お仕事開始です
「ちょっと顔が浮腫んでいる気もするけど……
大丈夫、大丈夫!いつも通り!」
明け方、
ヴィンセント殿下の寝室から逃げたわたしは、
王宮に振り当てられた自室にて
姿見の前で自分に暗示をかけていた。
昨夜起こった出来事が信じられなさ過ぎて
夢だったのではないかと思うけど、
胸元に刻まれた赤い痕がそうではないと
現実を突きつけてくる。
服に隠れる場所で良かった……。
もうね、これはアレよ、
決してキスマークなんかじゃないのよ。
これはアレ、
ただの発疹。虫刺され。
だからそう、大丈夫。問題ない。
今日もしヴィンセント殿下に会ったとしても、
何事もなかったように振る舞える。
振る舞わなくてはダメ。
殿下のために……。
「……………よしっ!」
わたしは気を取り直して
王妃さまがわたしのために用意して下さった
お仕着せに着替える。
侍女でもない、女官でもない、
王妃様ご指名のお側係……それがわたしの
仕事らしい。
なのでお仕着せも少し仕様が違うようだ。
お仕着せと言っても普通のワンピースドレスと
あまり変わらないような気がする。
色が濃紺で素材はベルベット。
白いレース仕立ての襟にパールの飾りボタンが
付いている。
ワンピースドレスと共布の細めのベルトで
ウエストを引き締め、その下のフワリと広がる
スカートラインをより華やかな印象をもたせている。
スカート丈は近頃流行りのふくらはぎ丈で、
とても軽やかに動けそうだ。
昨今ではもうくるぶしまで覆い隠す長めの
スカート丈は未婚の若い女性たちには
敬遠されている。
そのお仕着せに身を包み、
髪は緩く編み込みシニヨンにした。
よし、完璧。
いざ!王妃様の自室へ。
今日からお仕事です。
わたしは何故か王妃さまの自室のすぐ隣に
部屋を与えられた。
この方が何かあっても直ぐわかるし、
そうそう手荒な真似も出来まい……と
王妃様が仰っていたけどどういう事かしら?
まぁでもおかげで通勤1分の距離だ。
楽ちん楽ちん♪
わたしは王妃様の自室の扉をノックした。
すると長年王妃様専属の筆頭侍女を
務められているエラさんが扉を開けてくれた。
エラさんは40代後半くらいの痩身で長身の
女性だ。
凛としていて、でもどこか温かみを感じる、
そんな素敵な人なのだ。
「おはようございます。ハグリット様」
エラさんと挨拶を交わす。
「おはようございますエラさん。
今日からは同僚です、いえエラさんは職場の
大先輩になられるのですから、敬称は不用に願います」
わたしがそう言うとエラさんは
にっこりと笑って、
「そういうわけにはまいりませんから」
と仰った。なぜ?
わたしは入室を促され、王妃さまの元へと行く。
王妃様は丁度身支度を整え終えられたばかりの
ようだった。
ソファーに座り、手鏡でお化粧のチェックを
されている。
王妃様は多分40代にはいったばかり?
くらいだろう。
でもとてもそうは見えない若々しさだ。
プラチナブロンドの輝く髪に瑠璃色の瞳。
かつて傾国の美女と謳われたご容姿は
四人の王子をお産みになられても健在だった。
性格は王妃としての気品や威厳を持ちつつも
大らかにして大胆。
情に篤く優しさに満ち溢れたお方だ。
母の無二の親友でいらしたとかで、
早くして母を亡くしたわたしの事を
実の娘のように可愛がって下さる。
わたしも僭越ながら本当の母のように慕っていて、
出来る事ならば“義理”が付いても
本当の親子になりたかった……。
もう婚約者候補でもなんでもないので
それは叶わぬ夢だけれども。
でも今までの恩返しも兼ねて、
お側にいる限りは誠心誠意お仕えしようと
心に決めている。
「王妃様、おはようございます。
今日からどうぞよろしくお願いいたします」
わたしがカーテシーをして挨拶をすると
王妃様は相好を崩された。
「おはようハグ、まぁ!なんて愛らしいの!
やっぱりそのワンピースドレスにして正解だったわ!よく見せて頂戴」
そう言って王妃様はわたしを近くに呼び寄せた。
「よく似合ってるわ、やっぱり女の子はいいわね。
男なんてムサくなる一方でつまらないもの。
ねぇ、ちょっとくるっと回ってみせて?」
わたしは王妃様のお望みのままに
くるりと一回転してみせた。
「いいわいいわ!とっても可愛い……アラ?」
王妃様は何かに気付いたらしく、
一瞬眉根を寄せられた。
「どうかなさいましたか?」
わたしが尋ねると、
王妃様は再びにっこりと微笑まれた。
「……いいえ、なんでもないのよ」
「?」
王妃様はご公務がない時は
比較的ゆっくりと朝をすごされる。
午前中は読書をされたり刺繍をされたり。
わたしはお茶を淹れて差し上げたり、
刺繍道具の用意をして差し上げたり。
そしてお喋りのお相手をしたり
ランチにお付き合いしたりと、
とても忙しく……なんてないわよね。
え?なにこの楽さは?
いくら侍女や女官とは違うといってもこれは
ユル過ぎではないかしら?
こんなのでお給金を頂いてもいいの?
心配になってエラさんに尋ねたら、
「ハグリット様は王妃様のお側にいるだけで
良いのです。それだけで王妃様はお心が癒されて
おいでなのですから。誰にでも出来る仕事では
ございませんよ」
と仰った。
それはつまり、わたしの業務内容は
“王妃様のそばで癒しを提供するだけの
簡単なお仕事”
という事かしら?
そんな簡単な仕事でいいのかしら?
