ワンナイトラブル
こんこんとノックの音が続いていた。それも断続的に。
「ねえ開けてってば、お兄。いっしょにあつ森しようよ」
僕はその呼びかけに一切返事などしない。何故ならそれはこの二時間ちょっとの間で既に数十回以上繰り返された、いわば呪文に近い呼びかけだからだ。やつのことだから本当に呪術とか黒魔術とかマジで使えるかもしれない。我が妹ながら末恐ろしいやつだ。
「……佐良山くん。そろそろ、みくちゃんも入れてあげたら?」
「いいんです。あれとは夜の九時以降、一切の接触を断つという契約を交わしてますから」
「へー、そう……って契約!? なんか堅苦しくないそれ!?」
スマートフォンから発せられる先輩の声がやけに甲高くて、うっかりコントローラーから手を離して耳を塞いでしまいたくなる。
「ええ、きちんと書面で署名捺印済です」
「いや誰もそこまで聞いてないから。ていうかちょっといい?」
「はいはい」
「佐良山くんって、どうしてみくちゃんにそんな冷たいの? あんなにお兄さん思いで良い妹ちゃん、他にいないよ」
ポチポチと二次元世界のカブを操作していた指が硬直する。そのまま大きく溜息をつくと、僕はバロンチェアにぐったりともたれかかって宙を仰いだ。もちろん見えるのは青い空でも綺麗な星空でもなければロマンチックなプラネタリウムでもない。自分の部屋の天井だけ。
ああ、見飽きた天井だ。
「先輩。のび先輩、よく聞いてください」
「うん……あとのびって言うな。」
「この国ではね、三親等内の人とは結婚できないんです」
「まあ、そりゃあね。で、それが」
「仮に、仮にですよ。先輩はプロポーズをお断りした相手と同棲して普段通り付き合っていけます?」
「無理でしょ。常識的に考えて」
「ですよね。つまりそれが答えです。これにてQ.E.D.証明終了」
「はあ? なに言ってんの? あんなに礼儀正しくて良識のある子がそんなとんちんかんな行動するわけが──」
「結婚指輪、受け取り拒否したんですけどね。何故か毎回、机の中に仕舞ってあるんですよ。なんなら写メして送りましょうか?」
「…………マジ」
「大マジ」
「おおう……なんていうか、その……強く生きなよ、少年」
深夜の一時過ぎだというのにテレフォン駄弁りに付き合ってくれている彼女は、伸 乃々花という高校の先輩だ。近しい人は『シンちゃん』とか『シンさん』とか『のの』とかまあ色々な呼び方をするが、苗字を『のび』呼びすると好感度メーターが一気に十以上下がる。
どうも苗字がコンプレックスらしく、のび呼びされるとのび太くんが頭を過ってプラチナムカつくらしい。僕は彼女の好感度など気にも止めていないので、コミュニケーションがてらによく『のび先輩』という。
だって『シン先輩』とか、ちょっとカッコ良すぎるじゃん。
「まあまあ、固いことはいいっこなしにしましょうよ。先輩だって怒りがマックスに達したら僕のことバナナマンとか言うじゃないですか」
「そりゃあ、きみの前髪がすげー鬱陶しいからでしょ。いいかげん髪を切れ」
「だが断る。前髪がなくなると……いろいろ見えすぎるんでね」
「お前はバンプの藤くんか。高二にもなって中二病とか手の施しようがないな」
中二病とは失敬な。高二であっても中学時代の若々しさを忘れていない好青年だと褒めてほしいぐらいなのに。
「見えないものを見ようとしてみたんですが望遠鏡がないので、先輩いっちょ買ってやってくださいよ。最近、バイトよく入れてるんでしょ」
「うるさい黙れ。あれは大学進学用の学費なの。遊ぶ金じゃないの」
先輩、大学行くんだ。それは初耳だ。てっきりプロ志望でどこかの大手企業の社会人チームにでも入るのかと思っていたんだけれど、背に腹は代えられないといったところか。
