■3 男のロマン
家賃の催促から逃れるため、二階からダイブして逃走した稜太。夜は、同窓会の席にいた。
水谷稜太が自室の窓からダイブして逃走した日の夜、
東京都武蔵野市、吉祥寺の居酒屋「おつまみ屋」に四人の若者が集っていた。
松田憲二、進藤秀明、高瀬智春、そしてダイブ事件の張本人、水谷稜太である。
四人は、都内にある漫画家養成専門学校の卒業生である。
入学した時は、プロの漫画家になる夢を抱いていたものの、現実は厳しかった。
そもそもが才能の世界。
専門学校で教わらなくても、若くしてプロとして活躍する者もいれば、そういう者を、雲の下から仰ぎ見る者もいる。
学校で、一年二年授業を受けたからといって、職業漫画家として生きていくためのノウハウを習得できる訳ではなかった。
入学時は、五十七名いた生徒も、一カ月、二カ月と過ぎるうち、自らの才能に見切りをつけ、課題を提出できなかったり、漫画以外に興味を移したりで、姿を消していった。
結局、卒業まで持ったのは、稜太たち四人を含む、六名であった。
卒業後の進路も、ほとんどがフリーターであった。
松田はコンビニ店員。
進藤は清掃業。
稜太は、ガードマンをしながら、漫画を描いて出版社に持ち込む毎日を送っていた。
唯一、高瀬だけが、プロの漫画家のアシスタントになったのだった。
「しかし水谷さ、まじで勘弁してくれ。俺、進藤と二人で大家さんの前で、どういう顔してればよかったわけ?」
稜太が窓から飛び出して、気まずい思いをさせられた恨み言を言うのは松田だ。
「俺にストレスを感じさせないでくれよ。がんになったらお前のせいだぞ」
進藤は、確実に数年後、成人病を発症して医者から余命を告げられるであろう巨体をぷるんぷるん揺らしながら、日々のストレスに敏感な男だ。
「大家じゃねえし。大家の娘。あいつ、美大出たのに就職できなくて実家でニートやってんだ。だから犬の散歩とか家事とかもやらされてんの。家賃を取り立てにきたのは初めてだったけど。だから、ちゃんと働いてる俺らよりも下の人間なの。ビビんなくていいんだよ」
稜太が、吐き捨てるように言う。
「あー、それよりどうしよう、家賃…」
稜太は、そう言ってテーブルにおでこをつけた。
だが、どこか楽しそうだ。
そんな失敗談も、成功していっぱしの漫画家になった後は、武勇伝に姿を変える。
そんな保険を持っているのも若者の特権だ。
「おまえら楽しそうだな」
生ビールを飲み込んで高瀬智春が、薄笑いを浮かべながら言う。
その姿が、漫画業界で一歩先を行く者の余裕みたいに感じて、稜太はカチンをきた。
「高瀬はどうなの最近、やってんの?アシ」
どうせ、下っ端の仕上げ専門のアシに決まっている。
お前は、俺たち同様、まだ道のりは遠いんだよ、と言ってやるつもりで稜太が、アシの話に振った。
「ああ、やってる。おまえらは?漫画描いてる?」
稜太は、一瞬固まった。
他の二人も、視線をそらし生ビールをのどに流し込む。
漫画など、描いていなかった。
バイトと、アイドルに熱を上げるのに忙しくて、漫画どころじゃなかった。
どうやって執筆時間をひねり出せばいいか、わからない。
いや、それは嘘だ。
時間があったとしても、稜太はやらない。
映画館に行き映画を鑑賞し、本屋をめぐり喫茶店でタバコをくゆらし、
公園を散歩して、一日を潰す。
稜太は、まだ、時間の使い方がわからない若者であった。
「漫画なんて二週間くらいまとまった休みがないと描けるもんじゃねえ。いまは充電期間なんだよ」
「へー、そうなんだ。あ、生、お代わりください」
高瀬が、店員の女の子をつかまえてキリッと注文をした。
さいきん稜太は、考える。
自分は、なんて無価値なんだ、と。
漫画家志望なんて、結局、何者でもない。
若者は、無価値だ。
漫画家志望、小説家志望、学生、ニート、その他なにかの修行中の者。
みんな何かの価値を身につけようと、何者かになろうと躍起になってる。
だけど、道のりは遠い。
はるか遠くに光は見える。
だけどその距離は、永遠にも思える。
若者には無限の可能性がある、だって?
可能性は、誰にだってある。
50歳のおっさんにだって。
× × ×
稜太は、昨日のコンサートを思い出していた。
YUI。
YUIだって若者の一人だ。
だけど価値がある。
ほかの,泥の中でのたうってる何者でもない奴らとは,
比較にならないほどの価値が。
巨大な金を生み出すアイドルなんだ。
何がちがう。
いったい何が。
YUIみたいな人間は、生まれながらにして違うんだ。
でなきゃ、こんなに差がつくはずがない。
稜太は、じっと焼き鳥の皿を見つめた。
才能ある奴らは、そいつらだけで集まる。
俺たちが、そのグループに加わることはない。
稜太は、怒っていた。
× × ×
「はぁ?どゆこと?」
松田の声で、稜太は現実に引き戻された。
何か揉め事らしい。
稜太は、酔った脳みそをフル回転させて会話に集中した。
「あのな、人間、つき合ってる奴らのレベルと同じなるって言うだろ」
「もう、俺らとつき合えないてのかよ」
「いや…、う~ん…」
松田が、高瀬に食ってかかっている。
松田の声は、かなり酔っているように大きかった。
「俺は、世界を変えるような漫画が描きたいんだよ」
「描けねえのを仲間のせいにしてんじゃねえよ」
「してない。時間の問題だよ。酒飲んでる時間に漫画描きたいっつーハナシよ」
「…けど、つき合いって必要だろ」
「遊ばないと、いい漫画描けないって言うじゃん」
「修行中の身なんだからさ、遊びよりも努力に時間を使えよ」
高瀬の言うことは、もっともだった。
誰も反論できなかった。
漫画家志望という立場に安寧をみいだし、つかの間の楽しい青春を謳歌したいだけの稜太たちは、冷や水をぶっかけられた。
喧嘩別れのようにして高瀬と別れた三人は、黙って稜太のアパートへの道を歩いた。
「もう、高瀬とは会わないのかな」
「どうかな」
「アイツ、頑張って、デビューするかな」
「どうかな」
「デビューして売れっ子になったら、もう会わないよな」
「………」
「売れっ子になって、アニメ化したらどうする?」
「俺は、売れっ子になんかなりたくない」
松田と進藤は、稜太を見た。
「何言ってんだ、おまえ」
「売れっ子なんて、最悪だろ。忙しいし」
「当たり前じゃん」
「忙しくて眠れない。人間の生活なんで出来なくなる。俺たちは人間だ。漫画家である前に人間だ。忙しくて眠れなくて、眠いのに起きて漫画描かなきゃいけないなんて嫌だ。年収何億でも、遊びに行く時間がないなんて嫌だ。通販でいろいろ買っても、届いたダンボールを開ける時間もないなんて嫌だ。彼女がいても、会う時間がないなんて嫌だ。」
稜太は、一気にまくしたてた。
松田と進藤は、黙って聞いていた。
「じゃあ、どうするんだ。漫画家志望やめるのか?」
松田が、静かなトーンで聴いた。
「わからない」
先の見えない三人は、夜の街を、身を寄せ合うように歩いた。