えるようになったら心臓が持たないかもしれない、だそうだぞ?」
「えっ」
「セリーヌが呆れて言ってやったそうだ。結婚したら夜も共に過ごすけれど大丈夫かって。そしたら、のぼせ上った顔をして、天に召されるかもしれないどうしよう、だそうだ。俺の大事な妹を殺すなよ?」
それはどう捉えたらいいんだ。もうすぐ結婚することを喜んでくれているってことでいいよな?
結婚後も手を出すなということか?
でも別に嫌だと言っているわけじゃないよな?
もうすぐ学園の卒業式を迎える。それが終われば、半年ほどで式を挙げることになっている。学園が休みで俺も休日だったその日、式を挙げる予定の場所を見学に訪れ、そのまま付属の庭園を散歩することになった。
「もう、あと半年なんですね? ここで、けけけけっこんしきを、するんですよね?」
フェリシー様はチラッと俺を見上げてくる。
「その予定だけど、結婚するのが嫌になったのか?」
「そんなわけないじゃないですか。ただ実感がわかなくて」
「分かってもらわないと困るな。式を挙げたら俺たちは夫婦になるんだから」
「ふうっ、ふっ」
ボッと顔が赤くなった。ふうっふ、ってなんだよ。
嫌がっている反応ではないことに安堵しながら、結婚式に思いを馳せる。いつでも可愛いけれど、いつも以上に着飾ったフェリシー様はきっとすごく綺麗だ。
そして、夫婦になったら、とここまで考えて頭をブンブンと振った。いかんいかん。
「どうかしたのですか? ロラン様こそ、わたくしと結婚するのが嫌になりましたか? まぁ嫌だと言われてももう逃がしてあげませんけれど」
なんだって。それは俺の台詞だろう。
思わず進路を塞ぎ、フェリシー様をじっと見つめた。
「ロラン様?」
「逃げるつもりも逃がすつもりもないんだけど、一応聞いておく。本当に俺と結婚していいんだね?」
「も、もちろんですよっ」
ほのかに上気した頬。幼いころからその瞳の色は全く変わらない。だけど、これからは少し変わってほしい。俺はもう、純粋な気持ちで幼いフェリシー様とお茶会ごっこを楽しめた、あの頃とは違う。可愛い顔だけじゃなくて、細い腰、胸のふくらみ、彼女の全てに目がいくし、全部を手に入れたい。
きっと彼女はそんな俺のよこしまな気持ちなんて知らずに、純粋に俺を信頼してくれている。でも少しはそんな気持ちにも気付いてくれないと、困ってしまう。俺は安心安全な兄のような存在では、もういられないのだから。
そっと彼女の唇を奪った。
これから夫婦になるんだから、これくらい、いいだろう?
どんどん赤らんでいく彼女の顔に、ニヤリと微笑みかけた。
ずっと俺に「かっこいいです」と言い続けて、俺をその気にさせた君が全部悪い。さんざん今まで煽ってくれた分、結婚後は覚悟しておけよ!
俺を見つめる瞳がだんだん潤んできて、ちょっと罪悪感が湧いてきた。ふるふると小刻みに揺れているのは気のせいだろうか。どうしよう、怒らせてしまったかもしれない。合意も得ずに、ちょっと強引だったことは認める。でも結婚することには了承を得ているわけだし……。
ぐいっ。
いきなり引き寄せられた。意外と力あるんだなフェリシー様、なんてどうでもいいことが頭をかすめる。で、顔が近付いてきて。
ふに。
えっ、ちょっとまって、口! くち、開いてるっ!
そんなに長くなかったはずだと思う。もうわからない。ふぅ、という吐息が艶めかしい。呆然とフェリシー様を見つめる俺に、彼女は赤い顔でニヤリと笑った。
「わたくし、ロラン様は嫌がるかと思ってずっと我慢していましたのに。でも、もうすぐ、けけけ、結婚するのですもの、いいですよね? 式を挙げたら、その、えっと、覚悟してくださいませっ」
……俺の完敗だ。
あと半年、どうやって過ごしたらいいんだ。
俺の悩みは続く。だけど、きっと幸せな悩みに違いない。
フッと笑って、俺は彼女を抱き寄せた。
特に問題なく結婚する。
読んでくださりありがとうございました。