プロローグ
遠くに見えるなだらかな山の稜線から、太陽が顔をみせる。
農園の朝。
鶏小屋からニワトリたちの鳴き声が聞こえ、スタッフが無言で動きだす。
農園では、たくさんの野菜が育てられていた。
キャベツ、レタス、ニンジン、タマネギ、じゃがいも、かぼちゃ、すべて無農薬。
ここは、とあるIT企業の社長が、広大な自宅敷地内に作った農場である。
贅沢に栽培された収穫物は、すべて社長の邸宅に運ばれ、経験豊富な料理長の指揮のもと、最高の朝食へと姿を変えるのだった。
猿田猿男の寝室は、二十畳ほどの広さの洋室である。分厚い遮光カーテンのせいで自然光はないが、柔らかい間接照明が部屋全体を照らす。
昨夜、猿田が眠りに落ちたままの状態である。
猿田は目覚めると、ゆっくりとベッドの上に身を起こし、枕元に置かれた白いリモコンに触れた。
高い位置にあるカーテンボックスから吊り下げられたカーテンが、低い摩擦音でスライドしはじめる。
東向きの窓から、力強い太陽光が差しこむ。背中を丸めてベッドのへりに座る男の体が光の中へ飲み込まれる。
この男が、農場を含む豪邸の所有者であり、社長の猿田猿男である。
猿田の隣で丸まった布団がかすかに動いた。長い黒髪。女性。
朝日の中で猿田はつぶやく、小さな、小さな声で
「俺は、がんばった。俺は ここまで来た。俺は、やった」
呪文のように、何度も、何度も。
白い壁に朝日が反射して、部屋全体が白く発光していた。
猿田が、ストレッチ、マッサージ、軽いエクササイズ、シャワーと朝のルーティンを一通り終えてリビングに入ってくるころ、朝食の準備が終わった。
白い食卓テーブルから、白い湯気が立ちのぼる。
炊きたての玄米と、数時間前に生み落とされた鶏卵、鮭の焼き魚、納豆、ネギ、どれも無農薬で安全な食材ばかりを集めた特別メニューだ。
家政婦たちが部屋を出ていくと、真っ白なソファでタブレットを操作していた女性が立ち上がってテーブルへ近づく。猿田と同じベッドで、毛布にくるまっていた女性である。
立ち姿は、細い。
女性は、そんな朝の風景を、スマートフォンで撮影していった。
猿田が写り込んでも、お構いなしだ。猿田も、女性に向かってVサインをしたりしている。
女性は、猿田との朝食を食べ終えると、ゆっくりする暇もなく身支度を始めた。
そして、猿田に挨拶をして抱擁とキス。
女性が玄関ドアを開けると、スポーティーな濃紺のリムジンと、その運転手が軽い会釈とともに待っていた。
乗り込む女性。
バムッと閉まるドア。
リムジンが、静かに動き出す。
同時に女性のスマートフォンが鳴る。
「ウィッスー。了解。いま向かってまーす。はーい」
透き通る肌、脂肪が一片もない身体。
大きめのスウェットの上下を着て、その上からダウンのジャンパーをまとっていても、シャープな体つきは隠せない。
ひと言ふた言話して電話を切った。
女性がタブレットに手を伸ばして操作する。
ネットニュース
「地蔵坂四天王YUI 猿田社長と六本木ヒルズでデート」
掲載されている写真には、白い豪邸の主と、タブレットを操作している女性が写っている。
女性は4人組のアイドル、地蔵坂四天王の一人YUI。
車内のミニテーブルには、今日発売の週刊誌がずらり並んでいる。
その中の写真週刊誌を手にとって開くと、タブレットと同じ記事が白黒の写真入りで掲載されていた。
サングラスをかけた女性と、さきほど朝食を一緒にとっていた男が写っている。
女は無表情でそれを眺めている。
リムジンがテレビ局地下の関係者専用出入口の前にすべり込む。
この日は、番組収録の仕事だった。
テレビカメラの前で、内容のないお喋りを数秒してから踊って歌う仕事である。
歌は口パクなので念入りに発声練習をしなくていいので楽だが、その分正確な振り付けがキモになってくる。気は抜けない。
その日は夕方までに、CM撮影。ファンとの握手会。ファッション誌の撮影&インタビューというスケジュールが組まれていた。
夕方、コンサート会場入り。
たくさんのスタッフは、全員気合が入っていて動きに無駄がない。
今日のコンサートは地蔵坂四天王が所属している大きなグループ、
坂道.jpの定例コンサートである。
始まりの合図とも言える曲のイントロが、ひときわ大きな音で鳴り響くと、観客のテンションは一気にMAXへと持ち上げられた。
YUIは、まぶしそうに眼を細めながら、あふれる光の中へ歩み出て行った。