与えられる者
「あらご機嫌よう、ハグリット様。
昨日は大変でしたわね、お加減はその後いかがかしら?」
ヴィンス様の執務室に行く途中で、
偶然にも文官たちの噂話を聞いてしまい、
どういう事かと立ち止まって思案しているところに
ふいに声をかけられた。
「パトリシア様……」
隣でメレ姉さんが
小さく「ちっ」と舌打ちしたのが聞こえたが、
今はそれどころではない。
わたしがたった今立ち聞きしてしまった、
「近年、急速に力を伸ばしている各派閥に抵抗するために、王家は傍流であり、国内でも最も力を持つヤスミン公爵家と手を携えてゆく事になるだろう。そのために王太子妃に続き、妹君のパトリシア嬢が第二王子の妃になるだろう」
という話の当事者、
ヤスミン公爵令嬢パトリシア様に
声をかけられたのだから。
なんというタイミングなのかしら。
それでもわたしは内心狼狽える自分を
隅に追いやって、笑顔で挨拶を返した。
「ご機嫌ようパトリシア様。
おかげさまですっかり良くなりましたわ、
ご心配をおかけして申し訳ありません」
わたしがそう告げると
パトリシア様は微笑みを浮かべながら
鈴が転がるような愛らしい声で言った。
「まぁ、それはようございました。
貴女が気を失われた直後、ヴィンセント様がそれはそれは心配されて、自ら抱き抱えて運ばれましたのよ」
「そ、そうですか……」
そしてそのまま第二王子宮に
向かったというわけね。
「……私は幼い頃から貴女が羨ましくて堪りませんでしたわ」
呟くように吐かれたパトリシア様の言葉に
わたしは思わず驚いてしまった。
「……え?」
わたしなんかのどこに
筆頭公爵家の娘が羨む要素があるというのだろう。
「私がヴィンセント様に初めてお会いしたのは
10歳の時でした。その時にはもう既にヴィンセント様には貴女という婚約者候補がおられて、本当に大切にされているのを幼いながらも理解してしまいました。私は一目惚れして早々に失恋してしまいましたのよ」
「そ、そうなんですか……」
「その後わたしは難病を患い、屋敷から出られない年月を過ごしました。一度は生死を彷徨った事もあります。運良く新薬が開発されて快癒いたしましたが」
無邪気に過ごせる子ども時代をベッドの中で
過ごさなければならなかったのは、
わたしなんかが推し量れない辛さがあっただろうな……。
「だから私、健康な体を取り戻した時に決意した事がありますの。人生はいつ何が起こるかわからない。それならどんな時も後悔しない生き方をしようと」
「ご立派です」
同じ16歳でもダニエル殿下とは全然違うな。
「ありがとうございます。
ですので私、初恋を諦めない事に致しましたの」
「え?」
「……ハグリット様、貴女は今、ヴィンセント様を含む王家の方々のお立場がどのようなものかご存知でしょうか?」
「立場……、申し訳ありません。わたしは
おそらく理解していないと思います……」
その時、メレ姉さんが突然、
「あ!あそこに空飛ぶカタツムリが!」
と大きな声を出して窓の外を指差した。
「「え!?」」
わたしもパトリシア様も思わず窓の外を見てしまう。
だって空飛ぶカタツムリなんて!
でも次の瞬間、
わたしはメレ姉さんに引っ張られたと思うや否や、
転移させられていた。
はっ、と気がつけばそこはヴィンス様の自室の
ソファーの上だった。
「え?何故?」
何故いきなり転移んだの?
