ハピネスランドの天然牛
〈晩ご飯よ〉
泥沼に首まで浸かって敵の芋スナイパー野郎を捜していたら、母親からのメッセージがポップアップしてきた。おれはAIにバトンタッチしてMHDをはずす。
〈メシ落ち〉
とキータイプでチャット欄に打ち込んだ。
〈ってら〉
〈おつー〉
〈俺もメシにするか〉
〈オイいっぺんに抜けんな〉
〈わりい、なるたけ早く帰るわ〉
メンツに詫びを入れて、デスクからはなれ部屋のドアを開ける。香ばしい匂いが漂ってきた。腹がグゥと鳴る。熱せられたタンパク質の匂いというのは摂食中枢を刺激する。いまさっきまではゲームに夢中で空腹なんて気にならなかったのに。
階段を下りてダイニングへ入ると、もうおれ以外の家族はそろっていた。母親と父親、妹。
「今日は冷める前に素直に降りてきたな」
と父親がいって、皮肉げな目でこっちを見る。うざいな。勝手に先に食ってりゃいいのに。
「お肉の匂いがしたからじゃないの」
「おれがなんのために自力でドアの気密強化したと思ってんだ。MHDは匂いもわかるんだよ。ゲームしてる途中でメシの匂いが混ざったら気が散るじゃねえか」
無知な妹を小バカにして、おれは椅子に座る。
「さあさ、ご飯にしましょ。いただきます」
『いただきます』
母親の音頭に合わせて唱和し、食事がはじまった。まったく、在宅してる家族は全員そろってメシだなんて、何百年前の風習だろうか。
メニューはライスとサラダ、肉と野菜のソテーだった。焼かれた肉片はあきらかに刃物で切りそろえられている。わかっていたが失望を禁じえない。
「たまには合成肉が食いたいんだけど」
「贅沢いうんじゃありません。味は一緒」
おれの抗議を一蹴して、母親はバクバクと料理を平らげていく。たしかに、天然モノでも合成モノでも、タンパク質と脂質が肉の主成分であることは変わらない。食えば腹は満足する。肉類を食うと人間の脳は多幸感を得るようになっている。原始的な仕組みだ。
しかしおれは、切りそろえる必要のないあの画一的な形をした、合成肉が食いたくて仕方がない。あれこそ人類が進歩したことを証明するものだと思う。
以前にたまたま読んだ大昔のSF小説では、未来の人間(つまり現代のおれたち)は毎日合成肉しか食うものがなくて、たまにはホンモノの肉が食べたいと思いながら暮らしていたが、現実はまるっきり逆だった。
たしかに合成肉は存在するのだが、高くて貧乏人には買えない。切りそろえる手間がかからず、味と栄養素は常に保証つきで、しかも安全――合成肉は夢の食品だ。
「お兄ちゃんお肉いらないの? もらっちゃうよ」
自分のぶんの肉を全部食ってしまった妹が、おれの皿へフォークを伸ばしてきた。めんどうくさくなって、おれは肉片をふた切れだけ串刺しにしてライスの上に運んでから、皿をそっちへ押しやった。
「やる。キャロットソテーは食うなよ」
「やったー。お返しにわたしのニンジンもあげる」
「こら、野菜食べなさい」
「えー」
母親と妹のやりとりを右の耳から左の耳へ通過させながら、おれは肉を口に運んだ。まずいわけではない。むしろ舌は、正確にいえば脳は悦んでいる。この、自分に組み込まれている本能が、単純な仕組みがおれは気に入らない。天然モノの肉なんて、文明人が食うべきものじゃないのだ。
しかし嫌だと思っても、食わずに餓死するか、ちゃんと毎食合成食品を食える身分に自力でなるか、どっちかしかないのはおれだってわかっている。合成品じゃないといっても毎日三度の食事ができているのだ。それ以上を望むのは贅沢というもので、ありがたく思わなきゃいけない。
家を出て独立することになれば、食事がいまよりわびしくなるのは目に見えてる。子供は産まれる家を選べない。だから実家が貧乏なのは仕方ないことだ。つまりかじれるすねがあるのなら、親のすねをかじり倒す権利くらいはあるはずだし、それが悪いことではないだろう。かじれるすねすらない親のもとに産まれる不幸ってやつも、世の中にはあるのだと思えば。
「ごちそうさま」
肉はちょっとしか食わなかったが、腹は充分満たせた。自分の食器をさげて、おれは仲間たちのところへ戻る。
〈……合成肉が食べたい?〉
〈ああ。うちビンボーだから、天然モノしか食えねーの〉
ある日、ロビーで面子がそろうのを待つあいだに、おれはフレンドのジョニーとめずらしくリアルの話をしていた。ジョニーがどこのだれかは知らないが、ゲームの中では頼りになるやつだ。
〈おまえ、リアルで銃を射ったことあるか?〉
〈まさか強盗でもしろってか?〉
ジョニーが思いもかけないことをいってきたので、おれは反射的に問い返していた。ゲーム内でのおれは達人の域だ。たぶん、リアルでも当てるだけならかなり上手いだろう。しかしおれは実銃を持ったことはなかった。
ジョニー(のアバター)はくくく、と含み笑いのエモートをしてから、こういった。
〈いや、人間を射つんじゃない。おまえさんが毎日食ってる天然モノを狩りにいくのさ。金持ちの中には奇特な趣味のやつがいてね、わざわざ天然モノを食うために大枚はたくのがいる〉
〈天然肉なんて合成肉よりずっと安く売ってるじゃん〉
金持ちの考えることはわからんなと思いながらそう返事をしたら、ジョニーのやつ、今度はチッチッチと指を振った。
〈スーパーに並んでるような、捌かれてブロック肉になってるのじゃ駄目なんだ。生きてる時の状態がわかる、頭も脚も全部くっついたままの、まるごとの獲物に金を出す〉
〈射って仕留めるまではともかく、まるごとの動物なんてどうするんだよ〉
まさか射ったその場まで金持ちさんがついてきて、代金をポンとくれるわけじゃなかろう。案の定、ジョニーはめんどくさそうなことをいいはじめた。
〈血抜きをしないと臭くて食えないし、クルマがあっても山ん中までは入れないこともあるし、まあ楽じゃないな〉
