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■8 ストレス

アイドルYUIは、白いホテルの部屋で目を覚ます。

 東京 南青山にそびえる真っ白なホテル。

 その最上階にある一室。


 その女性は、真っ白いベッドの上で目を覚ました。


  目を細めて部屋の中を見わたした。真っ白な部屋

  唯の視力は、両目とも激しく悪い。シーツのしわの間に眼鏡がないか右手を動かしてみる。手は、すぐに諦めて止まった。

 最初に認識できたのは、じゅうたんの上で横倒しになっているワゴン車。

 ルームサービスを乗せて運ばれてきたものが、そのまま横向きに倒れていた。

 白い壁には赤ワインが爆発したような跡。飛び散った割れたワインボトルの残骸。おそらく唯が、ボトルごと力まかせに壁に投げつけた痕跡。裸足で部屋の中を歩き回るのは避けた方がよさそうだ。

 この惨状をつくったのは唯だ。おそらく。

 だが唯には、まったく記憶がなかった。またワインを飲み過ぎた。

 このところ唯は、酔って記憶を失くすことが多くなった。アルコールと一緒に市販の薬を大量に飲むことを覚えたからかも知れない。より深く酔って前後不覚になり、眠りに落ちて目を覚ますと記憶がない。


 何度こんな事を繰り返しているのだろう。

 今は市販の薬ですんでいるけれど、いつか違法な物に手を伸ばしてしまうかも知れない。

 考えると唯は怖くなった。

 このままエスカレートすると、自分では歯止めが効かなくなり仕舞には表ざたになるだろう。グループのメンバーや所属事務所にも迷惑をかける形で芸能界から消える事になるだろう。

 どうにかしなければならない。

 わかっていても、朝から晩まで続くストレスを解消する方法を、唯は他に知らなかった。


女性の名は、末永唯。多くの若者たちに支持されるアイドルグループ地蔵坂四天王のメンバーYUIである。

 仕事が終わると、自宅マンションへは帰らず、ホテルのスイートルームへ帰る。

 公私ともに認めるパートナー、猿田猿男がくれたクレジットカードで支払っている。

 カードの上限はない。いくら使ってもいいというカードだ。猿田の財産は、それほどある。

 その代償は大きい。猿田は、いつでもLINEで連絡をよこして唯を呼びつける。

 唯のストレスの大半は、この猿田に首輪をつけられている事に起因しているのかも知れない。

 巨大企業の創始者で社長の猿田は、若くして巨万の資産を手に入れた。気がつくと唯の所属するグループや事務所とかかわりが深くなっていて、今や猿田社長の協力なしでは仕事が立ち行かなくなっている。


 猿田に初めて会ったのは、どこかのパーティーだった。

 猿田の名前は知っていた。ネット業界で成功して、大きな会社を経営しているらしい。

 唯は、いろいろな男性と出会った。その誰もが、判で押したように会社経営者だった。

 そのうち、ある事に気づいた。偶然の出会いなど一つもないってことに。

 どの男性も、唯と会うために策略をめぐらし、手をまわして、唯とお近づきになっているのだ。金か権力か、その両方かを持っている男が、策略をめぐらせて、テレビでよく見る若くて美しい女に近づいて関係を持とうとする。そこには、お金のない、いわゆる普通の男性が入り込む余地はないのだった。


 気がつけば、唯の周囲には、お金持ちで社会的な地位も持ち合わせたハイソな男性ばかりが集まっていた。

 芸能界で大成功をおさめて、高いお給料をもらって高級マンションに住んでも、女の場合、男を選べる立場には、実はない。

 成功した男たちだけが、美しく有名で、皆があこがれる女性に近づくことができるのだ。

 唯たち、芸能人の女性たちは、選ばれる対象でしかないのだった。


 唯は、そのこと考えると、嫌気がさした。

 檻に入れられたカナリアを、たくさんの獣が狙っている。カナリアが、どんなに努力して自分の価値を高めようとしても、しょせんは男たちに食われる運命だ。そう思うと暗澹たる気分になった。


 こんな世界、抜け出したい。どこかへ行きたい。今すぐ消えたい。

 唯は、毎日、破裂しそうな心を、アルコールと市販薬のオーバードーズでつなぎとめながら、崖っぷちにしがみつくように生きていた。


 気がつくと、唯や地蔵坂四天王の出演するレギュラー番組のスポンサーすべてに猿田社長の会社が入っていた。詰め将棋のように、唯の活動範囲に猿田社長の手が伸びていて、すべてを牛耳っていた。


