■2 ひとり暮らし
家賃に払うはずの現金を持って、アイドルのコンサートで散財してしまった水谷稜太だが…
六月一日。
コンサートの翌日。
水谷稜太のアパートの部屋に、漫画専門学校時代の同級生、松田憲二と進藤秀明が来ていた。
松田は、中肉中背、天然パーマに銀ぶちメガネをかけた神経質そうな男だが、進藤は巨漢で、体重は100キロを超える。
稜太は、進藤がこの部屋に入るたび、畳とその下の敷板がめりめりと音をたてて破れて、一階の部屋の住人の上に落っこちるところを、必ず想像した。
稜太の部屋の壁には、アイドル歌手YUIのポスターがびっしりと貼られていて、もともとの壁は、ほとんど見えなかった。
ベッドの上には、昨日のコンサートの戦利品であるグッズの数々。
「これ、ぜんぶ昨日のコンサートで買ったの?」
「そう」
「いいお客さんだよな、水谷って…」
あきれる二人に稜太が言う。
「いいかおまえら、そもそも金というのは仮想通貨なのだ。お札ってのは、単なる紙なんだぞ。見ろこれを」
そう言って稜太は、昨日の戦利品を手にとって持ち上げた。
「この写真集、ポスター、卓上カレンダー、ぜんぶ紙だろ。俺は紙を紙と交換したにすぎぎない。しかも、より価値の高い紙にだ。おまえら野口英世の写真集とYUIの写真集どっちが欲しい?どっちの価値が高い?わかるよな、この理屈が」
松田と進藤は、お互いの顔を見た。
「野口英世の写真集……いや、どうかな」
進藤は、野口英世写真集が、どういう種類のもので、どんな年齢層をターゲットにしたものなのか、上手く想像できなかった。
「これは、お金のやり取りじゃない。価値のやり取りなんだよ。俺は、手元にある一万円を、グッズを買うことによって、YUIの儲けに変換した。俺の中にあるものを、YUIの中に移したんだ」
二人は、黙って聞いていたが、松田が口をはさむ。
「いや、そうだよ。それが物を買うって行為だから」
「そうだ、それは、ただの買い物ってことだ。偉そうに言うな」
進藤も同調する。
稜太が手持無沙汰になって、ベッドの上の戦利品を片付け始めた時、部屋のドアがとんとんとんとんと四回鳴った。
松田と進藤の間をすり抜けて、稜太がドアを開けた。
「はい」
廊下には、大家の娘、幸子が立っていた。
細身の体型に、ショートボブの髪型を少し茶色に染めて、黒ぶちのアラレちゃんメガネをかけている。胸のところに「23」と書かれた、薄手の七分丈の丁シャツを着ていて、下はだぼっとしたジーンズ姿だ。
部屋の中の松田と進藤は、ぱっと見、わりと可愛い幸子を見て「おっ、誰?」と、身を乗り出した。
「あの」
「はい」
「家賃。四万六千円、まだもらってないんですけど。いただけますか?」
昨日、母親のとも子が、娘の幸子に頼んだ仕事というのは、水谷稜太から家賃を回収することであった。
母親は、取り立てするときの決め事を、娘に聞かせた。
「お金がないと言ったら、いつならあるのか、いつまでに支払うのかをはっきりさせること」
「約束した日は、必ず守らせること」
「取り立てをした日時、その結果、どうなったかを、毎回かならず報告すること」
などである。
幸子は、アパートの店子に応対するのは、とてつもなく面倒で気が進まなかったが「家賃の取り立て」という響きは、なんかカッコいいと思った。
幸子が家賃のことを口に出した瞬間、稜太は、まわれ右をして床を蹴って走った。
一瞬のことで、幸子には、何が起きたのかわからなかった。
部屋の中を数歩走った稜太は、開けていた二階の窓から外に飛び出した。
幸子も、部屋の中にいた松田と進藤も、驚きでぴくりとも動かなかった。
数秒の間、時間が止まったようであった。
空中に舞った稜太の背中は、気がつくと消えていて、下でかすかな音がした。
稜太は、一階の狭い庭に植えられた生垣をクッションにして着地すると、
裸足のまま走って10メートルほど先の角を曲がって消えた。
稜太の部屋に残されたのは、松田と進藤、そして稲葉幸子の三人だ。
三人は、二階の窓から、稜太が消えた曲がり角を眺めていた。