〈銃もクルマも持ってないよ〉
ついでにいえば免許もない。銃にしろクルマにしろ、所持するには要免許だ。まあ、乗用車どころか戦車だって、動かしかただけならわかるけど。ゲームの中では使うから。
〈ハピネスランドまでこれるなら、俺の仕事の手伝いをしてもらえるんだが。おまえさんなら、ちょっと教えればリアルの射撃でもお手の物だろう。大物を一頭狩れれば、合成肉腹一杯くらいは軽く食える〉
と、ジョニーはいった。ホンモノの銃を射てる上に合成肉まで食える、か。悪くない話かもしれない。
〈ハピネスランドならチューブトレインで三時間だ。つぎの連休なら行けると思う〉
〈マジで決まったらプライベートメッセでそっちのモバイル番号教えてくれ。リアルで身体動かそうってやつはなかなかいなくって、きてくれるならこっちとしても助かるぜ。仕事がうまくいけば交通費も出せる。うまくいかなかった場合でも、メシと泊まるところの世話はこっちで持つよ〉
〈わかった〉
その日は父親が帰ってくる時間になるなり、すぐにゲームからはログアウトした。おれが自分から外でバイトするといいだすとは思わなかったのだろう。父親も母親も、驚いたようだが承諾をくれた。ゲーム内の知り合いに紹介してもらったとは話したが、リアル銃で狩りをするとはいわなかった。さすがにそれだと止められたかもしれない。
ジョニーに連絡をしたら、駅まで迎えにいくから到着時間が決まったら電話をしてくれというメッセとともに、向こうのモバイルからリアルにこっちへワン切りがきた。ジョニーの番号を登録して、おれはさっそく荷作りをはじめた。
*****
「よう、神眼」
ジョニーはおれのことをゲーム内の名で呼んだ。もっとも、お互いリアル名は知らないので、おれも「ハロー、ジョニー」と返したが。
リアルでも違和感のない「ジョニー」に対し、「ゴッド・アイ」はなかなかはずかしい。まあ「ジー・イー」というぶんには、そこまでアレでもないか。
ジョニーは三十歳くらいのがっしりした体格の男で、ハンターというイメージはぴったりだった。一方のおれは背ばかり高い二十歳前のひょろひょろしたガキんちょで、ゲーム内ではともかくリアルでジョニーには勝てそうもない。
さっそく駅から出て、助手席におれを乗せると、ジョニーは時代がかったピックアップを走らせはじめた。まわりの風景はおれの家の近所とはまるでちがう。狩りが仕事になるというのもうなずける、遠景には山あり森ありの大自然だ。地球上にまだこんなところが残っていたなんて信じられない。
「ここで育った天然の動物の肉になら、大金を出すってやつがいても不思議じゃないな」
おれは素直に感動していたのだが、
「現実はなかなか厳しいぞ。売れるほどの獲物は滅多にいないんだ。ま、自分で普通に食うぶんには問題ないが」
と、ジョニーはこの先の見通しが甘くないと釘を刺すようなことをいった。
「狩りだけじゃ食えない?」
「当然」
「じゃあ、ほかにはなにで稼いでる?」
「ガイドの仕事が収入としては一番多いな。金持ちってやつはいまだに生の体験を珍重する。俺にいわせりゃ、山なんてわざわざ入るもんじゃねえ。MHDとMMGをつけて、ヴァーチャル体験ですませりゃいいんだ。娯楽で遭難して死ぬとかアホらしいじゃねえか。遊びで山歩きをしようってやつは、自然を舐めてる。『そこに山があるからさ』なんて名言を遺してくれただれかさんを射ち殺してやりたいぜ」
「ヴァーチャルってそんなにできがいいもんなのか?」
「完璧とはいわんが代用としては充分だ。なにより失敗しても死なないですむ。しかし、おまえらしくない質問じゃないかG・E。ホンモノの肉より合成肉が食いたいんだろ? 代用品のほうが上だって認めてるようなもんなのに、どうしてヴァーチャルのできを疑うんだ」
「いや、おれが気にしてるのはそういう意味じゃないんだ。食って生きていけるなら、どんな食い物でもホンモノだろ? ヴァーチャルな食い物だけ食いつづけてたら、食った気にはなるけど実際は餓死するし。戦争ゲームだってヴァーチャルでいい。実際に負けて死んでたんじゃ遊びにならない。でも、ちがいのわかる人間でありたいと思うやつにとっては、娯楽だからこそホンモノであることが大事なんじゃないのかな。山歩きって勝敗が五分五分じゃないだろうし、ヴァーチャルゲームにするとあんま面白くなさそうだ」
「フム。山歩きじゃシリアス度が足りないから実体験じゃないと駄目だとな。はっきりいってそれは山を舐めた意見だが、山歩きと戦争、どっちかをゲームで、どっちかはリアルでやれとなったら、たしかに俺もゲームで戦争やって山は自分の足で歩くか」
ジョニーがほんとに納得したのかはあやしそうだった。もっとも、おれもうまく説明できなかったが。ようするに、代用と仮想はべつものだろうといいたかったのだが、食い物なら餓死するかしないかで結果がちゃんと出るが、代用体験と仮想体験というのは、どこでどうちがうのか、それはなかなか区別がつかないんじゃないか、ということで、やっぱりこうして考えてみてもよくわからなかった。
おれとジョニーの共通の趣味でいえば、ホンモノが現実の戦争だとしたら、代用品がサバゲーで、仮想品がコンピュータゲームのFPSになるんだろうか。そうなると、はて、山歩きの代用体験ってなんだろうな。遭難したら死ぬようなホンモノの山ではなく、その辺の公園を歩き回ることだろうか。……それじゃ、ただの散歩だ。
食い物に関していえば、食った気分になれて肥ることはないヴァーチャル食品も、ある意味すばらしいものだろう。実際に消化することができるという意味では、天然モノと合成モノに変わりはないが、だがおれは、合成食料のほうが人類の食うべきものに相応しいと思うのだ。
