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太祖本紀 三
後漢の初年、趙匡胤は仕官のために各地を巡り歩いたが、彼を厚遇してくれる所は無く、襄陽の寺院に宿泊させてもらうと、そこには老僧がおり占いを得意としていたので、振り返って趙匡胤に言った。
「我は汝に十分な旅費を与えるゆえ、それを使って北に行けば出会いがある」と。
そして北に行くとちょうど郭威が後漢の枢密使の地位によって、反乱を起こした河中の李守貞(原文では李守真)を討伐していたので(後漢の乾祐元(948年)年)、趙匡胤は郭威の軍に応募し本営に配属となった。
やがて後周の広順元(951)年、趙匡胤は東西班行首に補任され、滑州副指揮に任命された。
さらに広順3(953)年、柴栄が開封尹に任命されると、(趙匡胤は)開封府馬直軍使に転任した。
訳者注
※補任される
官職を与えられること
※開封尹
五代(後唐を除く)と北宋の首都である開封府の最高長官。
※五代
907年に唐が滅亡してから北宋が興る960年までの間に華北で興亡した後梁、後唐、後晋、後漢、後周の5つの王朝のこと。