太祖本紀 四
後周の顕徳元(954)年、柴栄(世宗)は即位すると再び禁軍(近衛軍)を取り仕切った。
それから間もなく北漢軍が侵攻してきたので、柴栄は後周軍を率いてこれを迎撃し、両軍は高平で戦った。
そして両軍がまさに激突しようとした時、指揮(使)の樊愛能等が真っ先に逃げたため、後周軍は窮地に立たされたが、そこで趙匡胤が同僚を指揮しながら、馬を疾走させて北漢軍の前衛(先頭)部隊に突撃すると、北漢軍は大敗して散り散りとなった。
さらに趙匡胤は勝ちに乗じて晋陽城を攻め、その城門を焼いたが、左腕に流れ矢が当たったことから,柴栄は彼に晋陽城攻めを止めさせた。
そして都の開封に帰還後、趙匡胤は殿前都虞候に任命され、領厳州刺史となった。
訳者注
※郭威
後周の初代皇帝
※柴栄は即位すると。
柴栄(世宗、後周の第2代皇帝)は郭威の義理の甥(彼の皇后柴氏の兄・柴守礼の子)であるが、後漢の第2代皇帝・劉承祐に郭威は一族を滅ぼされて息子がおらず柴栄を後継者とした。
※再び禁軍を取り仕切った。
柴栄(世宗)はかつて(後漢初(947)年に)左監門衛将軍に任命され禁軍を取り仕切っていた(出典 『旧五代史』 周書五 世宗本紀一 中華書局P1509)
※北漢
郭威によって(951年に)滅ぼされた後漢の残党が、951年に晋陽を根拠地(都)として建てた政権。