つまり、ホンモノであるほうが一概に、よいものなんだ、優れているんだ、レベルが高いんだ、とは限らないだろう、というのがおれの意見なのだが、ジョニーはもう、生と代用品と仮想品のちがいについて興味をなくしているようだったので、黙った。
すくなくとも、ジョニーはクルマを転がすことに関しては、ゲームよりリアルのほうがお気に入りのようだ。……そういえば、クルマの運転ってのも、代用とヴァーチャルの区別がつきにくい。実車をはなれれば全部代用体験なんだろうか。それとも、シミュレートが現実に忠実なのは代用で、実在しないエンジンの仕様やタイヤのグリップで走れるとこまでいってるやつがヴァーチャルなのかな。
ジョニーのピックアップにゆられていたのは一時間ちょっとといったところだったが、ひたすら平坦なところをかなりのスピードでノンストップ飛ばしっぱなしだったから、チューブトレインの駅から一〇〇マイルは走ってきたようだ。
代わり映えのなかった車外の風景に変化が出てきた。ジョニーの家は山地に向かってなだらかに隆起していく丘陵にあった。敷地はおれんちの千倍くらいあるんじゃなかろうか。
何軒か建っている家屋のうちの一軒の玄関先でおれをおろして、ジョニーはピックアップをガレージのほうへ回していった。カバンを足もとに置いてジョニーを待っていると、いきなり巨大な影が落ちかかってきた。
おどろいて振り返ると、そこには影の大きさほどじゃないが、やっぱりでかい猟犬がいた。つまりおれの背後に現われたそいつが家の明かりに照らされて、影が映ったというわけだ。
犬は唸りもせず静かだったが、しっぽを振って歓迎といった感じでもなかった。悠然と、こちらを見ている。よく躾けられているようなので、飛びかかってくる心配はないとわかっていたが、それでも内心ひやひやしながら待っていると、やってきたジョニーに笑われた。
「なんだよ、そんなところで待ってないでさっさと上がってりゃいいのに。こいつはエゼクだ。明日はこいつもいっしょにくることになる。――エゼク、こちらがG・Eだ。粗相のないようにな」
わう、とひと声吠えて、エゼクがおれの足もとにやってきた。といっても、頭の位置はおれの腰の高さまである。ほんとでかいな。あごをなでてやったら、くぅんと鼻声で鳴いて目を細めた。良い子のようだ。
エゼクはご主人であるジョニーの帰りを待っていたのだろう。ジョニーがドアを開けると、家の中へ向けて、ばう、とひと声。それから玄関先のマットの上に腹ばいに身を伏せた。
奥のほうから女の人が出てきた。漂ってくる匂いからするに、食事の準備をしているところだったようだ。奥さんかな、と思ったところで、ジョニーがおれのほうを手振りでしめして、
「彼がG・Eだよ」
といい、ついでおれへ向けてこういった。
「女房のルハネーラだ」
「どうも、おじゃまします」
とりあえずあいさつしたが、ジョニーの奥さんはやけににっこりと笑った。
「ようこそ。お会いできてうれしいわ、G・E」
「へ、はあ、どうも……」
なんでこんなに親しそうな表情をされるのかといぶかっていると、ジョニーがにやにやしながら、
「ルハネーラはおまえさんのファンでな。くるのを楽しみにしてたんだ」
といった。どういうこった?
「ジョニーの中身は半分くらいわたしなのよ。彼が仕事のあいだとか、よく代わりに遊んでるの」
そう奥さんが説明してくれたので、ようやく合点がいった。しかし、中の人がふたりいたなんてぜんぜん気づかなかった。
ゲームの世界のジョニーはいつも頼りになる凄腕のプレイヤーなのだが、奥さんも同じプレイスタイルで、しかも腕前までほとんど一緒だったのか。そういえば、いつ接続してもいるなと思ってたが。まあ、おれもひとのことはいえないんだけど。
「もしかして、おれに今回の話をしてくれたのって……」
「いや、それは俺だ。ルハネーラは山に入る仕事はやらないんでな。ま、とりあえず飯にしよう。晩くなる前にちょっと練習して、明日は朝から本番だ」
ジョニーにつづいてダイニングへ進むと、テーブルの上せましと料理が並んでいた。
Tボーンステーキ、ベーコンパイ、ピザ、パスタ、ベークドビーンズ、山盛りのマッシュポテト――ワイルドでカントリーなラインナップだ。ジョニー夫妻に子供はいないらしい。
三人で食うには多いんじゃないかと思っていたら、玄関のほうからどやどやと人の気配がわいてきた。入ってきた人たちとおれを引き合わせて、ジョニーがてきぱきと紹介してくれる。母屋に住んでいるジョニーのご両親と、べつの離れに住んでいる兄夫婦とその子供たち、だそうだ。
食事はにぎやかだった。おかげで、おれはあんまり食わずにすますことができた。もちろん不味かったわけじゃない。古き良きカントリーサイド料理のイメージのとおり、素材も昔ながらの天然モノなのがあきらかだったからだ。
食って活動エネルギーにするぶんにはなにも変わらないとわかっているが、だからこそ必要量だけでいいだろう。おれの目的は気持ちの良い田舎へ出かけてきて食事をごちそうになることじゃない。ルハネーラさんはおれが積極的に食わないことに気づいたかもしれないが、クルマの中の話である程度のことを承知してくれたジョニーが黙っていたので、彼女も敢えて勧めようとはしなかった。
*****
ジョニーの銃はレミントンだった。二百年以上前のクラシックな代物だが、猟銃としては必要充分だ。火薬式銃の機構はとっくの昔に完成しているので、レミントンより古いモシンナガンとかでもべつだん実用上の問題はない。昔の戦争を題材にしたゲームの中でなら、おれも何度となく使ったことがある。
とはいえリアルで持つのはもちろんはじめてだ。ジョニーが弾を塡めて渡してきたホンモノの銃はやはりずっしりと重い。一〇ポンドはない――つまり四・五キロ以下という程度の重量のはずだが、これを背負って山を登れるかどうか、ちょっと不安になってきた。