わたしは何気ない顔で側に立つ
メレ姉さんに問うた。
「小娘の世迷言など、ハグリット様が聞く必要は
ございません」
「……世迷言だなんて。
ヴィンス様に関わる事なら、わたしは聞く必要があると思うわ。メレ姉さんは何か知ってるんでしょう?」
「えー……一文の得にもならないのに~」
「メレ姉さん」
「もー……ハグリット様も物好きですねぇ」
と、渋々ながらもメレ姉さんは
今の王家を取り巻く現状とやらを教えてくれた。
話の内容を聞くにあたって
どうやら王家の権威が地に落ちたとか、
力を削がれたとか、
王族に問題がある云々ではないようだ。
要するに、門閥貴族の数家がなんらかの要因で
ここ数年、巨万の富を得ているという。
その財力にモノを言わせ王家への進言、提言と称して口出しをしてきて影響力を増しているというのだ。
その数家を牽制するためにその家と、
それに相対する派閥からも側妃や婚約者候補を立て、バランスを測ってきたのだとか。
それが最近、
リュシル様のご実家が与する派閥の力が圧倒的に抜きん出て、今や国内最大派閥に成長しているという。それにより、今まで均衡を保っていた派閥同士のパワーバランスが崩れて来ているのだそうだ。
そういえば先日王女をお産みになった
王太子殿下の側妃であるアン様もリュシル様の
ご実家と同じ派閥だったわね。
それに王家が対抗するには
ヤスミン公爵家を筆頭とする一派と手を携える必要があるのではないかと真しやかに囁かれているというのだ。
その噂が流れ始めたのは
やはりパトリシア様が第二王子の婚約者候補に
名を連ねたからだとか。
わたしはメレ姉さんに尋ねた。
「……このまま、力を増した派閥をのさばらせておくとどうなるの?」
「国政や外交はもちろん、婚姻やお世継ぎ問題など様々な過干渉が起こるでしょうね……」
「そ、そんな……」
「でもそんなの、ヤスミンの派閥と組んだって一緒ですよ」
そんなメレ姉さんの言葉は
もうわたしには届いていなかった。
どうしよう、
直接ヴィンス様に色々と聞いてみるべき?
でもそんな時に限ってヴィンス様の帰りは
遅かった。
日付が変わろうする頃、
ようやくヴィンス様が戻って来た。
「……おかえりなさい」
「ただいま、ハグ。
あぁ……いいな、ハグにおかえりって言って
貰えるのは」
そう言ってヴィンス様はわたしを抱きしめた。
なんだか酷く疲れているみたい。
聞きたい事は沢山あるのに
いざヴィンス様を目の前にすると怖くて聞けない。
パトリシア様との事がもう決まりつつあって、
わたしにどう告げようか迷っているのではないか
とか変に勘繰ってしまう。
今それ聞いたら
わたしは絶対に冷静ではいられない。
こんなに疲れているヴィンス様を労わるどころか
責め立ててしまいそう。
そんな事になるくらいなら、
あの夜をなかった事にしようと告げた時点で
終わりにして欲しかった。
違う……
差し出された手に縋ったのはわたし自身だ。
ヴィンス様だけが悪いわけじゃない。
わたしがなんの力も持たないのが悪いんだ。
我が家が有力な一派に与する家なら、
もう少しヴィンス様もやり易かっただろう。
わたしは考えた。
いつもわたしが思っていた事。
ヴィンス様のためにわたしが出来る事とはなんだろう。
何かあるはずだ、と。
……そうね、確かにあるわね。
わたしはそれを確認するために、
メレ姉さんには内緒で(また転移させられたら困る)
丁度王太子宮を訪れているというパトリシア様に
会いに行った。
わたしの訪いを知ると、
パトリシア様は快く受け入れてくれた。
先日のメレ姉さんの空飛ぶカタツムリの件を
謝罪してから、わたしはその時の話の続きが
したいと願い出た。
パトリシア様はわたしが必ず訪ねてくると確信していたようだ。
「だってヴィンセント様を何よりも大切に想われているハグリット様の事ですもの。このままヴィンセント様の窮地を無視されるはずがないと思っておりましたわ」
「もうこの際直球でお尋ねします。
