太祖本紀 一
(北)宋の太祖の諡は啟運立極英武睿文神徳聖功至明大孝皇帝、諱(名)は匡胤、姓は趙氏で、涿郡の人である。
太祖(趙匡胤)は高祖父(曽祖父の父)の趙朓に僖祖と廟号を追贈し、趙朓は唐に仕えて(幽州の)永清、(莫州の)文安、(幽州の)幽都の県令を歴任した。
そして趙朓は曽祖父の趙珽を生み、太祖は趙珽に順祖と廟号を追贈し、趙珽は藩鎮(節度使)のもとで仕事に携わることを経て、昇進を重ね兼御史中丞となった。
そして趙珽は祖父の趙敬を生み、太祖は趙敬に翼祖と廟号を追贈し、趙敬は営、薊、涿三州の刺史を歴任した。
そして趙敬は父の趙弘殷を生み、太祖は趙弘殷に宣祖と廟号を追贈した。
後周の顕徳年間に趙弘殷(宣祖)の地位が高くなると、趙敬に左驍騎衛上将軍が追贈された。
趙弘殷は(宣祖)は若くして驍勇(勇ましく強いこと)であり、乗馬して矢を射ることが上手く、趙王・王鎔に仕え、王鎔のために五百騎を率い黄河の沿岸で後唐の莊宗(李存勗)を援護して戦功が有った。
それがきっかけとなって李存勗は彼の勇敢さを愛し,都の洛陽に留めて禁軍(近衛軍)を取り仕切らせた。
そして後漢の乾祐年間(948年 - 950)に、王景を鳳翔で討伐するのに趙弘殷が従軍した時、ちょうど後蜀兵が王景の援護に現れたため、後漢軍と後蜀軍は陳倉で戦った。
しかもなんと最初の激突で趙弘殷は矢で左目を射られたのだが、それで彼の気力は衰えるどころかより一層盛んになり、奮戦して後蜀軍を大敗させ、その功により護聖都指揮使に昇進した。
加えて後周の広順年間の末に、改めて鉄騎第一軍都指揮使に任じられ、さらに右廂都指揮に転任し、領岳州防御使となった。
その後趙弘殷は従軍して淮南に遠征し、南唐軍との戦いで前軍が後退すると、呉人(南唐兵)がそれに乗じて前進して来たので、趙弘殷は途中で待ち受けて攻撃し南唐軍を破った。
そして後周の顕德3(956)年趙弘殷は軍を率いて揚州を平定し、後周の世宗(柴栄)と寿春で合流した。
ところがなんと寿春の餅屋が出した餅が薄くて小さかったので世宗は激怒し、十人余りの餅屋の人間を捕らえて誅殺しようとしたため、趙弘殷が断固たる姿勢で世宗を諫めたことで彼らを釈放することが出来た。
その後趙弘殷は昇進を重ねて検校司徒となり、天水県男に封じられ、息子の趙匡胤と手分けをして禁軍をとりしきり、その当時彼は栄光と名誉に包まれた。
やがて彼は死去し、朝廷から武清軍節度使、太尉を追贈された。
訳者注
※諡
皇帝や高官などの死後に生前の事績への評価に基づき贈る名のこと。文帝、明帝、武帝など。
※廟号
中国で皇帝が死亡した後に先祖を祭るための廟に載せるための称号のこと。高祖、太祖、太宗など。
※追贈
一定の功績が認められた者の死後に称号や官位などを贈ること。
藩鎮・節度使
中国、唐・五代の軍職。初めは辺境警備のための軍団の統率者であったが、唐の中期以降は国内の要地にも置かれ、諸州を管轄して軍政・民政・財政を任され、強力な権限をもつようになった。
※刺史
古代中国の官職名。漢代は郡国の監察官。後に州の長官となった。
※淮南
淮河以南、長江以北の地域。