だがまあ、弱音を吐く前に、せっかくだからリアルで射撃を体験しよう。まったく、自宅の敷地に射撃場があるなんて、なんてお大尽なんだろうか。ベンチ射撃の要領を教えてもらい、ガニ股気味にベンチに腰かけ、レミントンを置いた砂袋を揉んで形を整え、ライフルを安定させる。標的までの距離は一〇〇ヤード。つまり九〇メートルちょいだ。スコープは一〇倍だから、的が九メートル先にあるように見える。
照準を標的のド真ん中に合わせ、息を半分吐いて止め、引き金の遊びをなくしていく。この距離だと銃口から飛び出した弾は真っすぐ的まで到達する。直接弾道距離、いわゆる零距離射撃の範囲だ。
零距離射撃というのは角度をつけずとも弾が降下せずに直接照準で届く射撃のことで、接射のことではない。テストには出ない。ついでにいえば放物線射撃を前提としていないライフル銃に本来は零距離射撃などないのだが。
引き金を絞った瞬間、反動で床尾が肩に食い込んだ。イヤマフをしているので音は衝撃として感じられた。MMG対応のゲームでなら、指にかかる引き金の抵抗や発砲時のライフルの跳ね上がりは疑似体験できるが、やはりホンモノはちがった。
銃は骨で支えろ、しかしバカ正直に守りすぎると反動で頬骨や鎖骨を砕くことになる――そんな、頭の中だけの知識だったものが実際に形になっていく。
しびれる高揚感を覚えながら、装塡されている五発の銃弾を射ち切った。一射ごとに銃身が暴れるので構えるところからやり直しになって、時間はずいぶんとかかったが、まあはじめてならこんなもんだろう。銃をガチガチにしっかり保持して構えることにこだわると、身体の緊張で却って思ったように弾が飛ばなくなるというのは聞いたことがあった。
射ち終わった銃を俺から受け取り、遊底を開放して残弾がないことをたしかめてから、ジョニーが標的を回収にいった。黒い同心円が描かれた紙っぺらをひらひらさせながら戻ってくる。的の中央で弾着孔がつながり、クローバーの葉みたいになっていた。
「ブラボー。『神眼』の名は伊達じゃないな」
ジョニーがほめてくれたが、おれはかぶりをふる。
「ライフルがいいだけさ。ゲームじゃないんだからノーメンテじゃ真っすぐ飛ばない。調整はあんたがやったんだろ、ジョニー」
「狂いがない銃ってのは最低条件さ。弾も大事だけどな。けど、原理的に狙いからハズレようのないレーザー銃でも競技が成り立ってるってことは、一番重要なのは射手ってわけなんだ」
とジョニー。射撃は奥が深すぎる。おれはゲームでいいやと思った。
山の中では腰を落ち着けてゆったり銃を構えられるような都合のいい場所はそうそうないので、立ち射撃と立て膝射撃の基本を教えてもらってそっちも試してみる。やはり台座の上に銃を置ける状態よりもブレが大きく、弾着孔が全部はつながらなかった。的の中央付近をハズしてはいないものの、一、二発が泣き別れになる。
おれとしては理想的な射撃姿勢を一分と保持できないリアルの自分の身体に情けなさを感じたが、ジョニーは感心してくれたようだ。
「しかし巧いもんだな。一時期は軍がゲームのランカーを特殊部隊にスカウトしてたって話もうなずける。明日は獲物を見つけることさえできれば確実にモノにできそうだ。俺は明日の準備をしてるから、おまえさんは先に休んでてくれ」
といって、ジョニーはライフルを分解して掃除をはじめた。ジョニーの家に戻ってみると、玄関を開けたところでエゼクがルハネーラさんから餌をもらっていた。人間より先に食事にありつけないのがちゃんと躾けられている犬の不幸だ。親族の人たちはもう帰っていた。
シャワーを浴びさせてもらおうとルハネーラさんに頼んだら、連れて行かれた浴室ではバスタブに湯がはってあった。狩りの前には身を清め、文明の臭いを洗い落としておくことが肝要だと、ジョニーの代わりにルハネーラさんが説明してくれた。そういえば料理も、おいしかったがニンニクのような臭いのきついものは使われていなかった。
シャンプーもボディソープも香料入りは厳禁だということで、持参したものに出番はなくジョニーの家のものを使わせてもらった。
*****
山の樹々は広い範囲で紅く色づいていた。ハピネスランドはその名に恥じない、温暖湿潤で穏やかな気候だ。標高が高いので夏場でも暑すぎず、冬場も雪は降るが一日中氷点下ということは滅多にない。いいところだとジョニーがとくとくと解説してくれた。
ジョニーは山中の踏みわけ道を歩きながらお国自慢に余念がなかったが、おれは生返事であいづちを打つことすらだんだんつらくなってきた。
荷物もだいたいジョニーが持ってくれているのだが、やっぱり引きこもりのゲーマーがいきなり整備された登山道もないところを歩くのは無謀だったらしい。おれたちの数歩先を、エゼクが地面の臭いを嗅ぎながら元気よく進んでいた。
おれは立ち止まり、何度目だろうか、水筒の栓をあけてあおった。喉が渇いたというよりは、どうにも水筒が重たく感じるというのと、水を飲むのにことつけてちょっとでも休みたいというほうがメインだった。ジョニーはこれでもおれに合わせてくれているだろうことはわかっている。本来なら無駄口を叩かず、もう尾根を五個も向こうまで行っているのだろう。わかっているが、だがつらい。しかしお昼時も遠かった。
栓をし直した水筒をザックのベルトにカラビナでぶら下げようとしたところで、ジョニーの手が伸びてきておれの動きを抑えた。エゼクがなにか見つけたらしい。音を立てないようにエゼクのいるところまで行って、わんこの鼻面が向いているほうへ目をやった。
三〇〇ヤードほど先に見えたのは、黒い剛毛に覆われた魁偉な体躯の生き物だった。野牛だ。牛はかつて世界中で飼育されていた家畜だが、いまでは山野を闊歩する野獣の代表になっている。