「……就職するんじゃなかったでしたっけ」
ほんの僅か、数秒だけ沈黙が流れた。
デスクライトの光がやけに眩しく見える。
「ん? ああ、就職ね。最初はそれもいいかなーって思ってたけど、ぶっちゃけサッカーだけで食べていくの大変だから。女子サッカーは男子より事情がね、キツいのよ」
「未来のなでしこジャパンは私のものだ、とか息巻いてたのに?」
「私の黒歴史を蒸し返すな。あのね、スポーツだけで生活できるならそれが一番だけど、それができるのはホントに僅かな人たちだけなの。限られた人、才能のあるほんの一握りだけが手に入れられる、いわば宝くじみたいなもんなのよ」
宝くじ、か。億だか兆だか確率なんて知らないが、才能のある人──という面においては先輩だって例に漏れない気がするが。とはいえ、サッカーのことなんてオフサイドすらよくわかっていないインドア根暗の意見は参考にもならないか。
僕は自分の胸中とは異なる社交辞令的な言葉を口にした。
「先輩なら、なれると思いますけどね。プロだって」
「…………ありがと」
ふと気がつけば、断続的に続いていたノックの音が消えた。
どうやら正面突破は諦めたらしい。なにやら外が騒がしい。どうせ家の壁に脚立でもかけて窓からの侵入を試みようとしているのだろう。未玖のやつも爪が甘い。毎夜のことだから対策を試みているに決まっているじゃないか。窓枠は硬度の高い鉄製だし、ガラスは防犯ガラスを使用している。割ってからの侵入は絶対に阻止できるようにしてある。
昨日設置したばかりの最新防犯設備、とくと味わうがいい。
「ねえ、佐良山くん」
「どうかしました?」
「なんか外うるさくない? そっちからガチャガチャいう音が聞こえるんだけど」
「ああ、それね。うち犬を飼っていましてね、メスなんですけど。最近発情期なのか夜にやたらとソワソワしだすんですよ。ホント近所迷惑なやつですよねーアッハッハッハ」
「きみん家、犬いないでしょ」
速攻で嘘がバレてしまった。どうやら僕に詐欺師の才能はないらしい。
「よく見破りましたね。今日からあなたも佐良山マスターだ」
「謎の称号付与すんな。ねえ、ホントに大丈夫? ドリルみたいなチュイーンって音するよ?」
「ほっとけばいいんです。深夜にDIYしようとするやつなんて」
未玖のやつ、あれほど深夜に工具を使うなと忠告してやったのに。
あいつは明日飯抜きだ。ついでにご近所さんにも謝罪参りしにいかないと。
「ははっ。眠らない町、歌舞伎町って感じだね」
「もう冗談やめてくださいよ。毎夜こんなことされるくらいなら、一人暮らしだって視野に入れ──いや、引っ越しして場所変えても同じか。あいつ、世界の裏側にいたってこっちの居場所を人工衛星で察知するより正確に把握できるんだから」
「お兄さん冥利に尽きるんじゃない?」
「僕にプライベートはないんですか!」
電話の向こうでクツクツと押し殺したような笑い声が聞こえる。
どうやら相当ツボに入ったらしい。
「うぐっ、クフフフフッ……ごほっごほっ、ごめん腹痛い」
「どうぞご自由にお手洗いをご利用ください。こっちはどうせ眠れないので、いつまでも待ってます」
「そう悪態つかないでよ。夜は長いんだから」
言われて、我に返った。
現在、夜の二時前。まだ朝日が昇るまで三時間か四時間そこらある。毎日毎日こんな生活をしていても、未だに慣れないもんだ。
あの日から────
去年の七月七日、世間一般でいうところの七夕に僕の生活は大きく様変わりしてしまった。
僕はあの日、眠りを失った。
あの日は星が綺麗な夜だった。
