第五話 蓮の花
第五話 蓮の花
比較的平和に終わる一日だと思っていたのに、最後の最後にとんでもないことを押し付けられたものだと思う。
油断大敵とはまさにこのことかもしれない。
「それじゃあ、秋山、頼んだぞー!!」
先ほどまでの弱気はどこへ行ったのか。永田はブンブンと大きく手を振りながら颯太を見送る。
颯太は返事をする代わりに、勢いよくドアを閉めた。一息ついて心を落ち着かせた。
「はあ……」と本日何度目か分からないため息をつく。思いのほか足取りが重い。
しかし、頼まれればやることはやる。
生粋のめんどくさがりではないと自負しているが、何かこう、腑に落ちない。完全に使われてる。
何とも言えない不満な気持ちを抱きながら玄関で靴を履きかえる。砂が制服に落ち、手で払う。散々だ。
玄関口からこぼれる朱色の光が横目に見える。藍色と朱色のみに染められた世界は「黄昏時」を表す。
様々な色が存在するこの現代でこの2色だけに全てが染められてしまうというのは、自然の偉大さを感じる。
朱の世界から一歩、藍の世界に霊が現世を渡り歩く。それが夕暮れ時、この時間に起きる現象だ。
下駄箱と下駄箱の影の間から俺に向かって無数の手が伸びてきている。見えないからこそいいかもしれないが、
はじめてこれを見てしまえば誰もが驚きわめくだろう。
あるいは失神なんてこともありうる。
俺はその存在にわざと触れて通る。何かの鳴き声かうめき声のような甲高い声と共にその手たちは消えてしまった。
これで奴らはしばらくは出てこない。アフターケアに自身はないが。
グラウンドでは野球部とサッカー部などの運動部が活発的に活動していた。
各部の掛け声とともに、吹奏楽部の演奏が宙に響き渡る。早乙女さんも今頃演奏しているのだろうかと考えていると、
不意に、風とは違う何かが体の奥をすり抜けていった。今すぐここから立ち去りたいほどの気味の悪い視線を感じた。
まとわりつくような視線が体を蝕んでいく。示唆されるように気配の先に目を向けると、そこには旧校舎があった。
夕日をまとった旧校舎にどこか時代を感じた。味のある美しいものだと人は言うが、それに負け地を劣らず、
黒いもやが今か今かと飲み込もうとしていた。
「うげ…」
と思わず、声を漏らしてしまう。中央に飾られた校章は色が抜け落ち、時計は時を止めたままその針は動こうとしない。
この姿を地元の人間は「美の風景」やら「文化遺産」やら言うが、俺としては、さっさとこれを取り壊すか、
お祓いをしてもらうかするべきだと思うが、そんな意見は聞き入れちゃくれない。
颯太は霊と妖と目を合わせないように旧校舎玄関口へと向かった…。
こげ茶色にくすんだ玄関の引き戸に手をかける。木のくずが詰まっているのか力を入れないとうまく開かなかった。
「失礼しまーす…」
仮にも校舎だった場所に「失礼します」というのはおかしなものであるが、こうすれば霊や妖が近くにいるのか確認できるのだ。
反応があれば自分を凝視してくるというのが颯太の持論であった。声をかけられたら、声のしたほうへ向くのは
人間も霊も妖も皆同じなのだ。
玄関は今と構図は対して変わらなかった。相違する点があるとすれば下駄箱が木材でできていたことくらいだ。
そこにつもったほこりがこの後者の歴史を物語っている。
年季のはいったガラス戸からはいる光が木によく映える。ヒビの入った隙間にも光が届き、
その形状が光と影のコントラストで表現されていた。
下駄箱に少し手を触れてみると、音もなくもろく砕け散ったので、むやみやたらに触らないほうがいいだろう。
一瞬、靴を脱ぐのかためらったが、足元には割れたガラスの破片や、木のささくれが所々目立っていたので安全を考慮してそのまま上がることにした。
キシキシと床が軋む音に妙な冷や汗をかいてしまう。一階にいるとはいえ、
急に足場がなくなって落ちるということはないだろうが…何せ、昔の建物だ。
構造がどうなっているか明確になってはいないなのだから油断は禁物だ。
「なんでこんなにボロボロになってまでも保持しようとするのか…」
ぶつくさ文句を言いつつ、颯太は先ほど永田から渡された紙を開いた。
メモ用紙を一枚切り取った手のひらサイズのそれには、それらしい案内図は書いてあるものの、
本当に大雑把で、最低限の目印しか書かれていない。
これでどう理解しろって言うんだ。
颯太は思わず顔が引きつってしまう。永田の画力は、悪い意味での画伯並みだ。
…まあいい、早く済ませて帰ろう。
書かれた道順に沿って歩いていく。颯太が進む廊下は太陽の光が入らない薄暗いところだった。
森を背にしているため、ほとんど光がはいってこない。電灯のスイッチを押してみたがつかなかった。
「電気止めてるのなら先に言えれよ、先生…」
仕方なく、ポケットからスマホを取り出し懐中電灯代わりに使う。電池がまだあることが唯一の救いだ。
格子状になった窓ガラスがやけに頼りなく感じる。隙間風がガラスに打ち付けながら音をたてている。
床や壁のきしむ音、隙間から漏れている風の音、どこまでも続く薄暗い雰囲気。
恐怖という条件が全て揃っているいる中、颯太は今まで気づかなかった、一番恐怖なものに気付いた。
「…そういえば、あいつら…どこにいるんだ?」
そういう颯太の声には誰一人と返事をしなかった。
…そう、人間だけではなく、霊や妖、悪霊の声さえも…。
「充電が持ってくれるといいが…」
基本的に一日で使い切ることはないが、ライトの機能は電池の消耗が激しい。