もちろん家畜としての牛も健在だが、そいつらは野生化していたやつを捕まえて再家畜化した個体とその子孫だ。人類は一時期、牛のように大きな動物を飼っている余裕を失っていた。人間が自分の世話だけで精一杯だったあいだも、牛たちが野生でたくましく生き延びてくれていたことに感謝しなければならないだろう。
ジョニーは小道から一歩踏み出し、鋭い目を牛にそそぎつづけていたが、そいつが動きはじめると詰めていた息を大きく吐いて視線をはずした。
「あれじゃ駄目なのか?」
訊いてみると、ジョニーは肩をすくめる。
「街の富豪さんが食いたいのは昔ながらの原種牛だからな。あいつの親戚筋はどこの牧場にも沢山いる」
といって、ジョニーは小道のほうへと戻った。牛はのんびりとこちらに尻を向けて歩きはじめ、おれにも下生えに隠れていた胴体下半分がはっきりと見えた。
六本の脚が、二トンはありそうな巨体をしっかりと支えていた。
四本脚の牛よりも大量の肉を得ることのできる六脚牛はいまや世界中で飼育されている。牛といえば普通は六脚牛のことを指すくらいだ。いつから牛が六本脚になったのかは定説がない。昔の科学者が品種改良で生み出したのだとか、野生化した牛の中から突然変異で現われたのだとか、いろいろいわれている。
出所はどうあれ、家畜を飼育する余裕を取り戻した人間は、野山を駆ける牛たちの中から六脚牛を選んだのだった。
どうやら、スーパーに並んでいる精肉を食うのは気が進まない、という意味では、おれも奇特な街の富豪たちと大して変わらないようだ。だが、ジョニーに四脚牛を狩ってくるよう依頼してきたお金持ちは、たぶん合成肉を食うことにも抵抗を感じるだろう。
その人は、人間が食べるのは自然に近いものであるべきだと思っているのだ。おれはおれで、四本脚でも六本脚でも、人間は生きた牛をバラした肉を食う時期はすぎたんじゃないかと思っている。
おれはジョニーのあとにつづいて山道を歩いた。ジョニーの足もとでエゼクがうれしげにしっぽを振りながら従っている。エゼクは大きな犬だが普通に四本脚だ。そういえばなんで牛だけが六本脚になったんだろう。いや、六本脚になったのは本当に牛だけなのか。
「なあジョニー」
「どうした?」
「六本脚の豚とか、馬とか、鹿はいないのかな?」
「養豚業者が、豚も六本脚になればもっと肥らせることができるのに、ってぼやいてたのを聞いたことはあるな。馬はそもそも見たことない。絶滅しちまったんじゃないか? 鹿もまあ、四本脚しか見たことないな。俺の祖父さんがそのまた祖父さんに聞いたってえ話だと、昔々はこのあたりに鹿がたくさん住んでたらしい。いまじゃすっかり見なくなったが、もし鹿を狩れたら大もうけだな」
「ふうん。やっぱり、牛を六本脚にしたのは人間なのか」
「仮に突然変異だとしても、その要因を作ったのは人間だろうから、まあ人間のやったことといってもいいだろうな。すくなくとも、ニワトリの脚を増やしたのは人間だ」
チキンレッグを一羽からたくさん取るために、最近は四本脚のニワトリがいるというのはおれも知っていた。いまの世界に冷暖房完備の高級畜養施設はないので途絶えてしまったが、ニワトリの改良というか改造は昔のほうがすごかったらしい。
羽根をむしる手間のない生まれつき丸裸のやつとか、挙句の果てには、無駄に鳴かない、歩かない、最初からほとんど死んでるも同然の、肥るだけの機械みたいなやつまでいたそうな。
いまの四足ニワトリは翼も脚になるようにされているだけで、牛とちがって六肢になったわけではない。モモ肉だけ四本で、手羽が取れなくなるのは欠点なんじゃないかと思うが、そのうち羽根も脚もいっぱいあるニワトリが開発されるのだろう。どうして牛だけが六本脚で豚は四本しかないんだとぼやいていた養豚業者の悩みも、遠からず解決されるにちがいない。
「牛や豚をもっと肥らせるために脚を増やすとかするより、合成肉をもっと量産できるように研究を進めるとか、食わないでも生きていける人間を目指すとか、そっちのほうが根本的解決になる気がするんだけどなあ」
おれはそういってみたが、ジョニーの意見は異なるようだ。
「合成や培養食品はともかく、食うこと自体の放棄はやらんほうがいいと思うぞ、俺は。たとえ脳みそ直接いじって世界最高の美味を感じられるようになったとしても、腹が減って、ものを食って満たされる、そのプロセスがなくなったんじゃありがたみがない」
「直接味覚を操作できるレベルになれば、空腹感や満腹感だって同じようにできるだろ」
「物理的に食うものがなくなりでもしない限りは、そんなことをわざわざする必要があるとは思えないね。……さて、ちょっと早いがメシにしよう。ルハネーラの弁当はうまいぞ。こいつを食って、それでも食うこと自体をなくすほうがいいと思うんなら、俺からいうことはなにもなくなる」
大きな切り株のわきに半分に割られた丸太が置かれている場所にたどりついて、ジョニーが立ち止まった。これはあきらかにテーブルと椅子だ。ここはジョニーの休憩所なのだろう。
休憩はありがたかったのでおれは是非もなくザックをおろし、丸太の上に座った。ジョニーがポットとランチジャーを出してくれる。
メニューはそう凝っているわけではなかった。山の動物たちを警戒させるような匂いを撒き散らしては駄目だし、食いすぎで動きが鈍くなっても、逆にエネルギーが足りなくて動けないようでもいけない。
ターキーブレストとタマゴとレタスとトマトが挟まったライ麦パンのサンドウィッチは、パンの酸味がほどよいアクセントになっていた。これは小麦パンではなくライ麦パンで作ってあるからここまでうまいんだろうなとわかる。ジャーで保温されていたミネストローネは、冷え込む秋の山の中ではありがたかった。