織姫と彦星のやつらも一年振りに再会してイチャコライチャコラやってるんだろうなと考えて少し腹が立ったりもしたけれど、あの空を眺めればそんなストレスなんて彼方にすっ飛んでしまう。
そんな、満天の星空だった。
数十年振りに観測される大型の流星群を兄妹で見てやろうとして、僕は未玖を町外れの山に連れて行った。あいつはもちろん断らなかったし、むしろ喜んでさえいた。
祖父から借り受けた望遠鏡を引っ提げて、今か今かと流れ星を待っていた。うとうとしかけていた未玖に上着を羽織ってやろうとしたとき、待ち侘びていたものがやってきた。
大量の流れ星。
それも、漫画やアニメとかにありがちな束になってるぐらいの凄いやつ。
望遠鏡なんてまるで意味をなさない。そもそも必要意義がないくらい肉眼ではっきりと確認できたからだ。
隣にいた未玖は目をきらきらさせて、両手を合わせて祈っていた。
まるで神様に願うように。
僕は神様の存在を露ほども信じていないので、祈りもしなかったし目も閉じなかった。ただ願い事だけはした。
願わくば──このときがずっと続きますように。
どうか朝も昼も夜も、隣にいる妹を守ってやれますように。
身体の弱いこいつを病や悪者から守ってやれますようにと。
それが原因なのかは未だにわからない。
ただその翌日から、僕は一睡もできなくなった。
もうすぐ一年経とうとしているのに、僅かな眠気さえやってこない。どれだけ体を動かしてもどれだけ頭をフル回転させてもどれだけ羊を数えても、身体は全く疲れない。睡眠薬はおろか麻酔でさえ効き目がない。
つまり文字通り、正真正銘の不眠となったのだ。
未玖は未玖で、どこにいようとお目当ての相手の居場所を察知できるという、なんだかとても厄介な能力を会得したようだった。
おまけに病弱だった身体は鬼のように強靭で、虎よりも雄々しく、龍よりも気高くなった。
想像していたより、神様はテキトーでやっつけ仕事だった。
なにを願ったかは──未だに教えてくれないが。
「クッソ! この窓枠、超かたいんだけど」
「こっちは早く諦めて超お眠してほしいんだけど」
そりゃ固くなくちゃ意味ないからね、仕方ないね。
ガラスがダメだと踏んだ未玖は、ドリルかなにかで窓枠を壊す作戦に出たらしい。外壁から削り取ろうとしているのか、道路工事のときみたいなガガガガガガいう騒音が止まらない。
「開けてお兄! その通話切れない!」
「なんで切る必要があるの? お前に通話切断の権限なんかないんだよ? 早く布団に潜ってステイルームしないとダメだよ」
スマホを机に置いて距離を取り、先輩に聞こえないよう小声で外にいる未玖に語りかける。やばい、この感じだとあいつマジで外壁削ってるっぽい。ああ、また修理の手間が増える。
「お兄、どうせ暇なんでしょ? 眠れないんだからしょうがない。そこはいいんだ」
「いやよくねーよ」
「でもさ、いくらゲームやスマホがあっても人恋しくなって寂しいときだってあるでしょ? だからお兄のプライベートはあたしが支えればいい」
「ねえ聞いてる? スルーはさすがに酷くない?」
強化ガラスの向こう側を覗き込んでみると、実の妹が安全第一と書かれた黄色のヘルメットを被って家の天井からワイヤーで吊られた状態で、必死に掘削作業を行っていた。
僕は死にたくなった。
「いずれその意思はお兄の魂と繋がってあたしから子どもへ、子どもから孫へと受け継がれていくから」
「おーい。もしもーし、きいてますー?」
「それがあたしとお兄とのEternalだし」
「お前それが言いたかっただけだろ」
「さすがお兄! 相変わらず慧眼だね!」
眠くはないけど頭が痛くなってきた。誰か睡眠薬をありったけ持ってきてくれ、どうせがぶ飲みしたところで効かないけど。
