表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

太祖本紀 三

 後漢(こうかん)の初年、趙匡胤(ちょうきょういん)は仕官のために各地を巡り歩いたが、彼を厚遇(こうぐう)してくれる所は無く、襄陽(じょうよう)の寺院に宿泊させてもらうと、そこには老僧がおり占いを得意としていたので、振り返って趙匡胤に言った。


「我は(なんじ)に十分な旅費を与えるゆえ、それを使って北に行けば出会いがある」と。


 そして北に行くとちょうど郭威(かくい)が後漢の枢密使すうみつしの地位によって、反乱を起こした河中(かちゅう)李守貞(りしゅてい)(原文では李守真(りしゅしん))を討伐していたので(後漢の乾祐(けんゆう)元(948年)年)、趙匡胤は郭威の軍に応募し本営に配属となった。


 やがて後周(こうしゅう)広順(こうじゅん)元(951)年、趙匡胤は東西班行首(とうざいはんこうしゅ)補任(ぶにん)され、滑州(かつしゅう)副指揮(ふくしき)に任命された。


 さらに広順3(953)年、柴栄(さいえい)開封尹(かいほういん)に任命されると、(趙匡胤は)開封府(かいほうふ)馬直軍使(ばちょくぐんし)に転任した。


訳者注


補任(ぶにん)される


官職を与えられること


開封尹(かいほういん)


五代(ごだい)後唐(こうとう)を除く)と北宋(ほくそう)の首都である開封府(かいほうふ)の最高長官。


※五代


907年に(とう)が滅亡してから北宋(ほくそう)(おこ)る960年までの間に華北(かほく)で興亡した後梁(こうりょう)後唐(こうとう)後晋(こうしん)後漢(こうかん)後周(こうしゅう)の5つの王朝のこと。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