リリストアーチェは微笑むだけ
貴族の子女が通う王立セントニーリス学園、通称"セントニーリス"に入学出来るのは貴族の中でも伯爵家以上の子女に限られる。だから民間人の特待生制度など無いし、男爵家や子爵家の子が高位貴族と縁を結ぼうなどと夢見ることは許されない。低位の貴族子女が通う学園は別にあり、そこでは特待生制度がある。平民が玉の輿に乗れるのはそちらだけだ。
セントニーリスでは学園内で身分を笠に着る事は禁止されている。尤も身分を弁えない者が入学することは高位貴族の子女故に無かった。学園で過ごせるのは3年だけ。卒業してからの方が人生は長い。卒業し貴族社会にでた時、学園在学時の無礼で身を滅ぼすのは愚か者だろう。だから普通は学園内の無礼講を真に受ける者はいないし、そんな事にならないようきっちり教育を受けた者しか入学しなかった。少なくとも今まではそうだった。
「リリストアーチェ!」
大きな声がホール内に響く。卒業生を祝うパーティーの真っ最中の事だった。呼び捨てられたリリストアーチェは公爵家の令嬢だ。父であるレズルウェレン公爵はこの国の宰相を務め、国内最大勢力の派閥を率いる。しかも現在セントニーリスに在籍する者中でリリストアーチェは2番めに身分が高い。彼女の上に同じ学年の王太子ゼキベルトンがいるのみ。リリストアーチェを呼び捨てたのが王太子であるならば問題はないが、それをしたのは伯爵家令息だった。
リリストアーチェは優雅に呼ばれた方に振り向いた。声の主に心当たりは無い。顔を見て名前は判ったが何故呼び捨てで呼ばれたのかは理解らなかった。今年卒業するその伯爵令息とは接点が無かったからだ。
「何か御用でしょうか? レドグリン様」
そういいながら微笑みを浮かべる。敬称を付けない無礼を咎める訳でもなく自然体だ。楽隊が演奏も止まり、先程まで賑やかだった会場は静まり返えった。この場にいる皆が2人に注目した。
「貴様が我が妹ルイエにした事覚えているか!」
「ピンプルイエ様にわたくしが?」
「とぼけるな!」
顔を真赤にしてレドグリンが怒鳴る。短く切りそろえた緑の髪が逆立つのではないかとリリストアーチェは思った。
「そう仰られても判りませんわ。何のことかしら?」
「貴様は取り巻きに命じて妹に散々嫌がらせをしてきた。知らぬとは言わせん」
「何故、わたくしだと?」
「ふん、貴様は妹に嫉妬したからだろう。王太子殿下の婚約者に選ばれた妹にな。いいかいつまでも威張れると思うなよ。今後はこちらの方が上だということ思い知るがいい」
その言い分にリリストアーチェは呆れた。先ずリリストアーチェには取り巻きなど居ない。今学園に公爵の子女はリリストアーチェ唯一人だった。みな不敬を恐れ近寄るものは居なかったし、それは学園に在籍している皆が知っていることだ。
更に云えば、学年が下のピンプルイエとの接点も無かった。今年の夏頃、ピンプルイエが王太子の婚約者になったのには驚きはしたがそれだけだ。彼女が以降他の令嬢の嫉妬の対象になったのは知っているが彼女を守るべきは王太子であって自分ではないと考えたリリストアーチェは放置した。周囲を諌められるとも思わなかった。
それはそれとして、ピンプルイエが王太子妃になったからといってレドグリンの家の力が増すわけでも爵位が上がるわけでは無い。ピンプルイエが他家を抑えて婚約者になれたのは単に王家の意向によるもの。伯爵家の権力ではない。この国は絶対王政を敷き、それに逆らえる家はない。それはレズルウェレン公爵家も同じことだ。
正式にピンプルイエが王太子妃になっても伯爵家が権勢を謳歌できるとはリリストアーチェは思わない。王家はそれを嫌うからだ。王太子妃に選ばれたのは名誉だろうがそれだけ。それは今までの歴史が証明していた。なのにレドグリンのこの自信は何なのだろうか。
「何と仰られてもわたくしの預かり知らぬ事です。よかったですわね今日はまだ学園生ですもの」
そう言って口元を扇子で隠すでもなくリリストアーチェは笑みを強めた。そう、今日はまだ無礼講で済む。その笑みにレドグリンは苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべたが、「ふん!」と言い残して踵を返した。
何がしたかったのかしら?まさか本気を断罪を?
