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■1 コンサートの夜



原宿の駅を出ると、暮れかけた赤い空が見えた。

なぜ地球の空は、こんなにも美しいのだろう。

地球の空が美しいのか、それとも人類が、地球で進化を繰り返したあげくに生まれた種族だからそう感じるように出来ているのだろうか。

水谷稜太にはわからなかった。


夕焼けをバックに、代々木第一体育館が見えた。

今日、五月三十一日。

坂道JPグループの合同コンサートが、この奇抜な形の屋根を持つ体育館で行われる。


水谷稜太は、グループに所属する地蔵坂四天王という四人組のアイドルに、のめり込んでいた。

地蔵坂四天王は、REI、KEI、AI、そしてYUIからなる四人組アイドルである。

稜太は、その中でもYUIが好きだった。

すらりとした長身。幼さの残る顔だち。エクササイズで鍛えた体には筋肉のすじが見える。ときおりエロティックな表情をするところも、稜太には、たまらなかった。


稜太は、朝から晩までYUIの事を考えながら暮らしていた。

寝ている間も、見るのはYUIの夢ばかり。

YUIと並んで散歩をし、好きな食べ物の話をする。

YUIとコタツに脚を突っ込んでみかんを食べる。

そんな夢を見て、幸せいっぱいで目覚めるのであった。

起きてからは、壁にすき間なく貼ったYUIのポスターを見つめ、これまで三冊出版されたYUIの写真集を一通りながめる。

そのあげくに、出勤時間を忘れてバイトに遅刻する、そんな毎日だった。


稜太が、最近の、YUIとIT長者、猿田社長との熱愛報道を聞いたときの怒りようといったら尋常ではなかった。

街の街頭テレビで、その事実を初めて知った稜太は、体じゅうの血液が逆流を起こしたようになって気が遠のいた。

さらに、夜の街で体を寄せ合いながら、歩き見つめあい笑顔を見せる映像まで流れたものだから。

次の瞬間、稜太は、腹の底から湧いてきた怒りのかたまりをおさえられず、口から吐き出した。

怒号はビルの壁に当たって反響し、広場にいた全員を一斉に振り向かせた。


「俺がYUIとつき合って結婚するつもりでいたのに。裏切者」


熱狂的な男性ファンの多くが抱くような自意識過剰な思い込みを、稜太も持っていた。


そのあと稜太は、

「コンサートなんぞに金を落としてやるものか。CDも、もう買わない」と本気で思った。


コンサートに行くとなると、チケットを入手しなければならない。

終了後には、グッズショップでいろいろ買って帰りたい。

ようするに、現金を準備しておかなければならないのである。

稜太は、それらを一切しない事で、コンサートへ行かないという意志をあらわしていた。


だが、コンサート前日。

テレビで、YUIが出演するCMを目にしてしまった。

稜太は、唐突に、急激に、瞬間爆発的に「行きたい!」と思ってしまった。

目を逸らしていたYUIへの愛が噴出した。押さえられなかった。

「ごめん。俺が悪かった。やっぱり君がいないとだめなんだ」

稜太は、支払うはずの家賃をジーンズのポケットに突っ込んで、代々木第一体育館までやってきたのだ。


「家賃はどうする?今日払わないと、大家がまたぶち切れる」

そんな不安を振り切って、稜太は、原宿にいた。

「何かを手に入れたければ、何かを捨てなければならない」

稜太の理屈は、いつもとんちんかんで、間違っていた。



       ×       ×       ×



同時刻。東京都武蔵野市。

吉祥寺駅から十分ほど歩いた辺り。

西荻窪と吉祥寺のちょうど中間あたりに、木造モルタル二階建てのアパート「いなば荘」があった。

部屋ごとに簡単なキッチンはあるが、トイレは共同。

玄関で靴を脱ぎ、靴を手に持って部屋に入るシステムだ。

最近ではあまり見ない、昔ながらの古いアパートである。


玄関を入ってすぐの階段をのぼって、二階のいちばん手前の部屋。