外でえっちらほっちら作業中の未玖を放って、机のスマホまで駆け寄る。あんなまるで冴えない妹──略してマサイに付き合っていたら時間がいくらあっても足りやしない。
「佐良山くーん。おーい、もしもーし。おーいってばぁ」
「すみません、先輩。少し邪魔が入ったものですから」
相手に見えるわけでもないのに、スマホを手に取り深々と頭を下げる僕。
まあ謝罪は形からというし、こういうところから気持ちは伝わるものだから。きちんとやるに越したことはないだろう。
「みくちゃん、まだ諦めてないんだ」
「……参ったものですよ。気にしなくていいから早く休むよう、毎日言い聞かせてはいるんですがね」
「それだけきみのこと、大事に想ってるってことじゃない?」
大事にの方向性がかなり捻じ曲がってはいるが。
明日ぐらいには『あたしの好きなもの知ってる? ダイナマイト、火薬、そしてガソリン!』とか言い出したあげく僕の部屋ごと我が家を爆破しかねない勢いだ。
「わかってます。そのことは痛いくらい……じゃあその理屈でいくと、今こうやって付き合ってくれてる先輩も……少なからず僕のことを気づかってくれているわけですよね」
「もちろん。眠ることができないなんて、最初聞いたときはエイプリルフールかと騙されかけたけど今は疑ってなんかいない。きみは他の人より、ずっとずっとつらい体質をしてる。だって眠ることができないなんて、それは──」
そこまで言いかけて、先輩は口を噤んだ。
その先を言葉にするのは不毛だと理解していたからだ。このやり取りももう何度目か見当もつかないぐらいだった。
「ううん、なんでもない。私は私で受験勉強しながらきみの体質を治す方法を探すから」
「そんないいんですよ。先輩は自分のことだけに専念しててください。身体のことはなんとでもします。それより、一ついいですか」
「…………ん? いいよ」
腕を伸ばし大きく深呼吸して、スマホに向き直る。
前々から聞いておきたかったことを、僕はようやっと口にした。
「先輩は僕のこと好きですか」
言ってしまった、と思った。
深夜テンションも甚だしい。未玖の攻勢を防ぐのに躍起になって、理性を失ってしまっていたかもしれない。ああ、マズい。これはマズい。相手は男女問わず人気のある学校のスター、女子サッカー部のエース。かたや僕は不眠不休だけが取り柄のド陰ドアだというのに、身の程を弁えぬこの言動。これ、告白扱いになるんですかね?もしミスったら、明日学校で『あいつ私のこと好きらしいよー、超ウケるんですけどー』とかバカにされるんだ。伸先輩に告白して散っていった敗北者リストに佐良山巧の名が新たに刻まれることになるんだ。
ああ、部屋の家具が躍ってるよー。本棚が口を開けて笑ってる、ベッドが腹を抱えて悶え苦しんでる、壁紙が赤白黄色に順番に移り変わってるぞー。
心臓の音が耳元で聞こえる。
一体いつ頃、僕の大事な臓器は耳に移植されてしまったのか。
心なしか息が荒いような気がする。
先輩は何故返事をしてくれない。
何故、何故、何故なんだ。
つもりこれはやっぱりそういうことなのか。
早く、早く、早く早く早く。
引導を、渡してくれ。
「眠れない夜ってさ、誰かが傍にいてくれるだけでも落ち着くもんだよね」
「…………へ?」
「マナーモードにはしないから好きなときにかけてきなよ。はい、Q.E.D.証明終了」
沈黙が場を支配した。
先輩の言葉を飲み込んで上手く消化するまで、しばらく時間を要した。我ながら情けない。こういうときこそ、バシッと男らしく切り返せたらいいのに。
「あの、その……先輩。えーっと」
「やめやめ。湿っぽいのはがらじゃないし。まっ、さっき言ったことは嘘ではないから好きなよーに解釈しちゃって」