 唯は、猿田の主催するパーティーに急に呼びつけられた。仕事があると断っても、体が自由になる時間を聞き出され、勝手に迎車をよこされるのだ。

 唯の生活は、ストレスであふれていた。




 カーテンのすき間から見える早朝の空の色に目をやると、空が、ほんのり紫色になっていた。

 唯は、意を決してベッドからぽんと立ち上がった。立ち眩みと頭痛が同時に攻めてくる。

 裾の長いTシャツから、にょきりと白い脚。

 ほどいていないボストンバッグから、毛玉だらけのスウェットパンツを引っ張り出して脚を突っ込み、靴下を履いて、ダウンジャケットを片手に部屋を出た。


 外の空気は冷んやりしていた。

 マートフォンで確認すると、あと十分ほどで日の出だった。

 唯は、明るくなっている方角に向かって、ホテルの前の道を歩き始めた。


 唯は、生来、引っ込み思案な性格であった。

 だが、その美しすぎる風貌と、何をやっても完璧に遂行してしまう性格のために、まわりから注目された。

 周囲の人々は、唯に、いろいろな事をやらせて、結果を期待した。

 消極的な唯ではあったが、勧められるまま、いろんな事にチャレンジして、それらほとんどで同年代の過去のレコードを更新した。その結果が、現在の「地蔵坂四天王のYUI」につながっている。


 消極的な性格と行動のちぐはぐさは、いまも変わらない。

 本当は何もしたくない。家でじっとテレビを見ながらホットミルクでもすすっていたい。

 だが周囲は許してくれない。

 ステージに立って歓声につつまれると、唯のテンションは、薬物でもやったかのように上がった。アルコールで酔っているような、でも頭の中はクリアな状態をキープした不思議な状態。

 その反動なのか、仕事が終わると、テンションはがっくり落ちた。バッテリーの切れたロボットのように、ぐったりと下を向き、汗だくの衣装も脱がずに十分も十五分も動かずにいた。

 ストレスを押し返すように、唯は荒れた。

 物にあたる、スタッフにあたる。それがネットに漏れて叩かれ、悪口を言われる。それを目にしてまた落ち込む。この顔と体が、国民全員に知られているため、どこへ行ってもファンの目がある。指名手配の逃亡犯と変わらない、と唯は感じていた。


        ×        ×        ×


 目の前に小さな公園があらわれた。トイレもないような狭い狭い公園だ。ベンチだけが一つ、ぽつんと設置されている。


「あのベンチで、少し休んでから、ホテルへ戻ろう」


 ベンチに座って目を閉じる。


「YUIさん? YUIさんですよね? おはようございます!」


 若い男性の声。唯は、自分の胃が軽く痙攣するのがわかった。

 芸能人にとって、日常の中にファンが入り込んでくるのはストレスだ。今この瞬間、胃に何かの病巣が生まれたのではないか、そう感じるほど気分が悪かった。もし病院に行ったら「胃潰瘍ですね。原因はストレスでしょう」なんて言われるかも。


 唯は、目を閉じたまま、声を無視した。

 カシャア。

 なんてこと。返答がないとわかるや、その男は、スマートフォンで唯の姿を撮影し始めたようだった。勝手にSNSにアップされるかと思うと、ますます胃が重くなった。だが頑張って無視しつづける。

 失礼すぎて、コイツは猿なのだろうかと思うような人がたまにいる。そんな人が、そんな猿が、ファンと名乗って近づいてくる。ファンである以上、ないがしろにはできない。

 唯は、その対応にへとへとに疲れ切っていた。たまに、スイッチを切って、完全に無視する。それがまたネットニュースになって騒がれる。それもまた無視。見ないようにすれば炎上も怖くない。自分を守る方法は、それしかなかった。

 我慢するしかない。顔のまわりに集まってくる大量の蚊を、払うこともせず、ゆったり構えている牛のような、巨大ないらいら。悠然と構えている牛さん、実はストレスでいっぱいなはず。

「ここは、サファリ動物園。私はその中でただ一人の人間」

 唯は、自分にそう言い聞かせると、ひかえめに深呼吸した。


 男性は、数枚写真を撮影したら、何も言わずに去って行った。


 人がまた、通り過ぎてゆく。唯に気づいているのかどうかは、わからない。

 それから何人かの朝の足音が、通り過ぎる。

 静かな時間が流れた。

 唯は、ひとり、気持ちがよかった。誰も私に気づいていない。誰も私に注目していない。お経を読むように繰り返す。



 目をあけると、唯のとなりに猫がちょこんと座っていた。ずっと唯は、猫と並んでベンチに座っていたのだった。

 前を通り過ぎる人びとは、唯よりもまず猫に気づき、猫を見て通り過ぎて行ったのかも知れなかった。

 猫がいた場所を見ると、いつの間にか猫はいなかった。

 薬とアルコールの効果も切れかけていた。ホテルに帰って、熱いシャワーを浴びて、とびきり贅沢な朝食をルームサービスで頼もう。倒れたワゴンや壁のワインの染みは、謝れば許してくれる。


 唯は、太陽に背をむけて、自分の長い影を追いかけるように、ホテルへ向かう道を戻った。

 駅へ向かう人たちの数は、増えていた。幾人もの若い男女と、唯は、すれ違う。

 しかし、唯の顔を見て驚く者は一人もいない。太陽を背にしている唯の姿は、逆光によって誰にも見えないのだ。

 唯は、気持ちが晴れやかになっていくのを感じた。

「まだ、やれる」


 唯は思いっきり笑顔になった。誰にも見られることのない逆光の中で。

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