42 葵衣編⑥ 糸車
その姿に葵衣は思わず後ずさりしながら、臆しそうになる心に鞭を打ち顕明連を勢いよく引き抜いた。
石碑のようなものに寄りかかりっていた正体……灰褐色の無機質な肌と紅い八枚羽……だったであろう抉れ千切れた羽が数枚残るだけである。
割れた頭部と大きく裂けた胴体の断裂部からは黒い染みのようなものが漏れ出ており、今までに取り込んだであろう魔物の体がそのまま零れ落ちてきていた。
「ホツレ……なの!?」
グルルルゥ……
殺意に似た呻きが周囲に瘴気を、妖気をまき散らし、その漏れ出た思念が葵衣の感受性豊かな魂魄へ染み込んでいく。
元々霊視能力のあったためだろう、流れ込んでくる情報量に圧倒される。
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なんてことなの!?
あのとき私とレイジを襲ったあの巨大な岩塊はお前がやったのか!!
思念から漏れ出た記憶には、奴が巨大な岩塊を無理やり砕いて二人へと放り投げる様子がコマ送りの一部が抜き取られたような形でイメージを放射している。
さらに驚いたのは、その後のホツレに起こった事象だった。
無数の岩石や漂流物の廃材などが、勢いよくホツレへとぶつかり弾け、引き裂いていったのだ。自身の感情が荒れ狂う怒りに襲われているのだが、それを上回る情景に思考が感情がうまく回っていない。
内部に貯まったガス状物質が体表面を溶かし、誘爆し、あらゆる危険と思われる漂流物がホツレへと軌道を向け容赦なくぶつかっていく。
まるでこの地の神や理全てがホツレを許さないとでも言っているようであり……
いや違った!!
ホツレであれば、己に不利な事象など理を無視して回避できるはず。
だがその様子は一切見られずただ、ただ……理の反発と逆流を受けているかのような酸鼻を極める事態であった。
討伐方法は神仏たちと長きにわたる議論や修行により生み出された秘儀が私たちに受け継がれたが、奴はそれを行うまでもなく自らの驕りによって自滅していたのだ。
その後は、かろうじて生き延びたホツレが生命を維持しようとグリフォンを襲い喰らったが、時既に遅くその理への干渉力がほぼ失われているのだろう。
「そうなのね、理の通じぬ異界の道だからこそ今までの歪みと虐げてきた者たちの念が一気に襲い掛かったのね……逃がすわけにはいかない! 転魂の糸を返してもらうわ!」
「葵衣様! 嫌な予感がするんで気を付けてくだっ……い……」
「マイ!?」
「あ……あれ? おかしいな、ごふっ……ごほっ……」「マイイイイ!」
それは人々の希望を奪うという本能に根差した行動だったのだろうか?
マイの腹部に突き刺さった触手が勢いよく引き抜かれ大量の出血と共に、彼女は崩れ落ちた。
反射的に抜け落ちた顕明連が触手を切り裂き奴の額部分に突き刺さるが、いまだにぴくぴく震えながらしぶとく生きていた。
だがマイは泣きじゃくる葵衣に抱かれ、溢れ出る血がその命を無情にも削り取っていく。
止血し、手で抑えるもマイの命が流れ出していくその時だった、ガイガスがオーガ族について講釈していたことを思い出す。
オーガ族は人の血肉を得ることで力を増すと信じられているという。
「そ、そうだ! オーガ族は人の血を飲むと力がわくってほら!! おねがい!! マイ!!」
手首を強く噛み、溢れる血をマイに飲ませようとする。だがマイは僅かに飲み込むだけで葵衣の頬を撫で微笑むのだった。
「あおいさま……どうかレイジさんと、仲良くしてくださいね、けんか……しないでちゃんと大好きって言うんですよ、やくそく、ですよ」
「だめ! マイ! いやだマイ! おいてかないで嫌よ!」
あざ笑うかのように後ろで力尽きようとしていたホツレの体から、今までに取り込んだ魔物や物の怪がどこからともなく溢れ出てくる。
それに呼応したのではないだろうがマイの目が淡く光りだすと、最後の力を振り絞るかのように溢れ出た魔物や妖たちの体へ這いずっていく。
「マイ!? じっとしてないとマイ!」