リリストアーチェはそう考えながら冷ややかにレドグリンを見送った。
「皆様、ご迷惑をおかけしましたわ。引き続きパーティーを楽しんで下さりませ」
リリストアーチェが優雅に淑女の礼をすると、皆は何事も無かったかの様にまた雑談を開始し、楽隊も演奏を再開した。
その後リリストアーチェに話しかけて来る者もなく、またダンスに誘ってくる者もいない。爵位に釣り合う者がいれば状況は変わったかもしれないが、現在王国にある公爵家6家の公爵家令息達は皆既に卒業済だったし既に婚約者もいる。侯爵家の令息も似たようなものだ。例外で来年入学予定の者がいるが、今は誰もいない。高位貴族の令息誕生が集中してした謎の黄金期があり、第一王子はその期に乗り遅れて誕生した。ついでに云えば第二王子はまだ8歳だ。また王家に姫は誕生しなかった。
リリストアーチェにも兄がいるが昨年卒業していた。
学園生しか参加できない卒業パーティー故リリストアーチェは壁の華にならざるを得なかったのである。
王太子の在籍している時代にも関わらず、学園には小粒しかおらず悲運の時代と言われている世代でリリストアーチェは生を受けた。王太子の方が若干早く誕生した為、公爵はリリストアーチェに婚約者を選ぶことをしなかった。この時代に生まれた令嬢は婚約者を選ばなかった家が多いが選ばれなかった家は目論見が裏目に出たことになる。リリストアーチェもその一人だった。
不愉快な思いもしたし、そもそもいて楽しい訳でもないのでリリストアーチェは帰ることにした。
結局入場時の挨拶以外でリリストアーチェに話しかけたのはレドグリンだけだった。
馬車の中でふと、リリストアーチェは王太子が居なかった事を思い出す。いや開始時にはいたのだが何時の間にか姿を消していた。ピンプルイエと二人の世界に浸るなんて恋するお方では無いのは知っている。何事か起きたのかもしれない。そういえばピンプルイエは会場に残っていた様な気もする。でもしかしリリストアーチェにはどうでもいいことだった。
屋敷に着いた時、出迎えたのは老齢の執事長のデルフォンだった。これはレズルウェレン公爵がリリストアーチェを待っている事を示している。忙しいレズルウェレン公爵がリリストアーチェに直接話すことは滅多に無い。だからその滅多な事が起こったと彼女は考えた。
「掛けなさい」
レズルウェレン公爵の執務室に入るなり掛けれた言葉がこれだった。宰相でもある公爵は屋敷に居ても夜遅くまで執務をするのが常だった。そもそも屋敷にいることが珍しく殆どを王城で過ごしている。領地の方は嫡男であるリリストアーチェの兄に昨年より任せ始めた為それでも以前ほどは忙しく無くなったと本人はいっているがそれでも仕事中毒というものだろう。
「はい、閣下」
リリストアーチェは「お父様」と呼ぶべきか一瞬迷ったが執務室に呼ばれた為、政治がらみの話と考えて宰相閣下に対する礼を取ったのである。公爵はリリストアーチェには一切構わずに執務を続け、視線をようやく上げたのは娘の入室より30分経った時だった。その間リリストアーチェは黙ってじっと待ち続けた。人払いがされて居るためか、執事も誰も控えておらずお茶一つ出なかった。
「待たせたな」
「わたくしへの気遣いは無用にお願いします」
「そうか」
大凡親子の間の会話とはいい難いがこの2人の間では当たり前の距離感である。娘が生まれるまえから宰相だった公爵は娘の教育に最高級の人材を揃えたが、あくまで人任せでほとんど接してこなかったし、娘も父親の愛情を感じること無く育った。公爵令嬢として相応しく在るよう求められ、それに応じてきただけだった。だから理性で父親の責任の重さを理解できても親子の情を感じる感性は育たなかった娘はせめて不自由無くとお金を掛けた父親の隠れた愛情に気付かない。娘はこの国の宰相への礼で穏やかな笑みを浮かべている。しかしそこには感情は一切無い冷たい笑みが張り付いているだけだった。
「今日正式にお前が聖女に指名された」
黙って笑みを浮かべるだけの娘に対し、公爵は端的に要件を述べた。
「畏まりました。聖女のお役目、謹んでお受けいたします。家名に傷を付けぬ様、微力を尽くします」
「そうか、ならば下がりなさい」
「はい」
恭しく一礼して退室した娘をデスクから見送った公爵は扉が閉まった後、深くため息をついた。公爵は「嫌なら断っても良い」と言うつもりだったのだが即答で承諾され言えなかった。
「娘と話すのが、他国との交渉より難しいとはな」
ぽつりと呟く公爵。長い時間が作り上げた距離感の前には切れ者の公爵も成す術がなかったのである。
☆☆☆☆☆