日がな一日部屋でゲームをやり、母親に呼ばれてダイニングへ降りていって摂る食事とはたしかにちがう。ただまあ、たまにならいいなとは思うけど、やっぱりこれを毎日繰り返せる気はしない。
「ごちそうさま。ほんとにうまかった。おいしく食事をいただくには頑張って腹を減らさなきゃならんってことか。おれみたいなものぐさにはしんどいな」
「人はパンのみで生きるにあらず、というが、食うこと以上の普遍的な愉しみを人間が発明できたかっていうと、そいつはあやしいんじゃないかと俺は思うね」
「おれはガキのころ、そりゃパンだけじゃ無理だろ、なんでほかに食うもんがねえんだよ、って思ってたわ」
とりあえず、冗談で無難にまぎれさせた。どうやら、食と人生観の関わりに対する考えかたに、おれとジョニーのあいだでは認識の相違があるようだ。
ここで『食事をおいしくするために必死で腹を減らす』生きかたにケチをつけてジョニーの機嫌を損ねるメリットはない。いや、おそらくジョニーには確固たる理屈立てがあるだろう。こっちから突っかかっていって論破されるのを、たぶんおれは恐れたのだ。
エゼクがそそくさと食べているあいだに、人間のほうはコーヒータイムで一服する。忠犬が早飯をすませたところで、ジョニーが荷物をまとめて立ちあがった。
「さて、いくか。なんかしらんが獲物が見つかりそうな気がするぜ」
おれもだいぶ元気が回復したので、ザックを背負ってジョニーたちのあとにつづく。
*****
標的は、六〇〇ヤードほど先に見えた。
樹々の切れ間から、直接見えたのはほとんど偶然だ。谷間の沢で水を飲んでいるそいつを双眼鏡で眺めたところ、どうやら四本脚で、さほどでかすぎることもない牛だった。理想的な獲物。
「この距離から射つのは無理だよな」
おれが双眼鏡を下ろしたときには、もうジョニーは銃に弾を塡めはじめていた。五発装塡して、安全装置をかける。おれが背負っていた銃を肩からはずすと、それも受け取って装弾し、返してくる。
「おまえさんなら当てるのはできそうだな。だが倒せるかどうかはあやしい。手負いで逃がしたらどこまで追いかけていくことになるやらわからん」
といってから、ジョニーは前方を指さした。
「あそこに岩棚があるんだ。見えるか?」
ジョニーのいうほうに目をこらしてみると、たしかに、色づきはじめてはいるがまだ落ちるには早い樹々の茂みの中に、岩の端っこのようなものが突き出ている気がする。この山が庭のようなものであるジョニーがいうのだから、まちがいないのだろう。
「あそこまでは一〇〇ヤードくらいだよな? まだ遠いんじゃ?」
六〇〇ヤードが五〇〇ヤードになっても、大して差はない。確実に仕留めるには二〇〇ヤード以内に近寄りたいところだ。一発でやりそこなっても追い撃ちできる。五〇〇ヤードの距離では、手負いの獲物がこっちにケツを向けたらもう急所は狙えない。
ジョニーは銃以外の荷物を下ろして身軽になりながら、こういった。
「おまえさんはあの岩棚で待機してくれ。俺たちは右の尾根を進んで、三〇〇くらい行ったところでこいつを放つ。こいつは回り込んで、沢の奥側から派手に吠える。牛はこっちにくるはずだ。俺とおまえさんの、どちらかの射界には入る」
「オーケー」
おれも荷物を下ろして、その場に置いた。ジョニーとエゼクはそのまま進んでいく。おれが進む必要のある距離はジョニーの三分の一だが、岩棚のほうへ斜面を降りていかないといけないので決して楽ではなかった。というか足もとは悪く、おれは山歩きに馴れていないので、曲がりなりにも道のある場所を歩くジョニーの三分の一の速度で進むのは無理だ。
もちろん、ジョニーはそれを考慮に入れているだろうし、エゼクは三〇〇ヤード先からさらに牛のうしろ側へ回り込んでいくわけだから、時間の猶予はそれなりにある。だが、狙撃地点にたどり着いてから銃を射つまでのあいだに余裕があればそれに越したことはない。
通信機はなかった。大昔ならこんな山の中でもモバイルがつながったのだろうが、いまとなっては基地局なんてものはない。通信衛星も、新しいのを打ち上げたというニュースは、生まれてこのかた聞いたことがなかった。
このくらいの距離なら原始的なトランシーバーで充分連絡できるのだろうけど、ふだんはエゼクだけを相棒にしているジョニーは持っていなかった。まあ、余計な荷物が増えなくてよかったが。スペック面はともかく、小型化技術では現在の水準はかつてに遠くおよばない。昔のモバイルの画像を見たことがあるが、なんであんなので世界中と通信ができたのか首をかしげる。
汗だくになりながら、ようやく岩棚にたどりついた。
上に立ってみると、ここはおあつらえ向きの待ち伏せ場所であることがわかった。斜面にへばりついている樹の根に腰かけ、岩の上に銃身を据えて、眼下の谷間の流れを狙うことができる。
岩には太い真鍮のピトンが打ち込まれていて、丸められたロープが樹のウロの中に置いてあった。獲物を仕留めたら、下の沢へこいつを伝って降りていくという寸法だ。
ジョニーが自分で整備した、よく使っている狩り場なのだろう。高さが足りないのでもう牛は見えなくなっていた。下の沢も、斜面に生い茂る樹のせいで途切れ途切れにしか見えない。
いつものジョニーはここに陣取って、エゼクが追い立ててくる動物を射っているのだろう。どうして今日はおれがその役目なのかなと思っていたら、ジョニーたちが進んでいった方向、二〇〇ヤードほどのところで、斜面がやや緩く、尾根のほうへ登れるようになっているのが目にとまった。
なるほど、そっちへ獲物が行ったらジョニーが狙い撃ちにするというわけか。ジョニーひとりでここを陣地にしているときは、その場所で登りに転じてしまった勘の良い動物にしばしば逃げられているのかもしれない。
