■5 地味な女
いなば荘の大家の娘・幸子は、今日もチロルと空を見上げるのであった。
いなば荘の隣に建つ家の二階に、幸子の部屋はある。
小学四年生になった時に、幸子は一部屋もらった。
その部屋を、幸子は22歳になった今も使っている。
美術大学の油絵科を卒業してもなお、働き口がなかった幸子は、
けっきょく仕事をしないという道を選び、
実家で、家事手伝いという身分をもぎとった。
幸子の一日は、チロルの散歩に始まって、チロルの散歩に終わる。
チロルというのは、六歳のメスのチワワである。
朝、六時半に起床して、チロルにリードをつけて家を出る。
チロルは、毎朝決まった場所で、ぷりっとウンチをするのでそれをウンチポーチに収納する。
本町犬猫病院の裏手に毎朝、同じ猫がいる。
チロルは、毎朝、必ずその猫に挨拶をする。
雨が降っていると、その猫は、姿を見せない。
猫と会えなかった日は、チロルの機嫌は、一日悪い。
幸子が見る限り、ずっと不満そうな、心配そうな顔をして、窓から外を眺めている。
チワワの目は、大きくて、いつも涙をためて泣きそうになっているように見える。
世の中の悲しみを、一気に引き受けているような顔をしている。
だけど、本当は、ごはんと散歩のこと以外、何も考えていないと幸子は知っている。
それがチロルの朝の散歩だ。
ボールペンくらいに細く生えた脚を四本、ちょこちょこ忙しく動かしながら、幸子の歩くスピードについてくる。
そんな散歩を朝と夕方、一日二回するのが、現在、求職中の幸子の役割である。
その他にも、母の思いつきで、幸子の「業務」は、少しずつ増えていった。
家事手伝い歴が長いと、家での仕事が、徐々に増えていくのだった。
そのうち、隣のアパート、いなば荘の管理運営も、やらされるに違いない。
早く働き口を見つけないと、いまに大変な事になる。
幸子は、そう確信していた。
かといって、お金を稼ぐ方法は、そう簡単には見つからない。
株、アフィリエイト、ユーチューバー、どれも幸子には遠い存在に感じられた。
新たな資格を取るかとも考えたが、最初の一歩をどちらに踏み出していいのかわからなかった。
漫画家。
幸子の頭に、ふと、水谷稜太の顔が浮かんだ。
稜太は、幸子にとって、蔑みの対象であった。
今回の、家賃騒動で、両親を青森から旅費を使わせて来させて、
大家に謝らせて家賃を払わせるなど。
なんとも情けない。
ああは、なりたくないと思った。
漫画家志望とは、本当に楽な身分だ。
口で、そう言いさえいれば、すぐにでもなれる。
「今日から、漫画家を目指します」
そういえば、幸子にだって、今日からなれるのだ。
稜太の漫画なんて、一度も読んだことはないが、
ことによると、自分の方が、絵も上手いかも知れない。
幸子は、思った。
幸子だって、美術大学に合格して、四年間、絵の勉強をしたのだ。
だけど、幸子は、画家志望にはなれなかった。
理由はわからない。
そんな、ふわふわした存在になりたくなかった。
夢はあった。
在学中に、大きな賞をもらって、華々しく画家としてデビューできたら。
だが、夢は、手の届かない夢のままであった。
それが違いなのだろうか。
幸子は考える。
そんな恥知らずな身分を名乗ることはできない幸子と、
ふわふわしていると言われようと、堂々と漫画家志望ですと言える
稜太の違いなのだろうか。
そして、堂々とふわふわ夢を追いかけ続けている人間の中から、
本当にプロとして活躍できる人間が生まれるのだろうか。
自分は、その時点で、ふるいにかけられたのかも知れない。
今日も幸子は、チロルと一緒に、
悲しそうな顔で空を見上げるのであった。
空は、薄雲り。夜から雨になるという予報だった。