まぁお恥ずかしながら労働なんてした事がないので、
これから侍女さん達の仕事ぶりを
拝見して様々な事を覚えていくつもりだ。
ゆくゆくはここを出て
どこか別の所で働くのだから、
その為の勉強期間だと思わせて貰おう。
最初だから楽なのは助かるなと思っていたら、
王妃様から午後の予定を知らされた。
「午後からはオディール嬢とリュシル嬢がわたしに
面会を求めて来ているのよ。早速胸くそ案件で悪いのだけれども、ハグが嫌なら自室に戻っていてもいいですからね?」
王妃様ったら胸くそ案件だなんて。
相変わらず面白い方だわ。
でも確かにそうなのよね、
オディール様もリュシル様も
今日からわたしが側付きになったのをご存知で、
わざわざ見物に来られるのだろう。
借金まみれで婚約者候補から転落した女を
嘲りに来るわけね。
まぁ別にいいんだけども。事実だから。
わたしは王妃様に申し上げた。
「お気遣いありがとうございます。
胸くそ案件、楽しみです」
わたしがそう言うと
王妃様は花のかんばせを綻ばせながら、
「まぁ、うふふさすがはハグね」
と仰った。
午後になり、
早速オディール様とリュシル様が来られた。
迎え撃つは王妃様の自室ではなく庭園のガゼボ。
今は丁度薔薇が見頃でそれはそれは見事なのだ。
お二人は王妃様に挨拶される。
「王妃様、本日は急なお願いであったにも関わらず
面会をお許しくださり誠にありがとうございます」
と言われたのはオディール様だ。
オディール様は豪奢なイエローブロンドに深紅の瞳を持つ、いかにも高位令嬢然とした方だ。
“ローラントの薔薇”と謳われる絶世の美女である。
気位が高く、自分以外の女はみんなクズ、
と平気で思われているところがある意味天晴れと
言わせていただこう。
一方、
「王妃様ぁ。お久しぶりでございますぅ。
王妃様にお会い出来てリュシル、本当に嬉しいですわ」
と貴族令嬢でありながら、何故か自分を名前で
呼称されるのがリュシル様だ。
ピンクブロンドのふわふわな髪に紫水晶の瞳。
可憐な小花を連想させる小柄で愛らしいお顔をされた方だ。
でも本性はガッツリガツガツ系の女である事は
ここにいる全員が知っている。
でも男性にはそうは見えないらしく
庇護欲を掻き立てられ守らずにはいられない!
のだそうだ。
……ヴィンセント殿下もそうなのかしら。
「二人とも本当に久しいですね。
普段は私を怖がって寄り付きもしないのにどういう風の吹き回しかしら」
王妃様がこう仰ると
オディール様が極上の笑顔で返された。
「そんな怖がるだなんて滅相もないですわ。
ご公務でお忙しい王妃様のお邪魔にならないよう、
控えているだけですわ」
「ほほほ、まぁいいわ。座って頂戴」
王妃様に促されてオディール様もリュシル様も
着座された。
そしてここぞとばかりにわたしに視線を向けた。
「まぁぁ!今日から王宮で働き出したと聞いておりましたが、本当でございましたのね。お可哀想なハグリット様。さぞお辛い思いをされているのでしょうね」
とはオディール様が、
「わぁぁ~ハグリット様ってば地味くさいお仕着せがよく似合ってらっしゃいますぅ」
とはリュシル様が言った。
わたしは
極上のアルカイックスマイルを貼り付けて
「おそれいります」とだけ返事しておいた。
そんなわたしにオディール様が言う。
「まぁ貴族というより庶民の暮らしの方が馴染み深かったハグリット様ですもの、そんなに環境が激変されたという事はないのでしょうね。あ、お茶を淹れて下さる?」
わたしはこめかみがピキリとなるの感じながらも
笑顔を崩さず、
お茶の支度に取り掛かろうとした。
それを王妃様が制す。
「ハグリットは侍女ではありません。
私がカロル伯からお預かりした大切な客人です。本来なら“行儀見習い”扱いになるのでしょうが、ハグリットは行儀どころか礼儀作法はもう完璧にマスターしていますからね、それならばもう私の話し相手になって貰おうと思って側に置いているのよ。
それを貴女が勝手に侍女として扱う事は不愉快です」
王妃様の「不愉快」という言葉に
オディール様は慌てた。
「も、申し訳ございません、わたくし決して王妃様を蔑ろにしてハグリット様を使おうと思ったわけではございません」
そんなオディール様の様子は無視するように
エラさんたち侍女連の方々がテキパキと
お茶の支度を整えておられる。
皆さん、さすがに動きに無駄がないわ。
その働きぶりを一挙一動見逃すまいと
見つめるわたしに王妃様が仰った。
「さぁ、ハグも座って頂戴。もちろん私の隣ね」
そう言って王妃様はご自身の隣にある椅子を
ポンポンと叩かれる。
いやですわオディール様、
そんなに睨まないでくださいまし。
わたし、穴が空きそうですわ。
わたしが王妃様の横に座ろうとしたその時、
今日はなるべく
いや明日も明後日も
出来ることなら金輪際会いたくない人の
声が聞こえた。
「これはこれは華やかな声がすると思ったら、
こちらでお茶会をされていましたか」
「あら」
王妃様が声の主を一瞥する。
「まぁ!殿下っ!!」
「キャーッ!ヴィンセント殿下~~!」
オディール様とリュシル様の声が
1オクターブ上がった。
あぁ……
なんでここに現れるのかなぁ……。
出来れば熱が冷めるまで
会いたくなかったのにぃ……。
わたし達がお茶するガゼボに、
王妃様の息子にして彼女たちの意中の人、
ヴィンセント殿下が姿を現した。