■7 青春
高瀬が、漫画の賞を獲った。
高瀬が、漫画賞を受賞した。
◎ ◎ ◎
ガードマンのアルバイトを辞めた水谷稜太は、
次の日も、その次の日も、何もせずに過ごした。
朝だと気づくと、もぞもぞと動き出し、腹が減ると食い、眠くなったら、また寝た。
貯金のない稜太は、収入源を失ったたとたん、家賃を払えなくなる。
家賃の支払いに遅れて、親が、青森から呼び寄せられた事件は、つい昨日のことのようだ。
その時、両親に立て替えてもらった一か月分の家賃四万六千円は、まだ一円も返せていない。
「これからは、ちゃんとする。漫画家にも、絶対になる」
稜太は、両親の前で、そう約束した。
自分では、そう記憶していた。
今度また、家賃のことで、親に連絡が行くようなことがあったら、アウトだ。
もはや、東京で漫画家を目指して修行をするなど、許されないだろう。
それでも漫画家を目指したいのであれば、逃亡して、別の場所に居をかまえ、そこでコツコツ漫画を描いていくしかない。
ただし、その場合、保証人はどうするか、という問題がある。
保証人の必要のない物件を探すか。
そんなとこあるのか。あったとして、どんなところなんだ。
劣悪な居住空間かもしれない。
そんなところで、落ち着いて漫画など描けるのだろうか。
稜太の妄想は、どんどんふくらんでいった。
結局のところ、新しいバイト先を見つければ、問題は解消するのだが、体が動かなかった。
働きたくない。
面接が面倒だ。
面接の前の、あの嫌な緊張。すごく嫌い。
やりたいのは、漫画だ。
漫画でめしを食っていきたい。
だけど、プロの漫画家なんて、とてもじゃないが無理だ。
アシスタントだって、稜太の画力では、まず不可能に思えた。
そんな風にして、夜がきて、朝がきた。
一週間が過ぎ、十日が過ぎた。
そろそろ、まずいかも知れない。
十一日目の朝、目を覚ました稜太は、急にそう思った。
かも知れない、どころではない訳だが、稜太は、ぎりぎりのどん詰まりの崖っぷちに追い込まれるまで、動かない性格だった。
そうすることが、自分を、どんな不利な状況に置くことになるか、想像できなかった。
ただ、いま、それをしたくない。
若さゆえの過ち、まさに、そう言うべき状態の稜太だった。
とりあえず腹が減っていた。
稜太は、街道沿いの弁当屋で、から揚げ弁当と生野菜サラダを買った。
そして、求人情報誌を立ち読みするために、コンビニエンスストアに立ち寄った。
だけど最初に手に取ったのは、いつもの癖で、漫画雑誌だった。
その誌面の中に、見慣れた絵柄があった。
高瀬智春の絵だった。
誰の絵なのか思い出した時、僚大は、雷に打たれたように体を震わせた。
そして、膝から崩れ落ちそうになった。
稜太のすぐ右となりで、かがんで雑誌の梱包を解いていた店員が、稜太の不審な動きに気づいて、気にし始めていた。
稜太は、何と呼んでいいかわからない感情が膨らんで、抑えられなくなった。
渾身の力をこめて雑誌を握った。
雑誌は、きりきりと異様な音を発しはじめて、ゆがんだ。
稜太は、売り物の雑誌の表紙に、売り物にならないくらいシワをつけてしまった。
すぐ横で、届いた雑誌の梱包を解いていた店員が、
「あの、ちょっと!」
と、しゃがんだまま、声を荒げた。
稜太は、ふ、と全身の力を抜いて、
「すいません、これ買います」
と言って、雑誌をレジまで持って行って、500円玉をカウンターの上に、ぺちりと乗せた。
そして、コンビニを数歩出たところで立ち止まり、選考委員の評価のページを開いた。
「キャラクターの表情がいい」
「クライマックスまで読者を引っ張っていく力量がある」
「将来が楽しみ」
有名な漫画家が、高瀬の描いた漫画を褒めていた。
表情がいいだと。
あんな絵が?