「はぁ? あの女が聖女ですか!?」
卒業パーティーより数日後、レドグリンは父親である伯爵よりリリストアーチェの聖女内定の話を聞いて不快を顕にしていた。
「馬鹿者!公爵家のご令嬢に向かって何という口の聞き方だ。聞けば卒業パーティーの席でも無礼を働いたと言うではないか。貴様は爵位の意味を何と心得ておる、この家を潰すつもりか!」
「父上、ルイエは王太子の婚約者なんですよ?今更公爵家を何故恐れる必要があるんです?これからはこちらが上です」
伯爵はその言い分を聞いて呆れ、そして息子の教育の失敗をつきつけられた。
「まさか、ルイエが見初められたと思っているのではないだろうな?寵愛を受けているから今後は威張れると思うなら勘違いも甚だしい」
「何が勘違いだというのです?父上、婚約者の選定は王太子殿下の意向で選ばれたと聞いております」
「それだけを信じてあんな振る舞いをしたのか! では、儂の知る所を話してやろう。王家が王太子妃として本当に望んで居たのはリリストアーチェ様だった。しかし宰相閣下のご息女が王太子妃になられては公爵家に権力が集まり過ぎるとして、辞退されていた為に話が平行線になっておったのだ。王家との話が平行線となった為、ご息女に婚約者を決める事が出来ぬと、かつて閣下がもらしておったわ。だが今年の夏、教会がリリストアーチェ様を聖女にと王家に打診してきて事態が動いた、王家が泣く泣くリリストアーチェ様を諦めた結果、次に白羽の矢が立ったのが当家のピンプルイエというだけだ。それも王太子殿下が見初めたからではないぞ。単に他の令嬢よりは資質があると見込まれたに過ぎぬ。殿下は私情で王家の責務を忘れるお方では無いし、増して公平性を欠くお方でもない。貴様は殿下のみならず王家に対しても不敬を働いたのだぞ」
「そう言いますが父上、到底信じられません。ルイエはかの令嬢より嫌がらせを受けております。それが聖女に選ばれるなと。私はあくまで貴族としての正義感で動いたまでです」
「儂の言葉も信じられぬか。ならば嫌がらせの件、貴様はルイエより何と聞いておる」
「ルイエは誰かは解らないけど皇太子妃に決まった事を妬む者だろうと。ならば黒幕はリリストアーチェしかいません」
「貴様はまだ言うか!儂もルイエより相談を受けておる。そしてルイエ自身もそれは否定しておるわ。そもそもルイエに決まったのは宰相閣下の誓約もあったからだ。ルイエが王妃になった時に公爵家は変わらず王家に忠誠を誓うと誓約があっての上の決定だ。もっともルイエも高位貴族家の娘として承諾はしたが望んで王太子妃になる訳ではないがな。王家に嫁ぐのは並大抵の覚悟では務まらぬ。ルイエが漏らしておったわ。本来ならリリストアーチェ様以外に相応しいお方はいない。しかし聖女様になられるのなら致し方なし、お役目謹んで拝命すると。そう、役目だ。娘は正しく理解しておったわ。公爵家のご令嬢がそれらの事情を知らぬ訳ないだろうが!知っていたからこそルイエの為に貴様の無礼を咎めなかったのだ」
「は? そんははずは……それにルイエが望んでないなんて聞いてません」
「そんな不敬になる事をおいそれと言うはずも無いだろうが愚か者め。そもそも折角ルイエが事を荒立てずに澄まして対応していたのを勝手に大騒ぎしおって。貴様のお陰でルイエの苦労が水の泡だ。王家の決定に不服ありとして嫌がらせをした令嬢を罰する事になってしまった。ルイエが成人するまではまだ2年あるというに、ルイエはより恨まれて今後より苦労する事になるだろう。結局お前は妹の足を引っ張っただけだ。あと罰せられる者の中に勿論リリストアーチェ様の名は無い。いくら愚かな貴様でも王家の公平性を疑いはしまいな?」
「わ、わたしはただルイエの為と思って……」
伯爵は嫡男のあまりの残念さにため息をついた。言動と目的が合致していない。当初の言い分には間違いなく権威を笠に着る奢りがあった。学業は優秀だった。だがこの男は駄目だ。と伯爵は思った。しかし最後に確認の為の質問をすることにした。まともに答えられたら考え直さないでもないと。
「貴様は聖女様について何を知っている」
「聖女ですか?いわば民衆を騙す役目を担った女ですね。神聖な力を授かる資質がある者が選ばれると言われていますが眉唾物です。教会が権威付けで言ってるだけで」
「もう良い、聞くに耐えぬ。聖女様が負う責務も理解できておらぬとは。よいか聖女様は政治介入こそ出来ぬがこの国に置いてその発言力は王家より上だ。その今上聖女様の指名故、王家がリリストアーチェ様をお諦めになられたのだ」
伯爵がパチンと指を鳴らすと別室に控えていた伯爵の護衛が数人部屋に入ってくる。