ジョニーが見えるかな、と、銃を突き出して構えることのできそうな崖際を双眼鏡で眺めてみたが、見つからない。おれとジョニーの構えているポイントは、どうやら直接視線がとおらない位置らしい。まちがっても誤射の心配がないよう、ジョニーが意を用いてお互いの配置を決めたのだろう。あとは、動くものへ反射的に射ち込まないよう注意するくらいか。
ちゃんと見てから引き金を絞れば、牛とエゼクをとりちがえることもない。牛は飛び道具なんて持っていないのだから、焦って先制攻撃にこだわる必要はない。もっとも、向こうに先に気づかれれば、逃げられてしまう可能性は増すが。
……一〇分くらいたっただろうか。エゼクの吠える声が聞こえてきた。
だんだんと、近づいてくる。おれはライフルの安全装置をはずして、沢の上流側をできるだけ視野を広くしながら眺めた。風にゆられて樹々の枝が動く。それとはちがうパターンを求めて、特定の場所に焦点が合ってしまわないよう、視野全体を半ば無意識で見るようにした。
ぼやけかけていた景色の一点が急に鮮明になった。
ゲームでの経験が役に立つこともあるものだ。そいつはほかのパターンとはちがってはっきりと一方向へ進んでいた。スコープで捉えるのに苦労したが、どうにか見失わずにすんだ。もうスコープでは、赤茶色の毛に覆われた牛の、両目のあいだに白いぶち模様があるのまではっきりと見える距離になっていた。
さほど慌てた様子ではない。エゼクのことを恐れて逃げているのではなく、うるさがっているのだろう。
牛は人間の早足ほどのスピードで沢に沿ってこちらのほうへやってくる。沢を離れる気配はなかった。おそらく、ジョニーのいる位置にもっとも近づいたところでは、角度が急すぎてジョニーからは射ちにくいだろう。その先で斜面を登りはじめないなら、おれの出番だ。ジョニーがうしろから牛の脊椎を狙えるだろう絶好のポイントの周囲は、ひときわ樹々が濃く生い茂っている。
牛は斜面を登らなかった。このままいけば、おれのほうへ正面からやってきて、曲がりくねる沢に沿ってこの岩棚の下を横切り、下流方向へ去っていく。
すでに射程距離だが、頭蓋骨というのは頑丈だし、この牛にはずいぶんと立派な角があった。ほんのわずかに狙いが逸れれば、狭い眉間をはずれた弾は太い角の根元に阻まれ、牛の脳は守られるだろう。頭を撃つよりは脊椎に当てたほうがいい。もうすこし近寄ってくるのを待つか、とおりすぎたところをうしろから狙うか。
……と考えていたところで、スコープの狭い視界の中にエゼクが入ってきた。
牛の背後から側面に回って、唸りながら身を低くして、脚へ噛みつこうかといった素振りを見せる。おれは息を詰め、狙点を定めた。本当に賢いわんこだな、と思いながら。
牛がエゼクのほうへわずらわしげに首を巡らせたところで、おれの放った弾丸が左側面から頸椎に突き刺さった。
牛は口を開けたが、もうその意志は脊椎を伝わらなくなっており、まず最初に前脚がくずおれた。後脚はもうすこし粘ったが、右側が先に力つき、牛は沢の岸辺を枕に、おれに腹を見せるように崩れた。
とりあえず安全装置だけはちゃんとかけたが、おれはライフルを持ったまま、ぼうっとしていた。裸眼で見ても、たしかに牛は一六〇ヤートほど先で横倒しになっていた。
そのわきで、エゼクが獲物を監視している。カラスやほかの屍肉食いがやってきても、何日だって獲物を守りつづけるにちがいない。
「どうしたG・E? 大した腕前を見せてくれたじゃないか」
そんなに長いこと放心していただろうか。気づいたらジョニーが岩棚までやってきていた。上の道に置いていた荷物を全部持ってきている。おれが差し出したライフルを受け取って、空薬莢と残弾を排出した。
「……うん、やっぱ、生きた動物から肉を取って食うってことから、人間は卒業すべきなんじゃないかな」
「なにいってる。直接食うわけじゃないが、あの獲物を売った金でおまえさんは念願の合成肉を食うことになるんだぞ」
といって、ジョニーは樹のウロに置いておいたロープを取り出し、岩に打ってあるピトンに結びつけて下へと放った。
「帰りはこのまま沢を下っていける。いこう、忘れ物のないようにな」
「ロープは戻さなくてもいいのか」
「また今度きたときに自分でやるからいいよ」
沢へと降りて、倒れた牛のほうへ近寄っていく。そんなに生臭くはなかった。血も、おどろくほどすこししか流れていない。だが、それもジョニーがナイフを取り出して血抜きをはじめるまでだった。音を立てて牛の頸から血が溢れ出し、沢が赤くなる。鉄の臭いが一気に立ちこめてきた。
牛の喉をかっ捌いて手首まで真っ赤になったジョニーがなにかを投げると、エゼクがしっぽを振りながら飛びついた。ハフハフといいながら貪っている。
「牛の頸動脈はうまいんだ」
とジョニー。おれはただ見ているだけだったが、そういえばこいつをどうやって持って帰るのだろうかと心配になってきた。山に入って最初に見た六本脚よりは小さいといっても、たぶん七〇〇ポンド以上――つまり軽く見て三〇〇キロ――はある。とてもじゃないが人間ふたりでは運べないだろう。
おれがなにを考えているのか読めたようで、ジョニーがにやりとした。
「手間はかからんよ。俺がなんでこれまでひとりでやってこれたか、考えてみればわかるだろう? 運ぶ手段がないのに狩りをするんじゃ、それこそもったいない、罰当たりだ」
それはそうだった。お金持ちからのオーダーは五体丸々の獲物なのだ。この場では解体もしないということになる。それに血抜きをしても内臓を取らないんじゃすぐに腐ってしまうだろう。たぶん今日のうちに引き渡すのだ。
黙って見ていると、ジョニーは謎の機械を取り出した。オレンジくらいの大きさのボールに、太い針がついたようなものだ。太い針を、死んだ牛の背中、脊椎へ突き立てる。
