第1話 過去
生ぬるい感触。
赤い水溜まりはその侵食の手を緩める事なく、フローリングの床を徐々に染めていくのと同時に、自分の体も吹き出している液体を体中に浴び、その臭いに、感触に、その現実離れした現状に動くことができなかった。
いや、きっと脳が現状把握を拒んだのだ。
こんな状況を否定したかった。
こんな状況を認めたくなかった。
肯定したくなかった。
知りたくない。
知らない。
僕は何も悪くない。
顔をあげるとそこには光を宿していない、比喩でもなんでもない。
死んだ目が自分を覗いていた。
「……っ!」
目を覚ました瞬間胃から何かが押し上げてきて、トイレに駆け込んだ。
喉が熱い、口の中を苦い液体が占領し、再び吐き気をもよおす前に水道水で洗い流し、洗面台の鏡を見た。
髪は荒れまくり、目の下には深いくまがあり、肌の色は土気色にほんの少しだけ赤を混ぜたような色をしていた。
酷い顔だ。
自分の顔にげんなりしながら、時計を見る。
時計は就寝時間から2時間程経った時間を指しており、体も寝足りないようで倦怠感をまとっている。
眠りに戻れるような気はしないし、戻れたとしてもまた悪夢を見そうだったから、ベッドから手が届く距離にある本棚に手を伸ばし、適当なものをとると、部屋の明かりをつけて文字を追った。
いまだに慣れることができない、多分ずっと慣れないし慣れたくもないこんな日常は、自分には退屈であり、最悪であり、最低であり、どうしようもなく、疲れてしまっていた。
カーテンを開けると空には町の光に消されまいと光る星が少しだけあがくようにきらめいていた。
その様子がなんとなく気にくわなくてカーテンを閉めてもう一度文字を追った。
読み終える頃にはきっと朝が来てるだろう。
○●○
何もかもが変わってしまった。
あの時の私にとっての正解はなんだったのだろう。
どうすれば良かったんだろう。
ベッドに座り、何かを考えるように天井を見上げながらも結局何かを思いついてもそれはもう手遅れで、今さら戻れるような状況でもないのに、それでも未練がましく考え続けてしまう。
スマホを手に持ち、今ではほとんど全ての人がダウンロードしているであろう無料コミュニケーションアプリを開け、フリック入力で、文字を打つ。
けれどその文字は送信されることなく消されてしまい。また別の文字列は入力途中で消されてしまう。
もう戻れないのだろうか。
他のどんなものを捨ててもいいと思えた尊くて楽しかったあの日々……とまでは言わないけれど、それでもどうでもいいことで笑いあえて、お互いの悩み事をお互い話し合って、笑ったり、泣いたりしてきて、けれどたった一つの出来事で、何もかもまるで最初から無かったかのようになってしまった。
もしかしたら自分が今しているのはこれからの事のためなんかじゃなくて、これまでがそんな薄っぺらなものだったなんて思いたくないから必死に足掻いてるだけなのかもしれない。
ふと、窓の外に輝く星が目に入った。
人工光にかききえそうになりながらもそれでも輝こうと一生懸命頑張っている姿を見て、意を決して入力する。
それは今までのように消されることはなく送信された。
送った後に不安を感じてしまうがそれでもこの状況が続くのは嫌だから。
ベッドに倒れて目をつぶっても眠気はなかなか来ず、時計の秒針の音だけが部屋に響く。
きっと間違ってなんていないのだ。
○●○
時間はどれ程願っても戻ってはくれないし、止まったりしない。
あったことは無かったことにはならないし、無かったことも同様にあったことにならない。
日曜日の夜に月曜日が来ないようにと願ってもデジタル時計は0:00を示すとともに曜日表示を(日)から(月)へと無慈悲に変えてしまう。
そんな風に時間とは数億人の願いを無視し地球の自転に逆らわず進んでいく。
月曜日の朝がくる度に同じ事を考えている気がするが、もうもはやルーティンみたいなものである。