「レドグリン、貴様は謹慎だ。領地の別邸より生涯出る事を許さぬ。我が家には幸いにもお前の他にも跡取り候補がいるからな」
「父上!」
「高位貴族の家に生まれてよもやここまで愚かに育つとは思わなんだわ。だが流石に当主の意に背くことはすまいな?」
「……」
「連れて行け」
ここで伯爵の意に反して護衛が裏切り、レドグリン側に付けば立場が逆転した。しかし、そうはならず順当にレドグリンは拘束されて連れ去られていった。歴史にifは無いと言うが、もし伯爵家がレドグリンの物になったなら待っていたのは伯爵家の滅亡である。絶対王政の権力が何故成り立つのか。それは王家の持つ軍事力と私情を一切挟まない冷たき公平さ故だった。その冷徹な公平さが国の指針である以上、王家の権威を笠に着るレドグリンは遅からず排除され、ピンプルイエも后の座から降ろされただろう。しかし歴史にifは無い。当代の伯爵が正しく貴族の責任を理解する者だった為、嫡男を庇うこと無く排除した。この決断により伯爵家は血族が王妃に選ばれる名誉を賜り、レズルウェレン公爵家の協力を得てより発展していくのだが、それはまた別の話である。
☆☆☆☆☆
「結局何がしたかったのかしら?」
リリストアーチェがそのレドグリンの顛末を聞いたのは大神殿に入り、当代聖女の元で次期聖女の見習いとして修行を始めてまもなくの頃だ。情報を届けたのはピンパルイエであり、兄の行為を正式に謝罪する為に神殿を訪れたのだった。
ピンパルイエに非がある訳では無い。遺恨も別に無い。それにピンパルイエを見て彼女の苦労を感じ取ったリリストアーチェは応援したいと素直に思った。だから謝罪は不要だったが微笑んで謝罪を受け入れる形でピンパルイエを安心させ、応援すると伝えた。その様子を見守っていた当代の聖女がピンパルイエに祝福を贈った。ピンパルイエは当代聖女と次代の聖女にに認められた王太子の婚約者として民の信頼を得ることとなった。
政治に不介入の聖女が王族やそれに近い者に祝福を与えることは稀だ。ただ稀ということは0ではない。聖女もまた神の前にはすべてが等しく子であるとして公平を信条とする。だからピンパルイエが祝福を受けるに値すると判断されたのだ。この祝福によってピンパルイエをやっかむ令嬢も怖れと尊敬を抱く様になり、短期間の后教育で大変忙しいものの穏やかな学園生活を送れる様になる。
ピンパルイエが感動しつつも恐縮しながら帰っていった後でリリストアーチェがポツリと呟いた。それが先の「結局何がしたかったのかしら?」である。もちろん幽閉されることになった哀れなレドグリンに向けての言葉である。折角無礼を不問にしたのに伯爵の逆鱗に触れてしまった様だ。今更リリストアーチェが出来ることはない。だから忘れることにした。
聖女見習いとなったリリストアーチェは勿論忙しい。ただこの生活はリリストアーチェには合っていると自身感じている。厳しくも優しい当代聖女の教えを受けて、そして貴族令嬢として仮面を着ける必要が無くなって、やがてリリストアーチェは心から微笑む事が出来るようになった。人々を愛おしいと思えるようになった。だからか彼女は穏やかになった。そしてそれ故かリリストアーチェの神聖力は日々高まり、修行開始して3年経った頃には当代聖女より強い祝福を贈れる様になるに至った。
その翌年リリストアーチェが聖女を引き継いだ。以後生涯リリストアーチェは結婚する事が許されない。聖女とはそう在るものだからだ。しかし彼女は喜びを持ってその任についた。神の元に聖女であることは大いなる喜びであること知ったリリストアーチェは人間との結婚になんの興味も示せなくなったのだ。
☆☆☆☆☆
聖女の任について10年。父である公爵が初めて神殿にやってきた。公爵は宰相の座から退き、公爵の爵位も息子に譲りようやく私人となったからだ。リリストアーチェは父の顔をみてようやく責任から開放されたのだと知った。父である前に宰相だった。その男がようやく穏やかな表情を自分に向けている。リリストアーチェもまた自然と父を慕う幼子が笑うかのように何の気負いもなく微笑む事が出来た。
以後もリリストアーチェは微笑みを絶やすこと無く聖女として30年務め、後任を育てその任を譲ると晩年は公爵家にの別邸にてひっそりと過ごした。
兄の子、孫達に見守られ旅立つ時でさえ微笑んでいたと伝わる。
レドグリンは幽閉中の伯爵家別邸でリリストアーチェの訃報を知り、狂喜した。大笑いし踊り狂い、そして心臓麻痺を起こし世を去った。伯爵家は狂人レドグリンを恥に思い、伯爵家と無縁の者として共同墓地に葬った。
終