「こ、これしか方法がない……みた……い。 ああ、葵衣様の血が……そうかこれが私の」
ある魔物の体からずるりと押し出された大きな魚のヒレにしがみ付くと、マイはオーガ族の本性である鋭い牙を出しながら噛みつき食いつき、そして飲み込んでしまう。
「マイ! 何をして……!?」
「ぐっ!! あああああ!!……はぁぁはぁ!!!」
突如マイが苦しみだしたが、その様子は消耗による苦しみとは思えなかった。明らかに怪我による異変ではなかった。
暴れのたうつマイに近寄れず思わず魔物の死体で転んだ葵衣は、マイが喰らった巨大魚を見て脳裏を掠める知識に恐怖した。
慌てて覆いかぶさる魔物を推し避けると……ひしゃげた頭と人間の胴体と手……腰から下が魚のその怪異が視界を埋め尽くす。
「マイ! あなた、人魚の肉をたべてしまったの!? でもなんで!?」
しばらくマイは苦しみの呻きを発し続けていた。だが目の前で起こっている事象はこれだけではない。
あのホツレが取り込んだ魔物や人間の力を吐き出し、残りカスになりかけていたからだ。
小柄な女性ほどの体躯になり、灰褐色で紅い羽も抜け落ちみすぼらしく変わり果てた姿になり果てている。
「いけない! このままじゃ100万の魂がこっちの世界で放たれてしまう!」
魂はあくまで葵衣たちの世界へ連れ帰り輪廻の理に返さなければいけない。
同時に起こったマイの救助と魂の保護という難題……
そして、またレイジと逢えなかった。
「葵衣様、レイジ様がやってくるのは200年先のことに……ごほっごほっ」
何を言って……
200年? え? 何のことなの?
絶望が絶望を呼び、断たれた未来と失意の中に待つのが死しかないことに……
私も人魚の肉をと思ったが、魂が持たないんだ……そう肉体に定着できる余力がもうない。
恐らく残りの寿命は2年もないはず。
マイを救いたい!
ホツレを滅したい!!
100万の魂を救ってみせる!
・・・・レイジくんにあいたい。
目の前に突きつけられたあまりにも過酷な差配に崩れ落ちてしまいそうになる。
この数秒が惜しい。
悩んでいる時間すら惜しい……
早急に決断しなければ……
未だ起き上がることのできないマイは何かを呟いているが、それは葵衣には届かなかった。
極度の緊張と緊迫した事態、一つの選択肢を間違えば全てを失いかねない状況において葵衣が取った行動は……
鬼気迫る表情でホツレへと飛び込んだ葵衣は、右手に顕明連を呼び戻すと、奴の心臓付近に剣を突き立てるのだった。
悲鳴すらあげないホツレ、いやあげることすらできなかったのか。
この世界の人々を守るためにもこの邪悪な存在を滅することを選ぶというのか、体が作り変えられていく苦しみに耐えながらマイは葵衣という少女の魂の美しさと健気な魂に恍惚の喜びすら感じていた。
・・・・
だが葵衣の行動はそれだけでは終わらなかった。顕明連から手を放すと容赦なくその傷口に手を突っ込み何かを躊躇なく掴みだした。
ホツレの体にあったとは思えないほどに透明感のある竜胆色の宝石? のような何かの正体をマイは本能的に察していた。
「あおいさ……ま……そこまで……して……」
一瞬の、刹那の戸惑いと躊躇と覚悟が入り混じった静止状態から一気に食らいつく葵衣。
その様は血の起源である鬼そのものの姿にも見える。
激しく咳き込みながら……葵衣の体がビクンと撥ねた。
取り込んだ魔物を全て排出してしまっていたホツレの心臓を何故喰らったのか!?
葵衣はマイを膝で抱くと、震えながらごめんね、ごめんねと泣き出した。
「マイにとてつもない重荷を背負わせてしまって、本当にごめんなさい」
「私は葵衣様と一緒にいられるのでしたら、どんな茨の道でも構いません……私の中に入った葵衣様の血が、ある力を呼び覚ましてくれたようなんです」
崩れ落ち、呻くマイに駆け寄って来た小さなぷに太は、必死にその頬を舐め始める。
小さく「にゃあ」と鳴いたその声は、諦めちゃだめだと二人へ向けて叱咤しているようだと、葵衣には聞こえていた。




