■4 夢の終り
家賃の催促から逃走した稜太。とうぜん保証人に連絡が行くのであった。
サッシの窓から光が差し込んでいる。
四角く照らされた絨毯の上には、吸い殻がたまった陶器の灰皿、稜太が毎週欠かさず読んでいる漫画雑誌、成人向けDVDのケース、つぶされた発泡酒の空き缶が散乱していた。
あと味の悪い同窓会の翌朝。
稜太は、すでに目を覚ましていて、窓から続く光のすじの中で、細かい糸くずが漂う様子を見ていた。
アパートの一階の玄関の扉が開いた。
数人が階段を登ってくるきしみが聞こえる。
稜太の胃が、きゅっと縮んだ。
ノックの音。
目覚まし時計のデジタル表示を見ると、8:30。
「ああ?誰だよ…」
稜太は、小さく口に出した。
だが、ノックの主が誰なのか、これから何が起こるのか見当はついていた。
再び、ノックの音。
稜太の胃が、せり上がってきて、吐きそうになった。
ドアを開けて、目に入ったのは父親の顔だった。
その後ろに母親の顔。
そして、大家の稲葉とも子。
事態は、来るところまで来ていた。
悪いのは自分だ。
家賃のために置いておいた現金を、
アイドルのコンサートで使ってしまった。
購入したグッズ類は、部屋の隅に積まれていた。
何も、こんな、鬼のように買う必要はなかったか。
物販コーナーを前にしたら、「どうせ使うなら、全部使い切ってしまえ」となった。
今さら後悔しても始まらない。
昨日、稜太は、家賃の催促に来た大家の娘の幸子の前で、窓からダイブして逃げた。
幸子は、大家である母親に、そのまま事実を報告した。
大家は、稜太に、払う意思がないと判断し、保証人である稜太の父親に連絡した。
家賃が遅れるのは、これで四度目だ。
「しょうがないわねえ」なんて言いながら、
少しくらいは待ってくれるだろう。
そんな稜太の予想は、大きく外れた。
大家は、何度も約束を破った稜太に、完全にブチ切れていたのである。
「稜太…!」
父親は、怒りで声を震わせていた。
あるいは、怒ってる姿を、大家に見せつけるのが目的かもしれない。
昔、父親が俳優を目指していたと知ってから、稜太は、父親が怒ったり泣いたりするのを見て、これは本気なのだろうか、それとも演技なのだろうか、とじっくり観察する習慣がついた。
母親は、父親の後ろで神妙に立っていた。
そのころ大家の娘の幸子は、アパートの玄関を入って、あがりがまちに腰掛けて、事態の行く末に聞き耳を立てていた。
昨日、窓から稜太が、二階の窓からダイブして逃走したことを、そのまま母親に報告したのは幸子である。
こんな事になった責任を、幸子は感じていた。
もう少しやんわりと報告すべきだっただろうか。
「黙って部屋を出て行った」
程度の報告にしておけば、母親も、こんな強行手段に出なかったのではないか。
部屋を出て行ったのは事実だ、嘘ではない。
しかし、言葉をかわす暇もなく、いきなり逃げたのは稜太である。
幸子にしてみたら、意味がわからない。
金を調達しに行ったのか、単純に逃げたかったのか、ギャクか何かなのか。
困惑の行動だった。
幸子は、そこまで気を回してあげる義理はないし、これでよかった、と結論づけた。
幸子の母と、稜太の母親が階段をきしませながら下りてきた。
父親は、稜太の部屋に残ったようだ。
「本当に申し訳ありませんでした。二度とことようなことは…」
稜太の母親が、とも子に謝っている。
両親が家賃を払うということで決着したようだった。
× × ×
部屋に入った稜太の父親が、唐突に背中を見せながら言った。
「おまえ、本当に漫画家になれるのか?」
稜太は、言葉に詰まった。
「それは、俺がいちばん聴きたい」
それが稜太の本音だった。
稜太は、アイドルのポスターだらけの部屋を見られて、情けなくなった。
どう見ても、漫画家を目指している人間の部屋じゃない。
泣きたかった。
壁の中央。
YUIが水着姿で麦わら帽子をかぶってるポスターの下に、
「絶対プロの漫画家になる!」
と書かれた紙が貼ってあるはずだった。
稜太は、その紙の上からポスターを貼ったのだった。
父親には、東京で遊んでいるようにしか見えないだろう。
「もう、田舎に帰ったらどうだ」
父親は、唐突に言った。
稜太は、父親の怒りの感情を読み取った。
背中ぜんたいが、汗で湿った。
「待ってくれ。それは待ってほしい。これからは、ちゃんとやるから」
そう懇願したかったが、稜太は両親の前では、いつも口下手だった。
自分の気持ちを吐露することに、照れがあった。
これまでだって、大事な場面で稜太は、黙って、黙って、両親が察してくれるまで待つやり方だった。
遠慮がちなノックが二回あって、
ドアを開けて、母親が部屋に入ってきた。
肩代わりしてもらったお金も、後でちゃんと返さなくては。
稜太は、そう思った。
父親が、母親に言った。
「なあ、もう稜太、このまま田舎に連れて帰ろうか」
このまま?
嘘だろ。
稜太は、体じゅうから血が抜け落ちたように感じた。
気絶しそうだった。
母親は、壁のアイドルのポスターをぐるり見渡してから言った。
「稜太、おまえ、どうなの?」
稜太は、黙った。
部屋の隅の、ビールの空き缶を入れたレジ袋をじっと見たら、視線を動かせなくなった。
どれだけ時間がたったろう。
父親も母親も、動かなかった。
二人は、待っていた。
稜太が動くしか、なかった。
「待ってほしい。それは待ってほしい。これからは、ちゃんとやるから」
稜太は、最後のほうを、少し強い口調にした。
両親が、ほっとしたような顔をしたように稜太には見えた。
「本当だな」
「うん。必ずプロの漫画家になる」
言うだけなら、誰でもできる。
稜太の頭の中に、そんな言葉が浮かんだ。
大家のとも子は、隣の自宅に帰ったが、
幸子は、まだ一階の玄関にいて、部屋の中の音に聞き耳をたてていた。
ほとんど聴き取れなかったが、稜太が、強く言ったところだけが、かすかに耳に届いた。
そして、音が出ないよう、そっとドアを開けて、出て、閉めた。
稜太の両親は、青森へ帰って行った。
稜太は、ぐったりベッドの上にあおむけになって天井を眺めていた。
稜太は、このとき初めて、
「高い授業料を出してもらって専門学校に行ったのに、漫画業界にも残れなくて申し訳ない」
と思った。