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太祖本紀 五
顕徳3(956)年春(1月上旬に出発し)趙匡胤は柴栄に従って淮南に遠征すると、初戦は渦口で南唐軍一万余りを破り、(南唐の)兵馬都監である何延錫等を斬った。
やがて南唐の節度使・皇甫暉、姚鳳は軍勢十五万と称して清流関に陣を布いたが、趙匡胤は攻撃してこれを敗走させた。
そして趙匡胤が彼らを追って滁州城下に至ると皇甫暉は言った。
「人はそれぞれ自身の主人のために力を尽くすもの、ゆえに願わくは(願うところは)お互い戦闘体制を整えて勝負を決したい」と。
趙匡胤は笑ってこれを承諾した。
そして皇甫暉が滁州城を出て戦闘態勢を整えると、趙匡胤はそれに応じて馬の首を抱えながら真っ直ぐ敵陣に突入し、握った刀を皇甫暉の脳天に打ち込んで落馬させ、姚鳳と共に彼を捕らえた。
その(滁州城を攻め落とした)後、趙匡胤の父である趙弘殷が軍を率いて夜半に滁州城下へ至り伝令は開門と叫んだが、それに対し彼は答えた。
「父子は言うまでもなく最も近しい間柄であるが、城門の開閉は国家の大事である」と。
それにより趙弘殷は夜明けまで待って、やっと城に入ることができた。