洗面台の前に立ち、夜よりはましになった顔を洗うと、台所に行き適当な材料を冷蔵庫から出す。
食パンをトースターに入れ、フライパンに油をひくと卵の殻を割ってフライパンの中に落とす。ついでにベーコンも落としとく。
適当に焼いて皿に盛り付け、トマトを横に添えるとタイミングよくトースターが音を出した。
テレビをつけると朝番組が昨日誰々のライブがあったやら、何処其処のパン屋が人気やら言っているのをぼーっと眺めている。
こういうお店って大体都会にあるから徳島にいる人が行ける場所じゃないよなぁとか思うだけ。
部屋に戻り制服に着替えると時計は7:20を示していた。
都会には無いと聞いたことがある朝補習が我が校には7:50に有り、間に合うように早めに玄関で靴を履き、ドアを開け外へ出る。もちろん鍵を閉めるのを忘れない。
新しい生活が始まって楽しみだとか、将来やりたいことだとか何も見いだせず、五月の風にまだこんな現状を認めたくない僕、四季湊はアパートの一階に降りると自分の自転車の鍵を開け、またがった。
あの日から何も感じられなくなった。あれだけ面白かったテレビ番組もゲームも小説もあの日からどれも僕には何もくれなかった。
あの日、僕は大量の何かを失った。
○●○
学校から帰り、宿題のやる気も出ずに適当な小説を本棚から抜き出してベッドに座り文字を追っていた。
その日は学校の先生達の会やら何やらで学校は昼までに終わり、友達が少ない自分がすることなんて家に帰る事ぐらいで手持ちぶさたにしていた。
小説を読んでいるのも宿題をやる気が起きるまでの暇潰しだ。
数十ページ読んだあたりでふと物音が聞こえた。
両親は仕事で家におらず、それに自分の昼ごはんも母さんが用意しておくと言っていたので普通今の家には僕しかいないのだ。
疑問に思いキッチンを観てみると人影が見えた。
母さんにしてはがたいがよく、父さんにしては小さい人影はさっきから家のあちこちを荒らしているように見えた。
それが泥棒だと気づくと体が言うことを聞かなくなった。
四肢は震えて喉は張り付いたように荒い呼吸の音しか出せず声を出すこともできなかった。
長い時間、いや、実際には短い間だったろうがそんな状態の僕はそれを長く感じていた。
体が動くようになったのはその人影が別の部屋に行ってからだった。隣の部屋ではまた何かを探すような音が聞こえてくる。
ばれないように静かに玄関の方へ歩いて行く。
心音がうるさく耳鳴りもした。
頭もガンガンとうるさくそれでも息をひそめながらゆっくりとドアに手をかけるとさっきまでしていた音が一瞬なくなったように思えた。
世界から音がなくなったように耳が痛いほどの静寂だった。
隣の部屋でしていた物音がなくなっていた。
自分以外の足音もなくなっていた。
ドアを開けて、靴もはかずに走り出して周りに助けを求めれば良いのに、僕はその時、後ろを向いた。
人影はすぐ後ろに立っていた。
急いでドアを開けようと押すと鍵のかかったドアはガタガタ音を立てるだけで開こうとしない。
腕を捕まれ無理やりドアから引き剥がされ、放り投げられた。
リビングの椅子を巻き込みながら倒れると人影はゆっくり近づいてきた。
近くのものを使ってなんとか立ち上がりなおも声が出ない中、近くのものを片っ端から投げて距離を取ろうとする。
けれど着実に両者の間はなくなっていき、押し倒される。
何もできず、必死に手に触れた何かを取り振り回した。
それからはよく覚えていない。
気がついたのは病院のベッドの上だった。
覚えていたのは手に残る嫌な感触と鉄の匂いだった。
認めたくなかった。
全部嘘だと思いたかった。
こんな現実肯定なんかしたくなかった。
誰かに否定してもらいたかった。
けどそれはまぎれもない事実で
変えられない真実だった。
それからだ。
僕の世界は色を失った。