パトリシア様と婚姻を結ばれる事で、ヴィンセント殿下をはじめとする王家の方々は国内の有力諸侯たちを押さえつける事が出来るのですね?」
「ええ、間違いなく。
我がヤスミン家一門は王家に忠誠を誓う事でしょう」
「均衡が保たれる事により、内戦が起きたり、王家の方々が害される危険は無くなるのですね?」
「はい。そんな事、我が父が絶対に許しません」
「……そうですか……
それを聞いて心が決まりました」
わたしのその言葉だけで、
パトリシア様は全てを察したようだった。
「……ハグリット様、私は貴女を追い払おうと思っているわけではないのですよ。王族の男子に正妃と側妃は必要なもの。共にヴィンセント様をお支えしてゆこうではありませんか」
パトリシア様の目を見ると、
それが嘘偽りない気持ちだとわかる。
この方は悪意なく、
純粋にヴィンス様を慕っているのだ。
そしてその想いを遂げるためにひたむきになっておられるだけなのだ。
わたしが邪魔だとか、
蹴落としたいとか、本心から思われていないのがよくわかる。
本気でわたしを側妃として受け入れて、
ヴィンス様と共に生きてゆきたいと思われているのだろう。
でも、わたしは所詮、宮廷貴族の娘。
高貴なる方たちの価値観とは違うのだ。
わたしは穏やかに微笑むように心がけた。
「わたしは、幼い頃から両親のように唯一無二の夫婦の形に憧れておりましたので」
「……そう。残念ですわ。
共にヴィンセント様をお慕いする同志だと思っておりますのに」
「きっと、リュシル様が側妃に上がられる事になると思いますので、あの方と仲良くして差し上げてください」
「リュシル様はヴィンセント様から
“受け取る”事しか考えておられませんわ。
でも私とハグリット様は違う」
「どう違うんですか?」
「ヴィンセント様に“与える”事を第一に考えていますもの。私は嫁ぐ事によってヴィンセント様に揺るぐ事のない盤石なお立場を。逆にハグリット様は身を引かれる事でヴィンセント様に安寧を与えて差し上げられる、という事ですわ」
「……なるほど」
本当にそういう事なんだろう。
OK理解した。
わたしは深々とパトリシア様に頭を下げた。
パトリシア様との面会を終えて王太子宮を出ようとしたところで、
なんとジェイデン殿下の側妃のお二人、
ドゥラ様とトロワ様に捕獲された。
お話好きのお二人、
わたしの口から直接パトリシア様が第二王子妃に
なるのかどうかを確かめたかったようだ。
わたしが
まだ何もわかりません~
まだ何も決まってません~
とか言ってのらりくらりとはぐらかしたので、
お二人は早々に飽きられたのか
王太子妃オデット様とアン様の悪口大会に移行した。
二人ともジェイデン殿下のお子を産んでいるので
態度がデカいとか、
アン妃が生んだ王女が美形過ぎてムカつくとか、
アン妃はこの頃実家から何やら珍しい
異国の品が送られてくるとか、
羨ましいやら妬ましいやら、
あれは御禁制の品なんじゃないかとか、
リュシル様の家に、今巷を賑わす
怪盗レッドが現れて珍しい品をアレコレ盗まれたらしいとか、
オデット様もアン様も
気量よしってわけでもないのにジェイデン殿下が
えこ贔屓するとか、
わたし相手なら何を言ってもいいと思われているのか、とにかくもう悪口三昧だった。
たっぷり2時間は捕まっていたと思う。
ようやく解放された時にはもうヘロヘロで
なんだか胸がムカムカしている。
今日はもう早く休もう。
と思って第二王子宮に戻ると、
メレ姉さんが仁王立ちで待っていた……。
「おかえりなさいませ、ハグリット様。
王太子宮で楽し~~いひと時を過ごされたようで
何よりですね~~」
と笑っているのに目が笑っていないという
なんとも器用なスマイルを披露してくれた。
一人で王太子宮に行った事は把握済みなようだ。
「ご、ごめんなさい……」
もうわたしは、
本当に身も心もクタクタになってしまって、
その日はヴィンス様の帰りを待つ事もなく
眠ってしまった。