ドアの横には、厚紙にマジックで殴り書かかれた「水谷」という文字。

その前に、一人の女性がたたずむ。

いなば荘の大家、稲葉とこ子である。

とも子がドアをノックする。

返事はない。

とも子の大きなため息が、暗い廊下に響いた。


アパートの住人は、翌月分の家賃、四万六千円を、前の月の末日までに、隣に建っている大家の自宅まで持ってくる決まりだった。

住人は皆、そのルールを守っている。

今日は、五月の三十一日、末日である。

今日一日は待つつもりだったが、もう日が暮れる。

この時間までに、家賃を持ってこないということは、今日中の支払いは出来ないということなのだ。

稜太は、これまで三回、家賃を滞納したことがある。どれも同じだった。

遅れるのならば、前もって言ってくれれば、心の準備もできようものだが、いきなりすっぽかすようにして支払いが遅れるというのが、稜太のパターンだった。

そして何よりそこが、とも子の怒りをかっている部分なのだと、稜太は気づいていなかった。


とも子は、約束を破る人間を心底嫌っていた。

そんな人間には、いっさい関わりたくなかった。

だが、アパートを経営している以上、そうも言ってはいられない。

それが、とも子の憂鬱の種でもあった。




とも子がアパートを出たところに、娘の幸子が、ちょうど犬の散歩から帰ってきた。

「お母さん、なに、どしたの?」

とも子がアパートに入るのは、何か問題があった時だけである。

幸子は、不穏な空気を感じた。


「水谷さん」


「また?」

幸子が、その名を聴くなり嫌な顔をした。

「なめやがって、あの男」

とも子は、ときどきヤクザのような口をきく。


稜太が家賃を滞納するたび、とも子はブチ切れて、その辺にある物を壁に投げつけて破壊した。幸子は、母親の怒りがおさまるのをじっと待つしかなかった。

ガラス製品やらプラスティックやら、かまわず母が投げつけるので、物は粉砕し、破片が飛んできた。

幸子は、とにかく破片が危険なので、目にだけは入らないように手で顔をおおっていたのだった。

三回目に稜太が滞納した時は、最後には、チロルを両手で頭の上に持ち上げて壁に向かって投げつけた。

チロルが、ぎゃんと言ってぐったりしたので、すぐに近所の動物病院へ連れていったら、ぶつかった衝撃で脚を骨折していたのだった。

稜太は、自分がしでかした「家賃滞納」という犯罪が、稲葉家に大変な騒ぎを引き起こしていることをまだ知らない。

単なる「若気の至り」くらいにしか考えていないのだろうな、と幸子は推察していた。

自分と同じ年代の男子が考えることは、容易に想像がつく。

若いころ、周囲の大人たちに迷惑をかけたなどと、自慢話のように語るかつてどうしようもなかった大人たちのせいで、いま、自分の家庭が大変なことになっている。

幸子は、母親同様に、だらしのない男が大嫌いになっていった。


幸子は、チロルを守るように抱き上げ家に入ると、箸のようなチロルの脚先を、雑巾でちろちろと拭いた。


追って玄関に入ってきたとも子が、幸子に切り出した。

「ねえちょっと、幸子、あんた、仕事を頼まれてくれない?」


幸子は、嫌な予感しかしなかった。

母親が幸子に仕事を命じるのは、誰がやっても結果は同じな場合か、やりたくない面倒な仕事だ。働きもせずに実家に住まわせてもらっている手前、幸子は、承諾するしかなかった。


       ×       ×       ×


コンサート終了後、稜太は、体育館の玄関前に設営されたグッズ売り場にいた。

中途半端はいけない。どうせ家賃を使い込むのだ。電車賃だけ残して、全部使い切るんだ」

稜太は、歯止めの利かない暴走列車と化していた。


美しい夕焼けは、夜空へと変わり、渋谷の繁華街の灯りで、下のほうは、うっすら白んで見えた。



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