「は、はい。ありがとうござ────」
いますと言おうとしたところで、外壁を全力で蹴るような鈍い音が連続して室内に響いた。
「むーーーーーーーーーーーーーーーー!!!! んんーーーーーーーーーーーーー!!」
口に竹製の猿轡でもかまされてるんじゃないかと思うくらい、声が声になっていなかった。
声なき声の主はもちろん、我が妹だった。笑えねえ。
「ふざけんな! ふざけんな! 大事なことだから二回言いました! はー? 人が汗水たらして佐良山家改装工事に全力尽くしてるときになにテレフォンラブ決めちゃってるわけ? マジありえないんですけど!」
「お、おい。未玖、ちょっと静かにしないか」
「これが静かにしてられるかぁ! もう怒った、契約書なんか関係あるか! 扉ぶち割ってすぐ入ってやるからそこで待ってろ! このバカ兄!」
令和の鬼殺隊呼ばなきゃやばそうな剣幕で怒鳴ったあと、未玖は安全帯を歯で齧り切り、家の外壁を蹴って宙を舞った。オリンピック金メダリストもかくやといった素晴らしい空中三回転ひねりを見せたあと、猫のようなしなやかさで地面に着地。そのあと庭の物置にマッハで駆け込み、やばそうな代物を担いでマッハで飛び出した。
それは自分の背丈ぐらいある、大きな鋼鉄製のハンマーだった。
「今の声、みくちゃん!?……ってそれしかないよねぇ」
「ははっ、うちにあんな獣みたいな唸り声を出す妹はいませんよ」
なんて返事をしたところで、部屋の扉がみしりと凹んだ。
それ、一応耐火金庫と同じ材質の扉なんですけど。土建屋を営んでいる父が持てる伝手をフル活用して作り上げた、特殊合金製の扉なんですけど。
どうやらこんなときのために鍛え上げておいた全集中逃亡の呼吸、一の型『脱兎』を使うときがきたようだ。
「煩悩退散! 煩悩退散! 兄を惑わすサキュバスを滅する力をこの手に!」
大声でメチャクチャ失礼なことを叫ぶ妹だった。
両親二人とも出張中で良かった。こんなところを父母に見せたくはない。とはいえ、恒例行事なのでひたすら呆れられるだけだろうが。
いや、それだけじゃすまないか。正座で二時間ほど説教を受けたあと、ご近所さんに菓子折りもって頭下げるまでがセットだな。
「ねえ、佐良山くん」
「はい」
「今、べらぼうに失礼なこと言われてない? 現在進行形で」
「気のせいです疲れが溜まってるんですね先輩、そろそろ先輩も疲れたでしょうからゆっくりしてください、あとのことは任せてくれればいいので。楽しかったですよ、それじゃ良い夢を」
「ちょっと待って、まだ話は終わって────」
赤色の受話器ボタンを牙突並のスピードで突いた。
するとツーツーと電話終了の電子音が聞こえた。手遅れになる前に通話を切って正解だった。いやもしかしたら手遅れかもしれないが、これ以上は酷くしかならないので最善の選択だったと無理矢理納得するしかなかった。
「未成年淫行許すまじ! 都条例に則りこのふしだらな密会を妨害するぅーー!!」
「ここは都じゃないし、ましてやお前も未成年だろうが!」
扉は既に中学生のニキビ面みたいな荒れた凹みかたをしており、あと一押し衝撃が加わればへしゃげ飛んでしまいそうだった。BOWだってイベント時以外は扉に危害加えたりはしないというのに、この妹だけは。
「なんてデタラメ! おい、未玖よせ! 扉が壊れる!」
「もとよりそのつもりだー! 問答無用――――!!」
最後の一撃は、せつない。
どりゃあという掛け声ととも扉が弾け飛ぶと、それはカーペットの上に無残に横たわった。もはや何度目かも数えきれないほどの扉破壊、僕でなくっちゃ見逃しちゃうね。
これは総計十二回目の扉破壊だ。