床が抜けないか確認をしながら歩いているため、普段よりも足が遅い。階段を上るのにも一苦労だ。
いつもだとこの辺から奴らが脅かしてきそうなものだが…。奴らの気配すらどこにもない。
隠れていようがわかるものには気配くらいはわかるのだ。だからこそれなりの対処をもできるのだが…。
ここは不気味なほど気配がない。気配がないどころか、そもそもここにはいないんじゃないかと思い込んでしまうくらい何も感じない。
ここまでくると逆に気味が悪い。うちやしっかりとした神社や寺の人間は多少なりとも何かは感じるはずだが…こうなると少し違和感がある。
案内図(仮)によれば、階段を上がって消火器を起点として右に曲がって突き当りにあるようだ。
二階は一階に比べると僅かに光が入っているため、暗闇に目が慣れた今ではとても見やすく感じる。
かなり時間をかけて登ったはずのに太陽が沈む気配は全くない。黄昏時こそ時間がゆっくり流れるというがまさにこのことだと思う。
一階に比べ二階の足場は意外としっかりしていた。穴もなく、ガラスの破片もない。少しほっとして胸を下す。
だが、二階に上がったところでも奴らの気配はない。
まあ、いなければいなで邪魔されずに済むので一向に構わない。
廊下を進むと、薄汚れたプレートに『資料室』と書かれていた。
扉の何か所か穴が開いていて、向こう側がすり抜けていた。取っ手が悪く、開けるのに相当の力が必要だった。
ガラガラッと開けると、中は日の光が入るのか廊下に比べてとても明るかった。
それぞれ分類別に分かれていて、図書館用に整理されいた。大きな段ボールや膨れ上がった紙袋が床に散乱しており、歩くのには人一人がやっとであった。
しばらく換気されていなかったのか、埃が宙を舞った。
袖口で鼻先と口元を抑える。ハンカチを教室においてきてしまったのが悔やまれる。
ガサガサッと、いつの時代か分からないプリントの上を踏みしめた。
紙が重なっているため、滑りやすくなっている。
気を付けないと二次災害になりかねない。颯太はそう思いながら慎重に歩を進めた。
「…んで、こんなにここだけ狭いんだよ…!!」
両手を挙げてスペースを最小限に抑えながら進む。スマホが手元にあるため足元がどうなっているかはわからない。
これのどこが文化遺産なんだよ…!せめて校舎ないくらいは整理しておけっての!と怒ったところでむなしくなるだけだった。
手前から順番に本棚を見ていくが、目的のものは全く見つからない。文字がかすれていて読めないところもあるため隙間に入りながら一段ずつ確認する。
こういう律儀なところが颯太の長所であり、短所であったりする。
流れに沿って、最後、奥の棚に差し掛かっな時、突き当りの壁に何かが張り付けられているのが分かった。
そこだけ日の光が綺麗にあたっていた。近づいてみると、それは小さなもので、例えるならばお札だった。
20センチほどの長さで、札には『蓮の花』と奇妙な文字列が並んでいた。
「…なんで札がここにあるんだ…?」
剥がさないように手に触れてみるが、どこからどう見てもただのただのお札だった。
札は親父や弟子さんたちがよく使っているので見たことはあるが、この手のものは見たことがなかった。
札には自分たちが貼ったという証にそれぞれ家柄を表す、今でいうモチーフ的なものを入れている。
そういうお札は一般的に出回ることはない。
家柄を表すお札は、それだけ大きな力を押さえつけるために使うので数自体は少ない。
それゆえに、ここにお札が貼られていることが不思議に感じてならない。
お札は薄汚れて今にももろくなっていたが、描かれていた蓮の花だけは綺麗に残っていた。
「蓮の花…」
ふと、復唱するように確認する。札を張るというのはうちの家系と同じく浄霊師の家にあたるのだ。思わぬ発見だった。
しかし、何かがこの旧校舎であったわけだから浄霊師がここに札を張ったんだろう。札を張る程度の何かが。
あながち…旧校舎の噂話は嘘ではないことを確信した。鬼たちの話はただの井戸端会議ではなかったのだ。
それにしても劣化がひどい。まるで何年もほったらかしにされていたようだ。親父からかじった知識ではあるが、
そろそろ張り替えないと大変なことになるだろう。札は貼ったらそのままではなく、定期的に張り替えを行わないといけない。
古い札を貼り続けていると逆に悪いものを呼び寄せてしまうのだ。この先、貼った本人が現れないようなら親父にでも相談してみよう。
そう思いながら奥の棚を除くと一番上の棚に目的のものが見つかった。埃にかぶってはいるがちゃんと『数学』と文字が書かれていた。
「うっし…!あった!」
思わず声を出してしまった。手元に収まればもう帰れるのだ。精一杯に手を伸ばす。
しかし、ここで悔しいことに身長が微妙に足りず、少しだけつま先を立てる。「あと少し…あと少し…!」と
ふらつきながらも、手が届いた。手首を使い、力よく引っ張り出すと無事にとることができた。
これであとは来た道を足早に戻るだけだ!と生きこんだのも束の間、颯太の上から大きな影が襲い掛かっていた。
グラグラと揺らめくそれは、颯太に警告音を出していた。が、それに気付くのが遅れた颯太は、目を丸くしてそれを見つめた。
「…え?嘘だろ…?!」
それから逃げることができず、颯太はなすすべなく、ただ情けない声を上げる事しかできなかった。
「うわあぁぁぁぁあああああああ!!」
…その颯太の叫び声はとある少女の耳元に届き、彼女は足早に声のしたほうへと走って行った…。