ずっと高瀬の絵を見てきた稜太には、ぴんと来なかった。
稜太は、デパートに置いて行かれた五歳児のように、不安と怒りで、歩道のアスファルトを凝視した。
◎ ◎ ◎
漫画家養成の専門学校に入学して、稜太が一番はじめに口をきいたのが高瀬だった。
おもしろい絵を描くわけでもなく、話てみても、特に才能があるとは思えない奴だった。
こいつは、プロになるのは無理だ。
稜太は、真っ先に判定をくだした。
稜太は、自分が一番才能があると信じていた。
自分以外の人間を下に見ていた。
「自分には才能がある。まわりはバカばっかりだ」
だが、それが悪い事だとは、みじんも思っていなかった。
メジャーになれる人間は、そうあるべきだと、信じて疑わなかった。
高瀬は、課題だけは、きちんと提出した。
真面目だけが取り柄の、つまらない人間だった。
稜太は、課題を提出しなかった。
私生活でも、破天荒を気取っていたからだ。
昼過ぎに起き、午後三時ごろ、ようやく登校し、
「授業なんて、くだらん」
と言い放ち、いっさい受けなかった。
稜太は、授業料を払って専門学校に通いながら、酔うと、その学校の事を批判した。
こんな学校に来たって意味はない。
漫画なんて、自分で家で描ける。
課題なんて、意味ない。
この世の中ぜんぶ、クソだ。
そんな稜太の入学金を出してくれたのは、両親である。
稜太は、モラトリアムな立場を自分の力でもぎ取ったような顔をして、青春を謳歌していた。
一年後、そんな高瀬と稜太の差は、歴然となった。
高瀬が、プロの漫画家のアシスタントとして採用されたのだ。
稜太は、アシスタントに採用されて喜んでいる高瀬を見て、ばかにした。
「たかが、アシじゃねえか。ブラック企業なみにこき使われて、ボロ雑巾みたいに捨てられるぞ!」
まだ、同じ段にいる。
稜太の小さな自尊心は、まだ保たれていた。
高瀬は、アシスタントとしてプロの現場で働きながらも、
家に帰ってから、一日ひとコマだけとか、本当に少しずつ自分の作品を仕上げ、完成させ、
漫画の新人賞に応募してきた。
「もう、お前らとは遊ばないし、飲みにも行かない。その時間を執筆に当てたいんだ」
高瀬がそう言い出したのは、先月のこと。
稜太と松田、高瀬、そして進藤の四人は、専門学校を卒業してから、毎月、四人で集まって飲み会をしていた。
毎月の、定例同窓会である。
その毎月の飲み会に、もう来ない、と高瀬は言いだしたのだ。
怒ったのは松田だった。
「ふざけるな。酒を飲まなきゃ、いい漫画が描けるのかよ! そんなの言い訳だ!」
から始まって、
人生において、遊びが、いかに大切か、
無駄に思える時間こそ、クリエイターには必要だ、などなど、
聴いたことのあるセリフにも思えたが、とうとうと語って聞かせた。
簡単に言うと、「説教」である。
だが、高瀬は、考えを変えなかった。
「俺、決めたから。ごめん」
「結局あれか。俺らみたいなだめな奴らとつるんでたって、上には行けねぇって思ってんだろ」
松田がそう言うと、高瀬は、小さなため息をつき、開き直ったように言い返し始めた。
「それもあるかな。類は友を呼ぶって言うだろ。これからは、つき合う友達も選ぶことにするよ」
最後は、松田が高瀬の服を引っ張り、つかみ合いになった。
進藤と稜太が止めて収束。
それらが全部、才能のない監督が撮った青春映画のワンシーンみたいだと、稜太は思った。
この四人で集まって飲むと、なぜかそういう感じになることが、多くあった。
まるで、シナリオでもあるみたいに、青春ドラマが目の前で再現された。
そのたびに、どこか薄っぺらく、どこか予定調和な世界を生きているように稜太は感じるのだった。
稜太は、新しいタバコの先端に火をつけ、煙を吐きながら、もやのかかる居酒屋の天井を見た。
吊り下げられた照明と、もっと上の天井の梁との間に、捨てられる寸前の飼い犬みたいに汚れたサーフボードが、ロープで固定されていた。
◎ ◎ ◎
そんな高瀬が、漫画賞を受賞した。
稜太は、完全に間を空けられたのだった。
置いて行かれる。
ひょっとして、いずれ、松田や進藤も……。
そう考えると恐かった。
進藤が、二人で飲んだ時に話していた、パチスロ漫画の話を思い出していた。
胃が、じわりとせり上がってきた。
パチスロ漫画は、一般の商業誌よりもハードルが低いと聴く。
それでも、掲載されれば、原稿料ももらえるし、「漫画家」と名乗っても嘘ではない。
進藤も、動こうとしている。
進藤にも、置いて行かれる。
まずい……。
松田はどうだ。
何をしている。
でも恐い。聞きたくない。
松田も、漫画家デビューに向けて、着々と進んでいたらどうすればいい。
俺は、何もやっていない。
専門学校に入学したときから、階段を一段も上っていないのが稜太であった。
「おーい、水谷」
松田と進藤だった。
進藤の手には、高瀬の受賞作が掲載された週刊ピースがあった。
「すげーな高瀬! 俺らも頑張らねえと」
と松田。
「やるぞーっ!」
その後ろから、満面の笑顔で進藤が巨体をたぷたぷ揺らしながら続いた。
進藤は、稜太が、酔っぱらって、パチスロ漫画をけなしたことを、まったく気にしていないようだった。
俺は、だめだ。
だめ人間だ。
稜太は、そんなふうに思ったのは、初めてだった。
この二人は、親友の受賞を知って、勇気をもらってる。
やる気を湧きあがらせている。
俺は、どうだ。
置いて行かれる、って何だ。
稜太は、松田と進藤に向かって笑った。
その笑いは、なんか、今までとは違う感じになった。
稜太は、これも青春映画のワンシーンみたいなやつだな、と思った。
けど、少し才能のある監督が撮った感じのやつになったかも知れないな。
そう思った。