ジョニーがボール部分のスイッチを入れると、牛が起き上がった。頭は力なくたれさがっていて、死んでいるのは明らかだが。
「おまえさんが絶妙なところを撃ってくれて助かったぜ。へたなことになってると二カ所も三カ所もしかけなきゃならなくなって、制御も面倒になる」
そういってジョニーが歩きだすと、牛がそのあとに従った。エゼクがつづく。
「ゾンビ製造装置か……?」
「新鮮な死体限定だけどな。細胞が完全に死んでるのは駄目。それと、アミノ酸をエネルギーにするから、あんまり歩かせると肉がまずくなる。元々は医療装置なんだ」
どうやら、脊椎神経をコントロールして四肢を動かす機械らしい。おれがもし牛の腰を撃ったりしていたら、前脚と後脚の制御系が分断されて、二カ所必要になっていたということだろう。
本来の使い方であればたしかにまともな機械なのだろうが、しかし死んだ牛を導くジョニーは、はたから見るとやっぱり悪の死霊魔道師だ。
ゾンビ牛はあまり足が速くないように感じたが、下山のほうが登りより時間はかからなかった。麓に止めてあったピックアップの荷台に器用に登ると、ゾンビ牛は脚をたたんで腹ばいになる。
行きに比べるとはるかに荷重の増えた旧式のクルマはギシギシと軋みながら走り出した。まだ普通にかけても圏外なので、車載のブースターアンテナとモバイルをつないで、ジョニーがどこかへ電話をかける。やり取りはすぐに終わったが、狩りの首尾を報告しているのだということはわかった。
おれとエゼクはジョニーの家の近所で降ろされ、ジョニーはゾンビ牛を荷台に載せたまま走り去った。依頼主へ獲物を引き渡すのだろう。
エゼクを連れてジョニーの家に戻ると、ルハネーラさんが出迎えてくれた。
そこで判明したのは、エゼクというのは愛称で、正式にはエゼキエルというのがこの賢いわんこの名前だということだ。名づけ親はルハネーラさんだそうで、ぜひジョニーとはべつのアカウントを作って欲しいと思った。その暁には、「神眼」なんて目じゃないイカしたプレイヤー・ネームで参戦してくれるにちがいないのだが。
山歩きで棒のようになった足を風呂場でもみほぐし、すっかり仲良くなったエゼクと広い庭で遊んでいるうちに、ジョニーが帰ってきた。エゼクが急にしっぽを振りながら走っていったから、ジョニーのクルマが丘の向こうに見えるより三十秒も前からわかったのだ。
ピックアップから降りたジョニーが手渡してきたのは、おれが予想していたより二倍ほども分厚く、額面も多い紙幣の束だった。
「マジで? こんなにもらっていいのか?」
「折半じゃないぜ。経費と紹介料はこっちでもらってる。あれだけの獲物は半年ぶりだ。感謝してるぜ。どうだ、こっちのほうに越してきて、本格的に俺の手伝いをする気はないか? たしか、まだ実家暮らしだっていってたよな。そろそろ独立してもいいころだろう」
といって、ジョニーはにやりとする。そのさそいは嫌ではなかったが、おれは首を縦に振らなかった。
「まだしばらくは追い出されずにすみそうだから、ちょっと考えさせて。……また小遣いに困ったときに仕事を紹介してくれるとありがたいな」
「そのときに合いそうな話があれば構わんが、いつもそう都合よくいくとは限らないぞ。俺はけっこう色んなやつに声をかけてるからな。その気があるならポストが埋まる前に決めとかないと、手遅れになるかもしれんよ」
「まあ、うちの両親もそんなに気が長くはないほうだよ」
*****
翌日、チューブトレインの駅までジョニーのクルマに乗せてもらい、そのときはエゼクが荷台に乗って見送りについてきてくれた。
おれは途中の大型ターミナル駅で両親と妹に手土産を買って、三日ぶりにわが家へと帰った。
手土産がちょっとばかり豪勢だったので家族はおどろいたようだったが、もちろん、単なるバイトとしては破格の稼ぎだったことをベラベラ話すほどおれは迂闊ではない。
おれはそもそもの動機だった合成肉をひと山買ってきて、ひとり焼肉パーティを開いて舌鼓を打った。外部の臭いを閉め出すために改造した自室の気密ドアだったが、ひとりでこっそりごちそうを食べていることを隠すのにも、はからずも有効となった。
合成肉は思ったとおりの味で、つまるところルハネーラさんの肉料理よりうまいかといわれたらべつにそうでもなかった。ということは、母親の肉料理だって味として劣っているわけではない。
もちろんわかっていたことだった。味としても、栄養としてもちがうわけではないが、それでも合成肉を食うことが、人間としての挟持なのだ、とおれは思ったから今回ジョニーの紹介してくれた仕事に乗ったのだ。
だがジョニーの指摘のとおり、けっきょくのところ、おれは間接的にあの牛を射ち殺して食べたにひとしい。
実際にジョニーと一緒に仕事をすることにすれば、たいていは自家用に六本脚の牛を射って、その肉を直接食べることのほうが多くなるだろう。
人間が進むべき方向は、生きた動物から肉を取らなくてもすむようになることだ――おれのその考えはまだ変わっていないが、ジョニーの手伝いをしてみてわかったのは、おれ自身がまだその域に達していない人間だということだった。
きょうび射撃の腕前を活かす仕事というのは、ハンターくらいしかないのはたしかだ。しかし、ジョニーのような山の男になりきれる自信はいまいちない。ゲームの中で研いた射撃の腕がリアルで通用するのだということも、今回実際にやってみてはじめてわかったのだ。それ以外の才能、適性がおれにあるのだろうか。
とりあえず、このバイト代があるうちに色々考えてみるとしよう。ついでにすこし外に出る機会も増やしたほうがいいな――と思いながら、おれはいつものようにゲームに接続した。
ジョニーは今日もオンラインだった。さて、中の人はどっちだろうか。
〈ハロージョニー〉
〈よう、G・E〉