「やあ、お兄。三時間と二十七分振りだね」
時間に正確すぎるやつだった。
肩に背負ったハンマーを軽く上下でポンポンと揺らしている様はどこぞの世紀末ザコに似ている。迫力はまるで拳王のようだが。
「とりあえず座れ」
「断る」
瞳は炎のように真っ赤になり、髪は某戦闘民族のように逆立っている。せっかくのロングヘアが全て逆立っているせいで、まるで幽鬼のようだった。
妹相手だというのに、歩み寄られて気圧されて一歩後退りしてしまった。細身の身体してるくせに尋常じゃないレベルの迫力とオーラ(コスモ)だった。
「携帯、貸して。まだののちゃんと繋がってんでしょ」
「残念だったな。ほんの数秒前に切ったばかりだ。」
「なにそれ。意味わかんない」
「契約したよな、夜の九時以降は不要不急の接触は避けること──って」
「急よ! もうこれ以上ないくらい急! 第一種戦闘配置ってくらい急!」
それは確かに急だが、急ってよりQって感じだな。
急ぐという意味において差はないんだろうけれど。
「あなたに用はないわ。私は休むもの」
「誰がエヴァネタ続けろっつったのよ。そもそもお兄、休む必要も意味もないでしょうが」
「おま、それを言っちゃあ……ダメだろ」
心に鋭い槍が刺さった気分だ。ロンギヌスかカシウスか、はたまたグングニルかゲイボルグかはわからないが、とにかく鋭く固いやつだ。硝子の心がブロークンファンタズムしそうだ。
「ののちゃんはかわいいよ。運動神経良いし、勉強だってやろうと思えばそこそこ良い点取れる。遊ぶの大好き遊び人間なのがたまに傷だけど……友達も多いし、正に頼れる先輩って感じ」
「ああ、LINEモバイルのCMとか出てそうだしな。あとYouTubeのゲーム実況とかしてそうだろ」
「誰がばっさーだ、誰が。つうかそうじゃなくて、いや見た目はそれっぽいかもよ。でもね、お兄は……ううん。あたしたち兄妹は、ダメだよ。ののちゃんと一緒になっちゃダメ」
「………………」
言われたくないことをずばり言われてしまった。
僕は拳を握り締めたり、開いたりを繰り返すだけでなにも言い返せなかった。
「どんだけ起きてても眠らずに生きられる。誰がどこにいようと居場所が一瞬でわかる。すごいでしょ、多分他の誰にも真似なんてできない。あたしたち兄妹にしかないスーパーパワーって感じ。けどさ、それって──」
ほんの少しだけ溜めて。
「人ができちゃいけないことじゃん」
なんてわかり切ったことを言う。
「知ってるか、アメコミのヒーローは日本のヒーローと違って完全無欠じゃあないんだ。あちらのヒーローは人間的悩みをいつも抱えてる。スパイダーマンだってそうなんだよ。超人なのに、やろうと思えば全てを手にできる力があるのに何故かいつも上手くいかない。愛してる人がいても、常に空回りばかりなんだ」
まくし立てるように。
僕は息継ぎも忘れて喋り続ける。
「それで」
「それでもその壁に立ち向かう姿が情熱的で、胸にあるもやもやを吹き飛ばしてくれる強さがあるんだ。だから────」
言おうとして、突然抱きしめられた。
「でもお兄はスパイダーマンじゃないんだよ。ただの佐良山巧なの」
未玖が手にしていたハンマーがカーペットに転がる。ごろんと転がった拍子に合金製の扉に当たって動きを止めた。まるで今の僕のように。
「ダメかな、僕は先輩を好きでいたら」
未玖の身体に手を回す。目頭に熱いものが込み上がってくる。
「ダメじゃないよ。お兄は本気なんでしょ、だから好きでいることはいいの。でも、一緒になるのは……ダメ。ののちゃんはきっと、つらい思いをするから」
「そうだよな。先輩、寝ないと生きられないもんな。僕に寄り添って永遠に起きているなんて、できないもんな」
我慢の限界だった。
情けないことに、僕は妹の胸の中でわんわんと泣き出した。歯を噛み締めて、唇を結んで、瞳を精一杯閉じて堪えても止まらなかった。膝から崩れて、ちゃんと立っていられなくて未玖にすがりつくしかなかった。
想像していたより、神様はテキトーでやっつけ仕事だった。
「あたしは三日に一度仮眠すれば大丈夫だから」
「慰めに、なってないって」
手の甲で涙を拭う。
これ以上、妹に恥ずかしい姿を見せたくなくて腕の中から離れようとしたけれど、未玖は抱きしめる力を緩めようとはしなかった。むしろ、力は強くなるばかり。
「お兄のおかげだよ。こんなに身体が強くなったの」
「……やめろ」
「二十歳まで生きられないってお医者さんから言われたとき、お兄ってば、お見舞いにスパイダーマンの被り面持ってきてくれたよね。ホントおかしくて笑っちゃう。だってお見舞いに被り面だよ。普通、お花とか果物とかじゃない?」
「やめてくれ」
優しく頭を撫でる手が、今はどうしようもなく苦痛だった。
「でもすごく嬉しかった。お前も元気になって、きっとこんな風になれるって言ってくれて勇気が出た。あれ、まだちゃんと取ってあるんだ。見せたげよっか」
「やめてくれ! 悪かった! 僕が全て悪いんだ、あの日──星を見に行こうなんて馬鹿なこと言わなければこんなことになんて!」
それ以上続かないよう、未玖は僕の顔を自分の胸に押し付けるよう力を込めた。
「いいんだよ。これでいいの」
眠れない夜に聞きたい声は、手を伸ばして掴んではいけない禁断の果実で。
代わりなんて誰もいないのに、妹は代わりになってやると言って自己犠牲の姿勢を崩さない。
どうすればここから抜け出せるんだろう。
鍵の在処すらわからない檻の中から。
僕はどうやったら抜け出せる。
「ずっと……探してはいるんだ、元に戻る方法を」
「知ってる」
「なあ、どこにあるんだろうな」
「知らないよ、わかんない。多分、あの雲の上とかじゃない?」
「……だとしたら、どうしようもないな」
僕が泣き止んだところで、未玖はやっと腕の中から解放してくれた。そして、あれだけ憎たらし気に破壊活動を続けていた防犯ガラスの前に立つと、空を見上げた。僕もゆっくりと立ち上がり、横に並んだ。
「五月のわりには綺麗だね」
「ああ。そこそこ星も見えるよ」
「ねえ、今度さ……夏になったら星を見に行こう。もう部屋にいるのもうんざりだってぐらい熱くなったら」
「またか。懲りないな、お前も。あのときみたいなのはまず期待できないぞ」
溜息交じりに吐き捨てるも、未玖はどこか嬉しそうだった。わくわくしているというか、見えないものを見ようとすることに心躍らせている。そんな感じだった。
「いいんだって。今度はののちゃんも呼んであげよう。三人ならきっと見えるよ」
「流れ星か?」
「秘密。その日になったら教えてあげてもよかろー」
その場でくるりと半回転して踵を返すと、未玖は僕が座っていたロッキングチェアに腰かけ、ゲームのコントローラーを握った。時刻は現在、三時を回ったところ。日の出までまだ少し時間がある。
「とりあえず、あつ森でもするか?」
「さんせいー! あたしがお兄のダッサイ島をののちゃん好みのやつにチェンジしたる」
「したらんでいい」
今は届かなくても、明日は違う結果がやって来る。
何千、何万光年離れた遠い場所からの贈り物を、気が狂いそうな時間の流れに身を任せながらこの狭く暖かい部屋で待ち続けるのだろう。
しかし暗く沈んでいても、希望はあるんだ。
「ダメ―、これはあたしの。てなわけで、お兄にはあたしの貸してあげる」
どれだけ闇が濃かろうとも、明けない夜はないのだから。